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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第六部 ちよは、直成をあらためて知る 建久六年〜建久十年(1195~1199年)
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幕間29 ちよは、直成が初めて取り乱す姿を見る

建久十年(1199年)、鎌倉。


頼朝が亡くなった翌朝、ちよが目を覚ますと、直成さんはすでに起きていた。


昨夜、二人の前に置いたままにした文書が、きれいに重ねられている。


夫は、その一番上の紙を見ていた。


「直成さん」


声をかけると、夫は振り向いた。


「起こしてしまったかな。ごめんね、ちよさん」


「いいえ。もう、お出かけですか」


「うん。広元殿と、確かめておきたいことがあるから」


夫はいつもと同じ声で答えた。


けれど、ちよには分かった。


直成さんは、まだ昨日の続きを生きている。


昨日までなら、広元と相談したあと、頼朝に話を持っていく。


頼朝が難しい顔をすれば、もう一度考える。


そうしてきた仕事が、今日も机の上にある。


ただ、最後に話を聞いてくれる人だけが、いなくなっていた。


「少し、召し上がってからになさいませんか」


「そうだね」


直成さんはうなずいた。


文書を包もうとして、一枚だけ取り残した。


ちよが指さすと、夫は小さく息をついた。


「……ありがとう」


その紙を取る手が、少し震えていた。


* * *


朝餉の席では、三郎が太郎の膝に乗ろうとしていた。


「三郎、そこは父上の場所だ」


太郎が言うと、三郎は不満そうに首を振った。


「にい」


「僕の膝は、もういっぱいだよ」


次郎が横から言った。


「三郎は大きくなったからね」


「おおきい」


三郎は得意そうに胸を張った。


まつが笑った。


「昨日は兄上の衣を着て、大きくなったつもりだったものね」


直成さんは、そのやり取りを聞いていた。


三郎が父親へ両手を伸ばすと、いつものように抱き上げた。


「三郎は、ずいぶん重くなったね」


「おおきい」


「うん。大きいよ」


直成さんの口元が、わずかに緩んだ。


ちよは、その顔を見て少し安心した。


けれど、膳にはほとんど手がついていなかった。


「あなた。もう少し召し上がってください」


「うん」


夫は箸を取った。


太郎が尋ねた。


「父上。今日は、お仕事がたくさんあるのですか」


「そうだね」


「僕にできることは?」


直成さんは息子を見た。


「三郎を見ていてくれると、助かるよ」


「はい」


次郎がすぐに言った。


「僕も見られます」


「ありがとう」


まつも手を上げた。


「私も」


「うん。頼りにしているよ」


三郎だけが、何の話か分からず、父親の椀を指さした。


「たべる」


直成さんは椀を見た。


「……そうだね」


夫は、ようやく少し食べた。


* * *


昼前、ちよは政子の屋敷へ向かった。


昨日のうちに、手伝えることがあれば知らせてほしいと伝えてあった。


屋敷には、朝から多くの人が出入りしていた。


誰もが忙しく動いている。


けれど、どこか静かだった。


頼朝がいたころにも、屋敷はいつも忙しかった。


違うのは、廊下の向こうから聞こえてくるはずの声がないことだった。


ちよが政子の部屋へ通されると、政子は女房と話していた。


用事を終え、女房が下がる。


「ちよ。来てくれたのね」


「はい、政子様」


政子は、ちよの顔を見た。


「直成は?」


「朝早く、広元様のところへ」


「そうでしょうね」


政子は小さくうなずいた。


「昨日も、ずっと働いていたわ」


ちよは黙って聞いた。


「広元も、義時も、直成も。あの人が亡くなったというのに、誰も休もうとしないの」


「はい」


「休めと言っても、困るのでしょうね」


政子は、膝の上で手を重ねた。


「仕事があるうちは、何かしていられるから」


ちよは、昨夜の夫を思い出した。


文書を畳もうとして、端をそろえられなかった手。


「夫も、ほとんど眠っておりません」


政子は目を伏せた。


「そう」


しばらく沈黙があった。


やがて政子が言った。


「あの人は、直成をよく呼んでいたわね」


「はい」


「広元に聞けば済むことでも、直成を呼ぶの」


ちよは顔を上げた。


「そうなのですか」


「ええ。二人で何か考え始めると、長いのよ」


政子は、少しだけ笑った。


「広元が来て、ようやく話がまとまることもあったわ」


ちよも、その光景を思い浮かべた。


頼朝が大きなことを言う。


直成さんが真面目な顔で方法を考える。


広元が、実際にできるかどうかを確かめる。


そして頼朝が、仕事が増えたとぼやく。


何度も見てきた光景だった。


「楽しそうでした」


ちよが言うと、政子はうなずいた。


「ええ。あの人も、直成もね」


政子の目が、少し潤んだ。


「あの人、直成の話を聞くのが好きだったのよ」


ちよは何も言えなかった。


「自分と違うところから物を見ている、と言っていたわ」


政子は、少し間を置いた。


「それが面白いのだと」


ちよは、夫が頼朝の屋敷から帰ってきた日の顔を思い出した。


仕事が増えたと困ったように言いながら、どこか嬉しそうだった。


あの顔を、もう見ることはないのだろうか。


* * *


昼過ぎ、広元が政子のもとへ来た。


義時と直成さんも一緒だった。


ちよは政子に頼まれ、部屋の隅で控えていた。


広元は、必要なことを一つずつ伝えた。


頼朝の死を受けて、鎌倉の仕事をどう続けるか。


誰に何を知らせるか。


返事を待っている者へ、どう伝えるか。


政子は静かに聞き、時折尋ねた。


義時も答えた。


直成さんは、広元の横で文書を確かめていた。


いつもの夫だった。


人の話を最後まで聞く。


分からないことがあれば尋ねる。


決まったことと、まだ決まっていないことを分ける。


ちよは、少し安心しかけた。


そのときだった。


「こちらは、鎌倉殿にお伺いしてから……」


直成さんの言葉が止まった。


広元も、義時も、何も言わなかった。


直成さんは、手にした文書を見つめていた。


やがて広元が言った。


「直成殿」


夫は顔を上げた。


「はい」


「まず、何を確かめる必要があるか、分けましょう」


「はい」


広元は、直成さんの前に置かれた文書を一枚取った。


「こちらは、私が預かります」


「ですが、広元殿にもお仕事が」


「私も、鎌倉殿にお仕えしてきた者です」


広元の声は穏やかだった。


「今は、皆で分けて進めましょう」


直成さんは、しばらく広元を見ていた。


それから、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます」


ちよは、その顔を見た。


夫は、泣いていなかった。


けれど、何かを必死にこらえているように見えた。


* * *


話が終わり、義時が立ち上がった。


直成さんも続こうとしたが、広元が呼び止めた。


「直成殿。少し」


政子が、ちよに目を向けた。


「ちよも、ここにいて」


「はい」


広元は、直成さんの前へ一枚の文書を置いた。


「これは、覚えておいででしょう」


直成さんは目を落とした。


「はい」


「最初のころ、あなたが書いたものです」


ちよは、思わず夫を見た。


紙は古びていた。


何度も開かれたらしく、折り目が白くなっている。


「鎌倉殿が、残しておけとおっしゃった」


広元が言った。


直成さんは、文書へ手を伸ばしかけて止めた。


「まだ、何も分かっていなかったころのものです」


「そうでしたな」


広元は、少し笑った。


「あなたは、何度も書き直しておられた」


「広元殿に、何度も直していただきました」


「私も、随分と手間をかけさせました」


直成さんの口元が、ほんの少し動いた。


広元は続けた。


「鎌倉殿は、あれを面白がっておられました」


「はい」


「こんなことを考える者がいるのか、と」


直成さんは文書を見たまま、動かなかった。


広元が静かに言った。


「私は、あなたに仕事をお願いしました」


ちよは顔を上げた。


「ですが、鎌倉殿は、あなたにもっと大きな仕事を任せられた」


直成さんの指が、膝の上で握られた。


「あなたが考えたことを、実際にやってみよとおっしゃった」


「はい」


「失敗すれば、直せばよいとも」


直成さんはうなずいた。


広元は、少し間を置いた。


「鎌倉殿は、あなたを信じておられました」


夫の顔が、わずかに歪んだ。


「私も、そうです」


広元は、古い文書を直成さんの方へ寄せた。


「だから、これからも一緒に考えていただきたい」


直成さんは、すぐには答えなかった。


やがて、かすれた声で言った。


「はい」


ちよは、その声を聞いた。


返事をするだけで、夫は精いっぱいなのだと思った。


* * *


夕方、ちよは先に帰った。


直成さんが戻ったのは、すっかり暗くなってからだった。


「お帰りなさいませ」


「ただいま、ちよ」


夫は子どもたちの顔を見て、一人ずつ声をかけた。


太郎が尋ねた。


「父上。お仕事は終わりましたか」


直成さんは少し考えた。


「今日は、ここまでだよ」


「明日も?」


「うん。明日もある」


次郎が言った。


「父上は、いつもお仕事があるね」


「そうだね」


「鎌倉殿がいなくなっても?」


直成さんの手が止まった。


次郎は、ただ不思議だったのだろう。


昨日まで頼朝がいた。


今日は、いない。


それでも父は、いつものように仕事へ行く。


直成さんは息子を見た。


「……うん。仕事は、なくならないんだ」


次郎は首をかしげた。


「じゃあ、誰が父上にお仕事を頼むの?」


ちよは、夫を見た。


直成さんは、しばらく答えなかった。


「広元殿もいるし、ほかにも、一緒に考える人がいるよ」


「そうなんだ」


次郎は納得したらしかった。


三郎が、父親の膝へよじ登った。


「ちち」


直成さんは抱き上げた。


まつが父の袖を握った。


「父上。今日は帰ってきたね」


「うん」


「明日も帰ってきてね」


直成さんは、娘の頭を撫でた。


「帰ってくるよ」


ちよは、その言葉を聞いていた。


今は、それだけでよかった。


* * *


子どもたちが眠り、家人も下がった。


直成さんは、持ち帰った文書を広げた。


ちよは隣へ座った。


「直成さん」


「何だい、ちよさん」


「今日は、もうお休みになりませんか」


「これだけ、見ておこうと思って」


夫は一枚を読み、別の一枚を寄せた。


また最初の一枚へ戻る。


筆を取った。


けれど、何も書かなかった。


ちよは黙って見ていた。


やがて直成さんが、小さくつぶやいた。


「……鎌倉殿なら」


夫の手が止まった。


しばらくして、もう一度言った。


「鎌倉殿なら、どうお考えになるだろう」


ちよは、夫の顔を見た。


「直成さん」


「今日も、何度も考えたんだ」


直成さんは文書を見つめていた。


「これを持っていけば、きっと、まず誰が困るのかとお尋ねになる。それから、広元殿の意見を聞いて……」


声が止まった。


「そこまで、考えられるんだ」


夫は、苦しそうに息を吐いた。


「その先が、分からない」


ちよは、夫の手へ触れた。


直成さんは顔を上げなかった。


「僕は、あの方が何とおっしゃるか、楽しみだったんだ」


「はい」


「難しい顔をされることもあった。何を考えているのかと叱られたこともあった」


夫の口元が、ほんの少し動いた。


「でも、ちゃんと聞いてくださった」


ちよはうなずいた。


「広元殿と考えて、また持っていくと、もう一度聞いてくださった」


直成さんは、ゆっくり首を振った。


「僕は、それが嬉しかった」


声が震えた。


「自分の考えたことが、誰かの役に立つ。鎌倉殿が、それを任せてくださる」


夫は、膝の上で手を握った。


「……それが、どれほど嬉しかったか」


ちよは、夫の横顔を見つめた。


直成さんは、いつも仕事の話を楽しそうにした。


忙しいとぼやきながら、頼朝に任された仕事を持ち帰る。


広元と相談して、うまくいかなければまた考える。


ちよは、その姿をずっと見てきた。


けれど、夫にとって、それがどれほど大切なことだったのか。


今、初めて知る気がした。


* * *


「ちよさん」


「はい」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「僕は、広元殿に会う前……」


言葉が止まった。


ちよは待った。


「何をしたらいいのか、分からなかったんだ」


夫は、遠くを見るような目をしていた。


「何のために、ここにいるのかも」


ちよは、その言葉を聞いた。


直成さんが昔のことを話すのは、珍しかった。


夫は、広元に見いだされたころのことを、時折話してくれた。


けれど、それ以前のことになると、いつも言葉が少なくなった。


「広元殿は、僕の話を聞いてくださった」


直成さんが言った。


「何ができるのか、何を考えているのか。変わったことを言う奴だと思われたはずなのに」


ちよは黙って聞いていた。


「仕事をくださった。居場所をくださった」


夫は、膝の上の手を見た。


「それから、鎌倉殿に会わせてくださった」


直成さんは、小さく息を吸った。


「あの方は、僕の話を聞いて……やってみろとおっしゃった」


ちよは、夫の声に耳を澄ませた。


「失敗したら、直せばいい。困ったら、広元に聞け。そう言ってくださった」


直成さんの目が潤んだ。


「僕は、あのとき初めて……」


言葉が途切れた。


ちよは、その手を握った。


「初めて、ここにいてもいいんだと思えたんだ」


直成さんは、ちよを見た。


「僕にも、できることがあるんだって」


涙が、一粒落ちた。


夫は、それを拭おうとしなかった。


「広元殿と鎌倉殿が、僕を必要としてくださった」


ちよは、胸が締めつけられるようだった。


直成さんは、いつも穏やかだった。


自分が何を考えているのか、すべてを話す人ではなかった。


けれど、仕事を任されたときの嬉しそうな顔は、何度も見てきた。


それは、ただ仕事が好きだからではなかったのだ。


* * *


「僕は、あの方と一緒に、鎌倉をつくっていくつもりだったんだ」


直成さんが言った。


「武士たちが、京の都合だけで土地を失わないように。困ったことがあれば、鎌倉で話を聞いてもらえるように」


ちよは、以前、頼朝が語っていた言葉を思い出した。


朝廷には朝廷の役目がある。


けれど、武士たちのことは、武士たちで守れるようにしたい。


頼朝は、そう考えていた。


直成さんは、そのために働いていた。


「鎌倉殿は、いつも先のことを考えておられた」


夫は続けた。


「僕が、こんなことはできないでしょうかと申し上げると、もっと大きなことをおっしゃるんだ」


ちよは、少しだけ笑った。


「そうでしたね」


「それで、広元殿と困るんだよ」


直成さんの口元が、わずかに緩んだ。


「できるのかと聞かれて、考えてみますと答える。すると、いつまでにできると聞かれる」


「お仕事が増えますね」


「うん」


「でも、楽しかった」


その言葉のあと、沈黙が落ちた。


直成さんは、文書を見た。


「まだ、途中なんだ」


ちよは、夫の手を握ったまま聞いていた。


「人を育てることも。誰が見ても分かるように記録を残すことも。鎌倉殿がいなくても、仕事が続くようにすることも」


直成さんの声が、低くなった。


「まだ、できていないことばかりなんだ」


「直成さん」


「これからだったんだよ」


夫は、初めてちよの方へ顔を向けた。


「これから、もっとよくしていくつもりだった」


目から涙が落ちた。


「鎌倉殿に、お見せしたかったんだ」


ちよは何も言えなかった。


「こんな仕組みができましたと。こんな人が育ちましたと。前よりも、ずっとよくなりましたと」


夫は、文書の上へ手を置いた。


「そうしたら、あの方は、きっと……」


言葉が止まった。


直成さんは、唇を噛んだ。


「……また、次の仕事をおっしゃるんだ」


ちよの目にも涙が浮かんだ。


頼朝なら、そうしただろう。


よくやったと言ったあとで、では次はどうすると尋ねる。


直成さんは、困ったような顔をして考える。


広元が、二人の間に入る。


そして、また仕事が増える。


その光景を、ちよは何度も見てきた。


もう、見ることはできない。


* * *


「どうして」


直成さんがつぶやいた。


「どうして、こんなに早く」


夫の手が、文書の上で止まった。


紙が一枚、床へ落ちた。直成さんは、それを見なかった。


「まだ、話したいことがあった」


声が震えていた。


「まだ、聞いていただきたいことがあった」


ちよは、夫の肩へ手を添えた。


「直成さん」


「……もっと、できることがあったのではないかと」


夫は、そこで言葉を切った。


ちよは息を止めた。


直成さんが、こんなふうに言葉を失うのを見るのは初めてだった。


いつも穏やかで、困ったことがあれば一つずつ考える人だった。


子どもたちが騒いでも、まず話を聞く。


仕事で行き詰まっても、広元に相談する。


頼朝に難しいことを言われても、どうすればできるかを考える。


その夫が、今は何も考えられずにいた。


「僕は……」


直成さんの肩が揺れた。


「僕は、あの方に……」


声が途切れた。


ちよは、夫を抱きしめた。


直成さんは、しばらく動かなかった。


やがて、ちよの肩へ額を寄せた。


「……生きていてよかったと、思えたんだ」


夫が、かすれた声で言った。


ちよは目を閉じた。


「広元殿に会って、鎌倉殿に会って……」


直成さんは、ちよの衣を握った。


「ここで、生きていこうと思えたんだ」


ちよは、夫の背を撫でた。


「はい」


「だから、僕は……」


夫は、それ以上言えなかった。


肩が震えた。


ちよは、ただ抱いていた。


直成さんが泣く姿を、初めて見た。


声は出さなかった。


肩だけが、小さく震えていた。


ちよは、夫の背へ腕を回した。


今は、何も言わなくてよいと思った。


* * *


どれほど時間がたったのか、分からなかった。


直成さんの呼吸が、少しずつ落ち着いてきた。


ちよは、夫の背を撫で続けた。


「……ごめんね」


直成さんが言った。


「何を謝るのですか」


「こんなところを、見せてしまって」


ちよは、夫の顔を見た。


「直成さん」


「うん」


「私は、あなたの妻ですよ」


直成さんは、少し驚いたようにちよを見た。


「いつも、直成さんに助けていただいています」


ちよは続けた。


「子どもたちのことも、家のことも。私が困っていると、話を聞いてくださるでしょう」


夫は黙っていた。


「今日は、私が聞きます」


直成さんの目から、また涙が落ちた。


「うまく話せなくても、構いません」


ちよは、その手を取った。


「泣いても、構いません」


夫は、握った手に力を込めた。


「……ありがとう、ちよさん」


ちよはうなずいた。


「それに」


「うん」


「直成さんが、何もしていなかったとは思いません」


夫は目を伏せた。


「広元様も、政子様も、義時殿も、今日、直成さんを必要としていらっしゃいました」


ちよは、床へ落ちた文書を拾った。


「鎌倉殿と一緒に考えてきたことは、ここに残っています」


直成さんは、文書を見た。


「うん」


「けれど」


ちよは、紙を重ねた。


「残っているから悲しまなくてよい、とは申しません」


夫が顔を上げた。


「直成さんは、鎌倉殿に、見ていただきたかったのですよね」


直成さんの顔が歪んだ。


「うん」


「一緒に、喜びたかったのですよね」


夫は、何度もうなずいた。


ちよは、その手を握った。


「それは、もう、できないのですね」


直成さんは、声を出さずに泣いた。


ちよも、涙を拭わなかった。


* * *


やがて、直成さんが小さく言った。


「広元殿も、つらいはずなんだ」


「ええ」


「今日も、ずっと仕事をしておられた」


「はい」


「義時殿も。政子様も」


直成さんは、ゆっくり息を吐いた。


「皆、あの方を失ったんだ」


ちよはうなずいた。


「そうですね」


「僕だけが、悲しいわけじゃない」


「ええ」


直成さんは、ちよの手を見た。


「それでも……」


「はい」


「悲しいんだ」


ちよは、夫をもう一度抱きしめた。


「はい、直成さん」


夫は、ちよの肩へ顔を寄せた。


「会いたい」


その一言は、とても小さかった。


けれど、ちよには、今夜聞いたどの言葉よりも重く感じられた。


頼朝に、もう一度会いたい。


仕事の話をしたい。


困った顔を見たい。


叱られたい。


一緒に笑いたい。


そのどれも、もうできない。


ちよは、夫の背を撫で続けた。


* * *


しばらくして、直成さんが顔を上げた。


灯りは、ずいぶん小さくなっていた。


ちよは、乱れた文書へ目を向けた。


「今夜は、畳んでおきましょうか」


夫は、少し迷った。


それから、うなずいた。


「うん」


ちよは、一枚ずつ紙をそろえた。


直成さんも手を伸ばし、最後の一枚を重ねた。


今度は、端がそろった。


けれど、ちよは、それを見てもう大丈夫だとは思わなかった。


「直成さん。少し横になりましょう」


「眠れるかな」


「眠れなくても、横になっていてください」


ちよは、夫を見た。


「私も、そばにおります」


直成さんは、しばらくちよを見つめた。


「ちよさんも、疲れたでしょう」


「ええ。ですから、ご一緒に」


夫は、ほんの少しうなずいた。


* * *


二人で横になると、隣の部屋から子どもたちの寝息が聞こえた。


ちよは、夫の手を取った。


昼間見た広元の顔を思い出した。


政子の重ねた手。


義時の硬い表情。


皆、頼朝を失っていた。


それでも、明日も鎌倉の仕事は続く。


直成さんも、きっと仕事へ行くだろう。


広元と相談し、義時と話し、文書を確かめる。


頼朝が築いた鎌倉を、守ろうとするだろう。


けれど、今夜だけは。


ちよは、夫の手を握り直した。


今夜だけは、何も決めなくてよいと思った。


「ちよさん」


「はい」


直成さんは、しばらく黙っていた。


「……僕には、まだ話していないことがあるんだ」


ちよは顔を向けた。


直成さんは、天井を見つめていた。


「広元殿に会う前のことも」


「はい」


「どうして、あのころ、あんなふうになっていたのかも」


直成さんは、ゆっくり息を吸った。


「ずっと、話さなければと思っていた」


ちよは、直成さんの手を離さなかった。


何を話そうとしているのかは、分からない。


けれど、直成さんがそれを話そうとしていることだけは、分かった。


「……はい」


ちよは、それだけ答えた。


隣の部屋で、三郎が寝返りを打ったらしく、小さな物音がした。


やがて、また静かになった。


直成さんは、その音を聞いてから、ちよの手を握り返した。

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