幕間30 ちよは、直成が一人で抱えてきた秘密を聞く
建久十年(1199年)、鎌倉。
「聞いてほしいことがあるんだ」
直成さんは、そう言ったきり黙っていた。
ちよも、返事を急がなかった。
子どもたちは隣の部屋で眠っている。家人も下がり、この部屋にいるのは二人だけだった。
直成さんの手を握っていると、ときおり指に力が入った。
言おうとしている。
けれど、言えない。
ちよは、その手を握り返した。
「はい。直成さん」
直成さんは、ゆっくり体を起こした。
ちよも起き上がり、向かい合って座った。
泣いたあとの目が、灯りの下で赤く見えた。
「ちよさんは、僕と会う前のことを、あまり知らないでしょう」
「ええ」
「僕も、話さなかった」
ちよはうなずいた。
広元に見いだされ、頼朝に仕事を任されたことは知っている。
けれど、その前のことは、断片しか知らなかった。
直成さんには、話しにくいことがあるのだろうと思っていた。
直成さんは、握った手を見た。
「話してしまったら、ちよさんが、僕をどう見るか分からなかったんだ」
ちよは直成さんの顔を見た。
「今も、分からないけど」
その言葉のあと、直成さんは初めて、ちよの目をまっすぐに見た。
「僕は、この時代の人間ではないんだ」
*
ちよは、動かなかった。
直成さんの声も、言葉も、聞こえていた。
けれど、意味が分からなかった。
直成さんは、ちよを見たまま続けた。
「ここから、何百年も先の世で暮らしていた」
ちよは、直成さんの手へ目を落とした。
仕事から帰れば、子どもたちを抱く手。
筆を持ち、紙をそろえる手。
自分が、何度も触れてきた手だった。
その手を持つ人が、何百年も先の世にいたという。
「……先の世で」
自分の声が、少し遠く聞こえた。
直成さんはうなずいた。
「父と母と、妹がいた。仕事をして、毎日、暮らしていたんだ」
直成さんの目が、一度、ちよから離れた。
何かを思い浮かべているようだった。
ちよには見えない家。
ちよの知らない人たち。
「気がついたら、ここにいた。どうして来たのかも、戻る方法も、分からない」
直成さんは、そこで言葉を切った。
ちよは、すぐには尋ねられなかった。
夢の話なのか。
前の世ということなのか。
考えかけるたびに、直成さんの言う「先の世」が、そこからはみ出した。
直成さんも、それ以上うまく説明できないようだった。
「僕にも、理由は分からないんだ」
ちよは、ゆっくりうなずいた。
分かったからではなかった。
聞こえています、と伝えたかった。
*
「ご家族とは、会えないのですか」
ようやく尋ねると、直成さんは首を振った。
「会えない」
「お知らせも」
「できないんだ」
ちよは直成さんを見た。
「……では、ご家族は、直成さんがどうなったのかも、ご存じないのですね」
直成さんの指が、ぴくりと動いた。
「うん」
直成さんは目を伏せた。
「僕が、いなくなったあと……どうなったのかも、分からない」
ちよは、何も言えなかった。
直成さんが、少し遠くを見ることがあった。
子どもたちが眠ったあと、庭の方を見ていることがあった。
何を考えているのだろうと思ったこともある。
その中には、会えない家族を思う時間もあったのかもしれない。
「会いたいですか」
「うん」
返事は早かった。
直成さんは、そのあと目を伏せた。
「会いたいよ」
ちよは、手を握ったままでいた。
知らない家族がいると聞いても、その人たちを思う直成さんの手を離したいとは思わなかった。
ただ、寂しかった。
直成さんが長く、一人でその人たちを思っていたことが。
「お父上や、お母上は……」
ちよは、言いかけて止まった。
今も生きていらっしゃるのか。
そう尋ねようとした。
けれど、何百年も先の世という言葉が、また胸につかえた。
直成さんは、ちよの迷いに気づいたらしかった。
「分からないんだ」
直成さんは静かに言った。
「向こうで、どれだけ時間がたったのかも。僕がいなくなったあと、皆がどう暮らしているのかも」
ちよはうなずいた。
直成さんは、少しだけ苦しそうに笑った。
「妹は、僕がいなくなったら、怒るだろうな」
「怒るのですか」
「うん。何も言わずにいなくなるなんて、ひどい兄だって」
直成さんの口元が、わずかに緩んだ。
けれど、すぐに消えた。
「……怒ってくれているなら、まだいいんだけど」
ちよは、その手を強く握った。
直成さんは、返事をしなかった。
*
「どなたか、知っていらっしゃるのですか」
しばらくして尋ねると、直成さんは首を振った。
「広元殿も、鎌倉殿も知らない」
ちよは、隣の部屋へ目を向けた。
子どもたちの寝息が聞こえていた。
「ちよさんに、初めて話した」
直成さんの声に、ちよは顔を戻した。
直成さんは、こちらを見ていた。
これほど長く夫婦でいて、直成さんは今、初めてする話の返事を待っている。
ちよは、口を開きかけた。
けれど、うまく言えなかった。
代わりに、握っていた直成さんの手へ、もう片方の手を添えた。
「……ずっと、お一人で?」
直成さんはうなずいた。
「うん」
「誰にも、お話しにならずに?」
「話せなかったんだ」
直成さんは、少しうつむいた。
「信じてもらえないと思った。それに、もし信じてもらえたとしても……」
「としても?」
「僕が、何者なのか分からなくなるでしょう」
ちよは直成さんを見た。
「広元殿が仕事を任せてくださったのも、鎌倉殿が話を聞いてくださったのも、僕が何を考えて、何ができるかを見てくださったからなんだ」
直成さんは、つないだ手へ目を落とした。
「先の世から来たからではない」
ちよはうなずいた。
「だから、言えなかったんだ」
直成さんは、かすれた声で続けた。
「ようやく見つけた居場所を、失うのが怖かった」
*
ちよは、その言葉を聞いて、胸が痛くなった。
直成さんは、いつも穏やかだった。
誰かに必要とされることを、当たり前のように受け止めている人だと思っていた。
けれど、そうではなかった。
必要とされることが、どれほど嬉しいかを知っている人だった。
必要とされないことが、どれほど怖いかも。
「広元殿に会う前の僕は……」
直成さんは、そこで口を閉じた。
ちよは待った。
「もう、生きていても仕方がないと思っていたんだ」
ちよの指が止まった。
直成さんは、ちよを見なかった。
「帰る場所がない。知っている人もいない。何をしていいかも分からない」
声は静かだった。
それが、かえって恐ろしかった。
「誰かに話しかけても、言葉の意味がうまく通じないこともあった。知っているはずのことが、何の役にも立たないこともあった」
直成さんは、ゆっくり息を吐いた。
「この先、どうやって生きていけばいいのか、分からなかった」
ちよは、直成さんの手を握った。
「直成さん……」
「いっそ、終わりにしてしまおうかと思ったこともある」
ちよは、息をのんだ。
直成さんは、すぐに続けた。
「でも、そのころ、広元殿に会ったんだ」
直成さんの声が、少し変わった。
「さっき話したとおりだよ。広元殿が仕事をくださって、鎌倉殿が、やってみろとおっしゃった」
ちよはうなずいた。
「あの方たちが、僕に居場所をくださったんだ」
直成さんは、握った手を見た。
ちよは、仕事へ向かう直成さんの嬉しそうな顔を思い出した。
*
直成さんは、しばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「向こうの世では、今の時代のことを、昔の出来事として学ぶんだ」
ちよは黙って聞いた。
「頼朝という人が、鎌倉をつくったことも、その書物にあった」
直成さんの声が低くなった。
「僕は、会う前から、あの方の名を知っていた」
ちよの指が止まった。
直成さんが、なぜ今、その話をするのか。
聞きたいと思った。
聞くのが怖いとも思った。
「これから起こることも、書かれているのですか」
直成さんは、すぐには答えなかった。
それから、小さくうなずいた。
「僕がいた世から見れば、もう昔に起きたことだから」
ちよは、直成さんの顔を見た。
今夜、何度も分からないと思った。
それでも、その言葉は、少しずつ胸に届いた。
直成さんは、自分たちがまだ迎えていない日々について、読んだことがあるのだ。
「では、今が、その書物のどこに当たるのかも……」
「それが、正確には分からないんだ」
直成さんは、困ったように眉を下げた。
「今年が建久十年だということは分かる。でも、向こうで習った年の数え方とは、うまく結びつかない」
「年の数え方が、違うのですか」
「うん。西暦といって、元号が変わっても、続けて年を数えていくんだ。昔の出来事も、僕はその数え方でしか覚えていない」
ちよは、少し考えた。
「建久が終わっても、数え直さないのですね」
「そう」
「では、建久十年は、そちらでは何年なのですか」
直成さんは、目を伏せた。
「……分からない」
ちよは返事を待った。
「鎌倉のことで、年の数まで覚えているのは、1192年くらいなんだ」
聞き慣れない大きな数だった。
ちよが黙っていると、直成さんは続けた。
「いい国つくろう、鎌倉幕府って。そういう言葉にして覚えた」
「いい国を、つくる」
「うん。その言葉の音が、年の数に合うんだ。子どものころに、そうやって習った」
直成さんは、わずかに口元を動かした。
けれど、笑うところまではいかなかった。
「その言葉は、今でも出てくる。でも、ここで暮らしていると、鎌倉は、ある日急に始まったわけではないでしょう」
ちよはうなずいた。
人が集まり、屋敷が建ち、仕事が増えていった。
直成さんも、その中で働いてきた。
「だから、その覚えている年が、こちらでいう何年なのか。何をしたときを指していたのか。そこまでは、ちゃんと思い出せないんだ」
直成さんは、自分の手を見た。
「人の名前や、大きな出来事は、ところどころ覚えている。でも、それが何年のことだったかは、ほとんど覚えていない。どちらが先だったかさえ、曖昧なこともある」
ちよは、直成さんの話を聞いていた。
書物の中の年と、今、自分たちが暮らす年。
その二つは、直成さんの中でも、きれいにつながってはいなかった。
*
直成さんは、一度息を吸った。
「鎌倉殿が亡くなることも、読んだ覚えがあった」
ちよは直成さんを見た。
灯りが、わずかに揺れた。
「でも、それが今年だとは、分からなかった」
部屋が、急に静かになったように感じた。
子どもたちの寝息も、外の風も、聞こえている。
それなのに、直成さんの言葉だけが、ちよの前に残った。
「どうしてお亡くなりになるのかも、覚えていらしたのですか」
直成さんは、ゆっくり首を振った。
「確かに覚えているとは、言えない。読んだことも、全部が頭に残っているわけではないんだ」
昨日、頼朝の死を知らされた。
直成さんが帰ってきて、明日尋ねるつもりだった文書を広げた。
今日は、その直成さんが、もっとできることがあったはずだと泣いた。
ちよは、その姿を思い返した。
「病のことも、僕には分からない。何をすれば助かるのか、答えられなかった」
直成さんの声が震えた。
「でも、それでよかったとは思えない」
直成さんは、ちよの手を強く握った。
「もっと早く、覚えていることを整理していれば。誰かに、話していれば」
その先は続かなかった。
ちよは、直成さんの目を見た。
今年だと分かっていたわけではない。
助ける方法を知っていたわけでもない。
それでも直成さんは、知っていたことが一つでもあるなら、何かできたのではないかと考えている。
「直成さん」
直成さんが顔を上げた。
「私には、まだ分かりません」
直成さんは、静かにうなずいた。
ちよは、その手を握っていた。
今、ここで何ができたはずなのかを尋ねても、直成さんは答えられないのだろう。
直成さん自身が、その問いから離れられずにいた。
ちよにも、何かできたとも、何もできなかったとも、決めることはできなかった。
分からないという自分の返事が、今夜の直成さんを傷つけるのではないかと思った。
それでも、分かったふりはできなかった。
*
「初めは、書物の中の人だったんだ」
直成さんが言った。
「鎌倉殿は」
ちよは黙って聞いた。
「でも、会って、お話しして、一緒に仕事をして……」
直成さんは、少し首を振った。
「僕の話を聞いてくださった。広元殿が任せてくださった仕事を、あの方も、頼むとおっしゃった」
ちよは、頼朝の顔を思い出した。
直成さんの意見に、嫌そうな顔をしたこともある。
それでも、どうするのかと尋ねた。
直成さんの答えを待った。
「僕は、ここで生きていけると思えたんだ」
直成さんは、声を落とした。
「僕にも、することがある。あの方がつくろうとしているものを、一緒につくりたいと思った」
直成さんは、少し黙った。
「昨日も、明日になったらお聞きしようと思っていた」
ちよの胸が痛んだ。
帰宅してから広げた、あの文書。
直成さんは、頼朝に尋ねることを考えていた。
「まだ、話せると思っていたんだ」
直成さんは、言葉を探すように間を置いた。
「書物で読んだことより、昨日までお会いしていた鎌倉殿の方が、ずっと……」
言葉が途切れた。
ちよは、直成さんの肩へ手を伸ばした。
その肩を抱いた。
書物に書かれている人。
毎日、会って働く人。
ちよには、その二つがどう重なるのか、すべては分からない。
けれど、直成さんが失ったのは、一緒に働いてきた頼朝だった。
自分を必要とし、話を聞き、仕事を任せた人だった。
直成さんは、ちよの肩へ額を寄せた。
ちよは、その背へ手を添えた。
*
しばらく、二人とも何も言わなかった。
直成さんの息が少し落ち着いたころ、ちよは静かに尋ねた。
「これからのことも、覚えていらっしゃるのですか」
直成さんが顔を上げた。
「鎌倉のことです。私たちのことも」
直成さんは、ちよを見た。
それから、ゆっくり首を振った。
「僕たちの家のことは、知らない」
ちよは、少し驚いた。
「子どもたちのことも?」
「知らないよ」
「私と、夫婦になることも?」
直成さんはうなずいた。
「知らなかった」
ちよは、直成さんの顔を見つめた。
自分が言ったことに、困った顔をした直成さん。
返事を待っていた自分。
結婚してから、二人で考えたこと。
子どもたちが生まれ、二人とも慌てたこと。
その一つずつを、直成さんも、初めて迎えていたのだった。
ちよは、直成さんの手へ目を落とした。
「鎌倉のことも、全部は知らないんだ」
直成さんが続けた。
「名前を覚えているだけの人もいる。大きな出来事を覚えていても、その間のことは、知らないことが多い。忘れていることもあるし、間違って覚えているかもしれない」
「それが、いつ起こるのかも」
「うん。今の元号を聞けば分かる、というわけではないんだ」
直成さんは、指を握り込んだ。
「それに、僕がここで働いたことで、何が変わったのかも分からない」
ちよは顔を上げた。
「覚えていることと同じように進んでいるのか。もう違っているのか。僕には、確かめられない」
直成さんは、長く息を吐いた。
「これから先も、知っているとおりになるのか、分からないんだ」
*
ちよは、直成さんを見ていた。
何百年も先の世から来た人。
頼朝の名を、会う前から知っていた人。
それなら、これから何をすればよいかも分かるのかと思った。
けれど、直成さんは首を振った。
知らないと、言った。
覚えていることにも、いつ起こるか分からないものがある。
今、聞いている直成さんの話は、ちよが初めに思い浮かべたものより、ずっと心細かった。
「怖いんだ、ちよさん」
直成さんの声は、小さかった。
「何か思い出しても、それが本当に合っているのか分からない。でも、黙っていて、また後から、あのことだったのかと思ったら……」
ちよは、その手を取った。
温かい手だった。
朝になれば、三郎がこの手を求めるだろう。
まつも、袖を引くだろう。
太郎と次郎は、また何かを尋ねる。
直成さんが答えられることもあれば、答えられないこともある。
ちよは、ゆっくり直成さんの指を包んだ。
「私も、先のことは分かりません」
直成さんはこちらを見た。
ちよは、それ以上、うまく言えなかった。
直成さんを安心させる言葉を探した。
大丈夫だと言ってしまいたかった。
けれど、直成さんが何を怖がっているのか、今夜、初めて聞いたばかりだった。
「今、どうすればよいのかも、すぐには分かりません」
ちよは、正直に言った。
「でも、もう少し聞かせてください」
直成さんの目が動いた。
「覚えていらっしゃることも、分からないことも。今、何が怖いのかも」
直成さんは、しばらくちよを見ていた。
「分からない話ばかりになるかもしれない」
「今夜も、分からないところはあります」
ちよが答えると、直成さんは目を伏せた。
ちよは、その手を少し引いた。
「ですから、また聞きます」
直成さんは顔を上げた。
ちよは、直成さんを見た。
「一度で分からなければ、もう一度、お話ししてください」
直成さんは、しばらく何も言わなかった。
それから、深くうなずいた。
握った手は、離さなかった。
*
「ちよさんは、僕が怖くない?」
直成さんが尋ねた。
ちよは、少し考えた。
驚いていた。
戸惑ってもいた。
今夜の話を、明日、もう一度聞き直すかもしれない。
直成さんの顔を見ながら、何百年も先の世という言葉を思い返すこともあるだろう。
「お話には、驚いております」
ちよは答えた。
「まだ、分からないところも、たくさんあります」
直成さんは黙っていた。
「でも、今、私の手を握っている方は、直成さんです」
直成さんの指に、力が入った。
ちよは、その手を握り返した。
「私と夫婦になって、子どもたちを抱いてくださった方です」
直成さんの顔が、ゆっくり歪んだ。
直成さんは何か言おうとしたが、声にならなかった。
ちよは、もう一度その肩を抱いた。
今度は、直成さんの腕も、ちよの背へ回った。
ちよは、直成さんの肩へ頬を寄せた。
しばらく、そのままでいた。
*
「このお話は、ほかの方にはいたしません」
ちよが言うと、直成さんは小さくうなずいた。
広元にも、義時にも、政子にも。
子どもたちにも。
直成さんが初めて口にした言葉は、ちよのところへ置いておく。
まだ理解できていないからといって、誰かに確かめてもらいたいとは思わなかった。
「ありがとう、ちよさん」
「また、尋ねてもよいですか」
「うん」
「同じことを、何度も聞くかもしれません」
直成さんは、少しだけ顔を上げた。
「うまく説明できないことも、あると思う」
「そのときは、そうおっしゃってください」
直成さんはうなずいた。
ほんの少し、肩の力が抜けたように見えた。
*
灯りが小さくなっていた。
ちよは直成さんと並んで横になった。
隣の部屋から、子どもたちの寝息が聞こえる。
二人とも、それを聞いていた。
「直成さん」
「何だい、ちよさん」
「私と夫婦になることを、知らなかったのですね」
直成さんは、こちらを向いた。
「うん」
「では、あのころ困っていらしたのは、本当に?」
直成さんは、少し目を丸くした。
それから、かすかに笑った。
「本当に、困っていたよ」
「あとで何が起こるか、ご存じだったのかと思いました」
「ちよさんが次に何を言うかも、分からなかった」
ちよも、小さく笑った。
それは、今もそうかもしれなかった。
笑ったあと、また涙が出た。
直成さんの悲しみが消えたわけではない。
頼朝が戻るわけでもない。
今夜聞いたことを、すべて受け止められたわけでもなかった。
それでも、直成さんは、ちよの前で少し笑った。
ちよは、その顔を見ていた。
「ちよさん」
直成さんが呼んだ。
「はい」
それだけで、直成さんは黙った。
ちよも、先を求めなかった。
二人の間に置かれた話は、まだ大きかった。
一晩で、畳んでしまえるものではない。
ちよは布団の中で、直成さんの手を取った。
直成さんも、その手を握った。
やがて、外で鳥の声がした。
直成さんが顔を向ける。
ちよも耳を澄ました。
もうすぐ、子どもたちが起きる。
何を言うのかも、何をするのかも、直成さんには分からない。
自分にも、分からない。
ちよは、直成さんの手を握ったまま、少しだけ近くへ寄った。
「朝ですね、直成さん」
直成さんは、ゆっくりうなずいた。
「うん、ちよさん」
二人は、しばらくそうしていた。




