幕間29 ちよは、直成が初めて取り乱す姿を見る
建久十年(1199年)、鎌倉。
頼朝が亡くなった翌朝、ちよが目を覚ますと、直成さんはすでに起きていた。
昨夜、二人の前に置いたままにした文書が、きれいに重ねられている。
夫は、その一番上の紙を見ていた。
「直成さん」
声をかけると、夫は振り向いた。
「起こしてしまったかな。ごめんね、ちよさん」
「いいえ。もう、お出かけですか」
「うん。広元殿と、確かめておきたいことがあるから」
夫はいつもと同じ声で答えた。
けれど、ちよには分かった。
直成さんは、まだ昨日の続きを生きている。
昨日までなら、広元と相談したあと、頼朝に話を持っていく。
頼朝が難しい顔をすれば、もう一度考える。
そうしてきた仕事が、今日も机の上にある。
ただ、最後に話を聞いてくれる人だけが、いなくなっていた。
「少し、召し上がってからになさいませんか」
「そうだね」
直成さんはうなずいた。
文書を包もうとして、一枚だけ取り残した。
ちよが指さすと、夫は小さく息をついた。
「……ありがとう」
その紙を取る手が、少し震えていた。
* * *
朝餉の席では、三郎が太郎の膝に乗ろうとしていた。
「三郎、そこは父上の場所だ」
太郎が言うと、三郎は不満そうに首を振った。
「にい」
「僕の膝は、もういっぱいだよ」
次郎が横から言った。
「三郎は大きくなったからね」
「おおきい」
三郎は得意そうに胸を張った。
まつが笑った。
「昨日は兄上の衣を着て、大きくなったつもりだったものね」
直成さんは、そのやり取りを聞いていた。
三郎が父親へ両手を伸ばすと、いつものように抱き上げた。
「三郎は、ずいぶん重くなったね」
「おおきい」
「うん。大きいよ」
直成さんの口元が、わずかに緩んだ。
ちよは、その顔を見て少し安心した。
けれど、膳にはほとんど手がついていなかった。
「あなた。もう少し召し上がってください」
「うん」
夫は箸を取った。
太郎が尋ねた。
「父上。今日は、お仕事がたくさんあるのですか」
「そうだね」
「僕にできることは?」
直成さんは息子を見た。
「三郎を見ていてくれると、助かるよ」
「はい」
次郎がすぐに言った。
「僕も見られます」
「ありがとう」
まつも手を上げた。
「私も」
「うん。頼りにしているよ」
三郎だけが、何の話か分からず、父親の椀を指さした。
「たべる」
直成さんは椀を見た。
「……そうだね」
夫は、ようやく少し食べた。
* * *
昼前、ちよは政子の屋敷へ向かった。
昨日のうちに、手伝えることがあれば知らせてほしいと伝えてあった。
屋敷には、朝から多くの人が出入りしていた。
誰もが忙しく動いている。
けれど、どこか静かだった。
頼朝がいたころにも、屋敷はいつも忙しかった。
違うのは、廊下の向こうから聞こえてくるはずの声がないことだった。
ちよが政子の部屋へ通されると、政子は女房と話していた。
用事を終え、女房が下がる。
「ちよ。来てくれたのね」
「はい、政子様」
政子は、ちよの顔を見た。
「直成は?」
「朝早く、広元様のところへ」
「そうでしょうね」
政子は小さくうなずいた。
「昨日も、ずっと働いていたわ」
ちよは黙って聞いた。
「広元も、義時も、直成も。あの人が亡くなったというのに、誰も休もうとしないの」
「はい」
「休めと言っても、困るのでしょうね」
政子は、膝の上で手を重ねた。
「仕事があるうちは、何かしていられるから」
ちよは、昨夜の夫を思い出した。
文書を畳もうとして、端をそろえられなかった手。
「夫も、ほとんど眠っておりません」
政子は目を伏せた。
「そう」
しばらく沈黙があった。
やがて政子が言った。
「あの人は、直成をよく呼んでいたわね」
「はい」
「広元に聞けば済むことでも、直成を呼ぶの」
ちよは顔を上げた。
「そうなのですか」
「ええ。二人で何か考え始めると、長いのよ」
政子は、少しだけ笑った。
「広元が来て、ようやく話がまとまることもあったわ」
ちよも、その光景を思い浮かべた。
頼朝が大きなことを言う。
直成さんが真面目な顔で方法を考える。
広元が、実際にできるかどうかを確かめる。
そして頼朝が、仕事が増えたとぼやく。
何度も見てきた光景だった。
「楽しそうでした」
ちよが言うと、政子はうなずいた。
「ええ。あの人も、直成もね」
政子の目が、少し潤んだ。
「あの人、直成の話を聞くのが好きだったのよ」
ちよは何も言えなかった。
「自分と違うところから物を見ている、と言っていたわ」
政子は、少し間を置いた。
「それが面白いのだと」
ちよは、夫が頼朝の屋敷から帰ってきた日の顔を思い出した。
仕事が増えたと困ったように言いながら、どこか嬉しそうだった。
あの顔を、もう見ることはないのだろうか。
* * *
昼過ぎ、広元が政子のもとへ来た。
義時と直成さんも一緒だった。
ちよは政子に頼まれ、部屋の隅で控えていた。
広元は、必要なことを一つずつ伝えた。
頼朝の死を受けて、鎌倉の仕事をどう続けるか。
誰に何を知らせるか。
返事を待っている者へ、どう伝えるか。
政子は静かに聞き、時折尋ねた。
義時も答えた。
直成さんは、広元の横で文書を確かめていた。
いつもの夫だった。
人の話を最後まで聞く。
分からないことがあれば尋ねる。
決まったことと、まだ決まっていないことを分ける。
ちよは、少し安心しかけた。
そのときだった。
「こちらは、鎌倉殿にお伺いしてから……」
直成さんの言葉が止まった。
広元も、義時も、何も言わなかった。
直成さんは、手にした文書を見つめていた。
やがて広元が言った。
「直成殿」
夫は顔を上げた。
「はい」
「まず、何を確かめる必要があるか、分けましょう」
「はい」
広元は、直成さんの前に置かれた文書を一枚取った。
「こちらは、私が預かります」
「ですが、広元殿にもお仕事が」
「私も、鎌倉殿にお仕えしてきた者です」
広元の声は穏やかだった。
「今は、皆で分けて進めましょう」
直成さんは、しばらく広元を見ていた。
それから、深く頭を下げた。
「……ありがとうございます」
ちよは、その顔を見た。
夫は、泣いていなかった。
けれど、何かを必死にこらえているように見えた。
* * *
話が終わり、義時が立ち上がった。
直成さんも続こうとしたが、広元が呼び止めた。
「直成殿。少し」
政子が、ちよに目を向けた。
「ちよも、ここにいて」
「はい」
広元は、直成さんの前へ一枚の文書を置いた。
「これは、覚えておいででしょう」
直成さんは目を落とした。
「はい」
「最初のころ、あなたが書いたものです」
ちよは、思わず夫を見た。
紙は古びていた。
何度も開かれたらしく、折り目が白くなっている。
「鎌倉殿が、残しておけとおっしゃった」
広元が言った。
直成さんは、文書へ手を伸ばしかけて止めた。
「まだ、何も分かっていなかったころのものです」
「そうでしたな」
広元は、少し笑った。
「あなたは、何度も書き直しておられた」
「広元殿に、何度も直していただきました」
「私も、随分と手間をかけさせました」
直成さんの口元が、ほんの少し動いた。
広元は続けた。
「鎌倉殿は、あれを面白がっておられました」
「はい」
「こんなことを考える者がいるのか、と」
直成さんは文書を見たまま、動かなかった。
広元が静かに言った。
「私は、あなたに仕事をお願いしました」
ちよは顔を上げた。
「ですが、鎌倉殿は、あなたにもっと大きな仕事を任せられた」
直成さんの指が、膝の上で握られた。
「あなたが考えたことを、実際にやってみよとおっしゃった」
「はい」
「失敗すれば、直せばよいとも」
直成さんはうなずいた。
広元は、少し間を置いた。
「鎌倉殿は、あなたを信じておられました」
夫の顔が、わずかに歪んだ。
「私も、そうです」
広元は、古い文書を直成さんの方へ寄せた。
「だから、これからも一緒に考えていただきたい」
直成さんは、すぐには答えなかった。
やがて、かすれた声で言った。
「はい」
ちよは、その声を聞いた。
返事をするだけで、夫は精いっぱいなのだと思った。
* * *
夕方、ちよは先に帰った。
直成さんが戻ったのは、すっかり暗くなってからだった。
「お帰りなさいませ」
「ただいま、ちよ」
夫は子どもたちの顔を見て、一人ずつ声をかけた。
太郎が尋ねた。
「父上。お仕事は終わりましたか」
直成さんは少し考えた。
「今日は、ここまでだよ」
「明日も?」
「うん。明日もある」
次郎が言った。
「父上は、いつもお仕事があるね」
「そうだね」
「鎌倉殿がいなくなっても?」
直成さんの手が止まった。
次郎は、ただ不思議だったのだろう。
昨日まで頼朝がいた。
今日は、いない。
それでも父は、いつものように仕事へ行く。
直成さんは息子を見た。
「……うん。仕事は、なくならないんだ」
次郎は首をかしげた。
「じゃあ、誰が父上にお仕事を頼むの?」
ちよは、夫を見た。
直成さんは、しばらく答えなかった。
「広元殿もいるし、ほかにも、一緒に考える人がいるよ」
「そうなんだ」
次郎は納得したらしかった。
三郎が、父親の膝へよじ登った。
「ちち」
直成さんは抱き上げた。
まつが父の袖を握った。
「父上。今日は帰ってきたね」
「うん」
「明日も帰ってきてね」
直成さんは、娘の頭を撫でた。
「帰ってくるよ」
ちよは、その言葉を聞いていた。
今は、それだけでよかった。
* * *
子どもたちが眠り、家人も下がった。
直成さんは、持ち帰った文書を広げた。
ちよは隣へ座った。
「直成さん」
「何だい、ちよさん」
「今日は、もうお休みになりませんか」
「これだけ、見ておこうと思って」
夫は一枚を読み、別の一枚を寄せた。
また最初の一枚へ戻る。
筆を取った。
けれど、何も書かなかった。
ちよは黙って見ていた。
やがて直成さんが、小さくつぶやいた。
「……鎌倉殿なら」
夫の手が止まった。
しばらくして、もう一度言った。
「鎌倉殿なら、どうお考えになるだろう」
ちよは、夫の顔を見た。
「直成さん」
「今日も、何度も考えたんだ」
直成さんは文書を見つめていた。
「これを持っていけば、きっと、まず誰が困るのかとお尋ねになる。それから、広元殿の意見を聞いて……」
声が止まった。
「そこまで、考えられるんだ」
夫は、苦しそうに息を吐いた。
「その先が、分からない」
ちよは、夫の手へ触れた。
直成さんは顔を上げなかった。
「僕は、あの方が何とおっしゃるか、楽しみだったんだ」
「はい」
「難しい顔をされることもあった。何を考えているのかと叱られたこともあった」
夫の口元が、ほんの少し動いた。
「でも、ちゃんと聞いてくださった」
ちよはうなずいた。
「広元殿と考えて、また持っていくと、もう一度聞いてくださった」
直成さんは、ゆっくり首を振った。
「僕は、それが嬉しかった」
声が震えた。
「自分の考えたことが、誰かの役に立つ。鎌倉殿が、それを任せてくださる」
夫は、膝の上で手を握った。
「……それが、どれほど嬉しかったか」
ちよは、夫の横顔を見つめた。
直成さんは、いつも仕事の話を楽しそうにした。
忙しいとぼやきながら、頼朝に任された仕事を持ち帰る。
広元と相談して、うまくいかなければまた考える。
ちよは、その姿をずっと見てきた。
けれど、夫にとって、それがどれほど大切なことだったのか。
今、初めて知る気がした。
* * *
「ちよさん」
「はい」
直成さんは、しばらく黙っていた。
「僕は、広元殿に会う前……」
言葉が止まった。
ちよは待った。
「何をしたらいいのか、分からなかったんだ」
夫は、遠くを見るような目をしていた。
「何のために、ここにいるのかも」
ちよは、その言葉を聞いた。
直成さんが昔のことを話すのは、珍しかった。
夫は、広元に見いだされたころのことを、時折話してくれた。
けれど、それ以前のことになると、いつも言葉が少なくなった。
「広元殿は、僕の話を聞いてくださった」
直成さんが言った。
「何ができるのか、何を考えているのか。変わったことを言う奴だと思われたはずなのに」
ちよは黙って聞いていた。
「仕事をくださった。居場所をくださった」
夫は、膝の上の手を見た。
「それから、鎌倉殿に会わせてくださった」
直成さんは、小さく息を吸った。
「あの方は、僕の話を聞いて……やってみろとおっしゃった」
ちよは、夫の声に耳を澄ませた。
「失敗したら、直せばいい。困ったら、広元に聞け。そう言ってくださった」
直成さんの目が潤んだ。
「僕は、あのとき初めて……」
言葉が途切れた。
ちよは、その手を握った。
「初めて、ここにいてもいいんだと思えたんだ」
直成さんは、ちよを見た。
「僕にも、できることがあるんだって」
涙が、一粒落ちた。
夫は、それを拭おうとしなかった。
「広元殿と鎌倉殿が、僕を必要としてくださった」
ちよは、胸が締めつけられるようだった。
直成さんは、いつも穏やかだった。
自分が何を考えているのか、すべてを話す人ではなかった。
けれど、仕事を任されたときの嬉しそうな顔は、何度も見てきた。
それは、ただ仕事が好きだからではなかったのだ。
* * *
「僕は、あの方と一緒に、鎌倉をつくっていくつもりだったんだ」
直成さんが言った。
「武士たちが、京の都合だけで土地を失わないように。困ったことがあれば、鎌倉で話を聞いてもらえるように」
ちよは、以前、頼朝が語っていた言葉を思い出した。
朝廷には朝廷の役目がある。
けれど、武士たちのことは、武士たちで守れるようにしたい。
頼朝は、そう考えていた。
直成さんは、そのために働いていた。
「鎌倉殿は、いつも先のことを考えておられた」
夫は続けた。
「僕が、こんなことはできないでしょうかと申し上げると、もっと大きなことをおっしゃるんだ」
ちよは、少しだけ笑った。
「そうでしたね」
「それで、広元殿と困るんだよ」
直成さんの口元が、わずかに緩んだ。
「できるのかと聞かれて、考えてみますと答える。すると、いつまでにできると聞かれる」
「お仕事が増えますね」
「うん」
「でも、楽しかった」
その言葉のあと、沈黙が落ちた。
直成さんは、文書を見た。
「まだ、途中なんだ」
ちよは、夫の手を握ったまま聞いていた。
「人を育てることも。誰が見ても分かるように記録を残すことも。鎌倉殿がいなくても、仕事が続くようにすることも」
直成さんの声が、低くなった。
「まだ、できていないことばかりなんだ」
「直成さん」
「これからだったんだよ」
夫は、初めてちよの方へ顔を向けた。
「これから、もっとよくしていくつもりだった」
目から涙が落ちた。
「鎌倉殿に、お見せしたかったんだ」
ちよは何も言えなかった。
「こんな仕組みができましたと。こんな人が育ちましたと。前よりも、ずっとよくなりましたと」
夫は、文書の上へ手を置いた。
「そうしたら、あの方は、きっと……」
言葉が止まった。
直成さんは、唇を噛んだ。
「……また、次の仕事をおっしゃるんだ」
ちよの目にも涙が浮かんだ。
頼朝なら、そうしただろう。
よくやったと言ったあとで、では次はどうすると尋ねる。
直成さんは、困ったような顔をして考える。
広元が、二人の間に入る。
そして、また仕事が増える。
その光景を、ちよは何度も見てきた。
もう、見ることはできない。
* * *
「どうして」
直成さんがつぶやいた。
「どうして、こんなに早く」
夫の手が、文書の上で止まった。
紙が一枚、床へ落ちた。直成さんは、それを見なかった。
「まだ、話したいことがあった」
声が震えていた。
「まだ、聞いていただきたいことがあった」
ちよは、夫の肩へ手を添えた。
「直成さん」
「……もっと、できることがあったのではないかと」
夫は、そこで言葉を切った。
ちよは息を止めた。
直成さんが、こんなふうに言葉を失うのを見るのは初めてだった。
いつも穏やかで、困ったことがあれば一つずつ考える人だった。
子どもたちが騒いでも、まず話を聞く。
仕事で行き詰まっても、広元に相談する。
頼朝に難しいことを言われても、どうすればできるかを考える。
その夫が、今は何も考えられずにいた。
「僕は……」
直成さんの肩が揺れた。
「僕は、あの方に……」
声が途切れた。
ちよは、夫を抱きしめた。
直成さんは、しばらく動かなかった。
やがて、ちよの肩へ額を寄せた。
「……生きていてよかったと、思えたんだ」
夫が、かすれた声で言った。
ちよは目を閉じた。
「広元殿に会って、鎌倉殿に会って……」
直成さんは、ちよの衣を握った。
「ここで、生きていこうと思えたんだ」
ちよは、夫の背を撫でた。
「はい」
「だから、僕は……」
夫は、それ以上言えなかった。
肩が震えた。
ちよは、ただ抱いていた。
直成さんが泣く姿を、初めて見た。
声は出さなかった。
肩だけが、小さく震えていた。
ちよは、夫の背へ腕を回した。
今は、何も言わなくてよいと思った。
* * *
どれほど時間がたったのか、分からなかった。
直成さんの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。
ちよは、夫の背を撫で続けた。
「……ごめんね」
直成さんが言った。
「何を謝るのですか」
「こんなところを、見せてしまって」
ちよは、夫の顔を見た。
「直成さん」
「うん」
「私は、あなたの妻ですよ」
直成さんは、少し驚いたようにちよを見た。
「いつも、直成さんに助けていただいています」
ちよは続けた。
「子どもたちのことも、家のことも。私が困っていると、話を聞いてくださるでしょう」
夫は黙っていた。
「今日は、私が聞きます」
直成さんの目から、また涙が落ちた。
「うまく話せなくても、構いません」
ちよは、その手を取った。
「泣いても、構いません」
夫は、握った手に力を込めた。
「……ありがとう、ちよさん」
ちよはうなずいた。
「それに」
「うん」
「直成さんが、何もしていなかったとは思いません」
夫は目を伏せた。
「広元様も、政子様も、義時殿も、今日、直成さんを必要としていらっしゃいました」
ちよは、床へ落ちた文書を拾った。
「鎌倉殿と一緒に考えてきたことは、ここに残っています」
直成さんは、文書を見た。
「うん」
「けれど」
ちよは、紙を重ねた。
「残っているから悲しまなくてよい、とは申しません」
夫が顔を上げた。
「直成さんは、鎌倉殿に、見ていただきたかったのですよね」
直成さんの顔が歪んだ。
「うん」
「一緒に、喜びたかったのですよね」
夫は、何度もうなずいた。
ちよは、その手を握った。
「それは、もう、できないのですね」
直成さんは、声を出さずに泣いた。
ちよも、涙を拭わなかった。
* * *
やがて、直成さんが小さく言った。
「広元殿も、つらいはずなんだ」
「ええ」
「今日も、ずっと仕事をしておられた」
「はい」
「義時殿も。政子様も」
直成さんは、ゆっくり息を吐いた。
「皆、あの方を失ったんだ」
ちよはうなずいた。
「そうですね」
「僕だけが、悲しいわけじゃない」
「ええ」
直成さんは、ちよの手を見た。
「それでも……」
「はい」
「悲しいんだ」
ちよは、夫をもう一度抱きしめた。
「はい、直成さん」
夫は、ちよの肩へ顔を寄せた。
「会いたい」
その一言は、とても小さかった。
けれど、ちよには、今夜聞いたどの言葉よりも重く感じられた。
頼朝に、もう一度会いたい。
仕事の話をしたい。
困った顔を見たい。
叱られたい。
一緒に笑いたい。
そのどれも、もうできない。
ちよは、夫の背を撫で続けた。
* * *
しばらくして、直成さんが顔を上げた。
灯りは、ずいぶん小さくなっていた。
ちよは、乱れた文書へ目を向けた。
「今夜は、畳んでおきましょうか」
夫は、少し迷った。
それから、うなずいた。
「うん」
ちよは、一枚ずつ紙をそろえた。
直成さんも手を伸ばし、最後の一枚を重ねた。
今度は、端がそろった。
けれど、ちよは、それを見てもう大丈夫だとは思わなかった。
「直成さん。少し横になりましょう」
「眠れるかな」
「眠れなくても、横になっていてください」
ちよは、夫を見た。
「私も、そばにおります」
直成さんは、しばらくちよを見つめた。
「ちよさんも、疲れたでしょう」
「ええ。ですから、ご一緒に」
夫は、ほんの少しうなずいた。
* * *
二人で横になると、隣の部屋から子どもたちの寝息が聞こえた。
ちよは、夫の手を取った。
昼間見た広元の顔を思い出した。
政子の重ねた手。
義時の硬い表情。
皆、頼朝を失っていた。
それでも、明日も鎌倉の仕事は続く。
直成さんも、きっと仕事へ行くだろう。
広元と相談し、義時と話し、文書を確かめる。
頼朝が築いた鎌倉を、守ろうとするだろう。
けれど、今夜だけは。
ちよは、夫の手を握り直した。
今夜だけは、何も決めなくてよいと思った。
「ちよさん」
「はい」
直成さんは、しばらく黙っていた。
「……僕には、まだ話していないことがあるんだ」
ちよは顔を向けた。
直成さんは、天井を見つめていた。
「広元殿に会う前のことも」
「はい」
「どうして、あのころ、あんなふうになっていたのかも」
直成さんは、ゆっくり息を吸った。
「ずっと、話さなければと思っていた」
ちよは、直成さんの手を離さなかった。
何を話そうとしているのかは、分からない。
けれど、直成さんがそれを話そうとしていることだけは、分かった。
「……はい」
ちよは、それだけ答えた。
隣の部屋で、三郎が寝返りを打ったらしく、小さな物音がした。
やがて、また静かになった。
直成さんは、その音を聞いてから、ちよの手を握り返した。




