幕間27 源頼朝は、直成たちに鎌倉の政務を託す
建久七年(1196年)、鎌倉。
三郎が生まれる少し前のことだった。
頼朝は、返事を待っている訴えの文書を、広元の前へ置いた。
「こちらは、まだか」
「もう一度、確かめております」
「直成か」
「はい」
頼朝は、小さく息を吐いた。
「確かめることが、よく尽きぬものだ」
広元は文書を手に取った。
「尽きたつもりで返せば、もっと手間がかかることもございます」
頼朝は、その返事を否定しなかった。
*
そのころ、直成は若い書き手と、文書を見比べていた。
「この川は、どちらの川だろう」
「古い文書に、同じ土地の名がございましたので……」
「うん。ただ、こちらの川と、こちらの川は、位置が違うね」
若者が文書を見比べ、口を閉じた。
「川の名が変わったのかもしれない。よく似た名の、別の土地かもしれない。今は、どちらとも言えないね」
「申し訳ございません」
「先方への返書は?」
「まだでございます」
「それなら、出す前に確かめよう」
若者が肩を落とした。
直成は、その手元の一行を指した。
「ここに、何を見たのか残しておこう。これだけだと、後から読む人には、確かめ終えたように見える」
「短くまとめるようにと、伺いましたので」
直成は一度、口を閉じた。
「そうだったね。僕の言い方が足りなかった」
若者が顔を上げる。
「何を調べて、どこまで分かったか。分からないところも、分からないと書いてほしいんだ」
「分からないことまで、でございますか」
「次の人が、そこから調べられるようにね」
そこへ広元が戻ってきた。
事情を聞くと、文書を取り上げる。
「土地の訴えならば、問注所で扱う文書とも照らさねばならぬな。私から話を通そう」
若者が頭を下げた。
「先方には、調べ直していると知らせよ。返事がなければ、訴えを捨て置かれたと思うであろう」
「僕が文案を整えます」
直成が答えると、広元はうなずいた。
「今度は、この者にも書かせてみよ」
「はい。二人で見ます」
若者は、手元の紙をもう一度、読み始めた。
*
ほどなく、直成は広元とともに頼朝の前へ呼ばれた。
一人の御家人が申し立てをしていた。
御家人は、頼朝に仕える武士だった。
「二階堂殿のところで調べていただきましたゆえ、こちらの申し分は認められたものと……」
直成が頭を下げた。
「さらに確かめると申し上げましたが、僕の伝え方も足りなかったかと存じます」
頼朝は御家人を見た。
「調べておることと、認めたことは違う」
「はっ」
「相手方の申し分も聞かねばならぬ。今は、決まったものとして動くな」
声は低かった。
御家人が姿勢を正す。
「ただし、待たせたままにもせぬ。広元から、改めて知らせる」
「承知いたしました」
御家人が退出してから、頼朝は直成へ向き直った。
「お前が見たというだけで、わしが認めたことになるのか」
「それは困ります」
「困るのは、わしだ」
広元が静かに口を開いた。
「調べている途中の知らせ方を、こちらで改めます」
頼朝は文書を置いた。
「頼むぞ。土地を認めると約した相手に、届いた紙の意味まで考えさせては、約束が役に立たぬ」
直成の顔つきが変わった。
「はい。何が決まり、何がまだ決まっていないのか、分かるようにいたします」
「お前たちが確かめねばならぬことは、確かめよ。わしに決めさせるところは、持ってこい」
「また、お尋ねすることが増えるかもしれません」
頼朝が眉を寄せた。
「今も十分に多い」
「気づいたことを、置いておくわけにもまいりませんので」
「分かっておる」
広元が、文書へ目を落とした。
その口元が、少し動いた。
頼朝はそれを見た。
「お前も、同じことを申すつもりだったか」
「はい」
「では、一人から聞けばよいな」
直成も、笑いながら頭を下げた。
*
頼朝は、広元の持つ文書を指した。
「先ほどの書き手は、直成が教えておる者か」
「はい」
直成が答えた。
「次には、自分で気づけそうか」
「今日のことを、一緒に確かめ直してみます」
「ならば任せる。お前が全部書き直して終わりにするなよ」
「広元殿にも、同じことを言われました」
「では、二度言われたのだ。忘れるな」
直成が頭を下げた。
頼朝は、その姿を見ていた。
一枚の返書なら、直成が書き直す方が早いかもしれない。
けれど、そのたびに直成を呼ばねばならぬのでは、訴えが増えるほど仕事が詰まる。
自分が決めるまでに、誰が何を確かめるのか。
決めたあと、どう伝えるのか。
頼朝は、それを任せられる者を増やさなければならなかった。
「広元。あの者の返書も、後で見てやれ」
「承知いたしました」
「直成。お前も、一人で抱えるな」
「はい」
広元が、直成を見た。
「返事だけは早いのだが」
頼朝は、少し笑った。
*
政務の話が済んだところへ、政子が来た。
直成の家から、先日置いていった衣が届いているという。
「ちよが持ってきたのか」
頼朝が尋ねると、政子は首を振った。
「家人に持たせたそうです。ちよは、家で休んでいます」
直成が、少し顔を和らげた。
頼朝はそれを見た。
「子どもたちは、楽しみにしておるか」
「毎朝、今日生まれるかと尋ねております」
頼朝が笑った。
「待つ方は、何もできぬからな」
政子が夫を見る。
「あなたも、何度も様子を聞きに来ましたね」
「聞かねば分からぬであろう」
「聞いたばかりなのに、また聞くのですもの」
頼朝は答えず、直成へ目を向けた。
「お前も、そうか」
「はい。妻に、今朝も聞きました」
「腹を見れば、まだだと分かるではないか」
「鎌倉殿も、お聞きになったのでしょう?」
政子の言葉に、頼朝は咳払いをした。
広元が、そっと文書をそろえる。
頼朝はしばらく黙り、それから言った。
「直成。今日は、早く帰れ」
「ですが、まだ返書が」
「それは私が見る」
広元が答えた。
直成は広元と頼朝を見て、頭を下げた。
「ありがとうございます」
「生まれるときには、こちらへも知らせよ。仕事の途中でもだぞ。お前は、きりのよいところまでなどと言いそうだからな」
直成は、少し困った顔で笑った。
頼朝は、衣の包みも忘れず持ち帰るように言って、直成を送り出した。
*
帰宅すると、まつが駆けてきた。
「父上!」
「母上は?」
「すわってる」
まつは、父の手を引こうとした。
後ろから次郎も来る。
部屋へ入ると、ちよは太郎の用意した座に腰を下ろしていた。
まつが、その腹をのぞいた。
「まだ?」
「まだですよ」
次郎は直成を見上げた。
「父上も、聞いたら?」
「今、母上が答えたでしょう」
「でも、父上は、今朝から聞いてない」
直成は、ちよを見た。
ちよは笑いをこらえていた。
「今日は、お帰りが早かったのですね」
「鎌倉殿が、早く帰るようにとおっしゃってね」
次郎が尋ねた。
「父上は、言われたらすぐ帰れるんだ」
「今日はね」
「赤ん坊も、鎌倉殿に言ってもらったら?」
ちよが笑うと、直成も笑った。
「それは、鎌倉殿にも難しいと思うよ」
*
夜。
子どもたちが眠り、家人も下がると、ちよは直成に話しかけた。
「鎌倉殿は、お気づきだったのですね」
「何を?」
「直成さんが、お仕事を残して帰ることを気にするところです」
直成は、少し困った顔をした。
「広元殿も、任せろと言ってくださったよ」
「では、今夜はお任せしましょう」
「うん」
「僕にも、人へ任せろと言われたところだったんだ。若い書き手に教えているのに、つい自分で直そうとしてしまって」
「直す方が、早いのですか」
「今はね。でも、そればかりでは、その人が次も困る」
ちよは、夫の手を取った。
「では、ぜひ、よく教えて差し上げてください」
直成が笑う。
「僕を休ませるために?」
「この子が生まれたら、家でもお願いしたいことがございますから」
「それは、何だろう」
「三人の支度と、遊び相手と。それから、この子を抱いていただきます」
直成は真剣にうなずいた。
「抱くのは、楽しみだな」
「泣いていても?」
「うん」
「私にも、泣く理由が分からなかったら?」
「一緒に考えよう」
ちよは、夫の手を腹へ導いた。
しばらく待つと、その下で小さく動くものがあった。
直成が顔を上げる。
「今?」
「はい」
直成は嬉しそうに笑った。
仕事を任されたときとも、子どもたちに囲まれたときとも違う、静かな笑顔だった。
「直成さんは、この子にも、たくさん教えるのでしょうね」
「まずは、抱かせてもらうところからかな」
「それは、この子に教わる方ですね」
「本当だ」
二人で笑った。
昼間、頼朝は、直成の仕事の続きを広元に任せた。
直成は安心して帰り、今はこうして、ちよの隣にいる。
返書のことを思い出しても、今夜は立ち上がらなかった。
ちよはその手に自分の手を重ねた。
「直成さん」
「何だい、ちよさん」
「今度は、少し大きく動きましたね」
「うん」
直成は手を離さず、次を待っていた。
ちよも一緒に、もうしばらく待つことにした。
――――――――――
【人物紹介】
◆源頼朝
鎌倉に武家政権を築いた人物。本作では、御家人に対する厳しさと、実務を担う者への信頼、家族を気遣う姿を描いています。本話の発言や出来事は創作です。
◆北条政子
頼朝の妻。本話では、夫の父親としての一面を知る人物として、頼朝や直成との会話に登場します。
◆大江広元
京都で培った知識や実務能力を生かし、頼朝の政務や朝廷との交渉を支えた人物。公文所・政所の長官を務めました。
――――――――――
【事件・時代背景紹介】
◆鎌倉を支えた日々の政務
本話では、特定の歴史上の事件ではなく、政権を支える文書の確認や訴えへの対応を扱いました。
鎌倉では、政務を扱う公文所・政所や、訴訟に関わる問注所などの機関が整えられました。広元のほか、問注所の実務を担った三善康信なども、頼朝の政治を支えています。
◆「守る」という約束を、仕事につなげる
土地をめぐる申し立てに対応するには、相手の言葉を聞くだけでなく、文書や双方の主張を確かめる必要があります。
本話の土地争いは架空の事例です。調査途中の知らせ方や、人を育てる具体的な手順も、当時の記録をそのまま再現したものではありません。前話で語った頼朝の構想を、直成たちの日常の仕事として描くために設けた場面です。
◆三郎の誕生を待つ二階堂家
ちよが身ごもっている四人目の子は、のちの三郎です。三郎の誕生を待つ時期に当たります。




