幕間26 源頼朝は、直成と鎌倉の先を語る
建久六年(1195年)、鎌倉。
頼朝は、使いの者を送り出すところだった。
「返事を得たら、こちらへ届けよ。先方が何と申したかも、広元へ伝えるのだ」
使いの者が頭を下げる。
頼朝は短くうなずいた。
相手が去ると、部屋には直成と大江広元が残った。
広元は、京との交渉や文書の仕事を担う人だった。
政子が入ると、頼朝は妻を見た。
「待たせたな」
「衣の直しが途中でございます」
「それは、すまぬ」
頼朝は素直に答えた。
政子は、いつものことのように座った。
ほどなく、政子の弟、義時も来た。
皆が座ると、頼朝は広元へ言った。
「京の返事を待てと申すうちに、こちらの訴えが増える。待っているだけで片づくものはないのか」
「待つ間に、確かめられるものは進めております」
広元が答えた。
直成もうなずいた。
頼朝は、直成を見た。
「お前も、同じことを申すつもりだったな」
「はい」
「一人でよい」
政子が笑った。
義時も口元を緩めた。
頼朝は直成の顔を見て、わずかに口元を緩めた。
***
「京へ行くと、父のことを思い出す」
頼朝が言った。
笑いが静まった。
頼朝の父、源義朝は、京の争いに敗れて命を落とした。
頼朝自身も捕らえられ、伊豆へ流された。
「父も、京で働いた。戦い、役目を得て、人と結んだ」
頼朝は、庭へ目を向けていた。
「だが、争いに敗れれば、それまでの働きがあっても、家を守れるとは限らぬ」
義時が静かにうなずいた。
「頼る相手が力を失えば、土地を守るために、別の相手を探すことになります」
「そうだ」
頼朝は義時を見た。
「隣の者は、また別の者を頼る。同じ土地の争いに、京の人々の争いまで重なる」
土地で争う者は、味方になってくれる相手を探す。その相手同士も争っていれば、田の境だけでは話が済まなくなる。頼朝は、そうした者たちの訴えを聞いてきた。
「訴える場も、権利を認める文書も、以前からございました」
広元が言った。
「ただ、文書があっても、相手が従うとは限りません。話を届けるにも、間に立つ人が要ります」
頼朝がうなずいた。
「そこで、わしを頼って集まった者に、鎌倉へ持ってこいと申すのだ」
直成は、じっと聞いていた。
「わしに仕える者の土地を認め、働きには報いる。困ったときに、その約束を頼れるようにする」
政子が尋ねた。
「御家人たちにも、働いてもらうのでしょう」
御家人は、頼朝に仕える武士たちだった。
「兵を出し、役目を果たしてもらう。こちらも、認めた権利を守る」
頼朝は答えた。
「鎌倉を頼っても何も守れぬと思われれば、皆、ほかの相手を探すだろう」
頼朝は三人を見た。
鎌倉へ集まった者たちには、それぞれ守りたい家がある。
自分が命じれば、いつまでも従うと思っているわけにはいかなかった。
***
「清盛は、武士で太政大臣にまでなった」
頼朝が言った。
太政大臣は、朝廷で最も高い役職だった。
「娘を天皇のもとへ入れ、一門の者を重い役目へ置いた。あれだけのことをした者を、軽くは見られぬ」
頼朝は、机に置かれた文書へ目を落とした。
「わしにも、京との縁は要る。大姫の話も、その一つだ」
頼朝は続けた。
「だが、京でわしの立場が強くなれば、ここに集まった者の土地が、すべて守れるわけではない」
直成が口を開いた。
「現地の争いは、残りますね」
「そうだ。わしの官位が上がったからといって、隣の者が田を返すとは限らぬ」
義時が、少し口元を緩めた。
頼朝は、それを見た。
「笑い事ではないぞ。官位を尋ねる前に、田の境を見てこいと申したくなる」
広元が静かに答えた。
「境を確かめる者は、必要でございます」
「また、仕事が増えたな」
「以前からございます」
政子が笑った。
頼朝も、わずかに笑った。
直成は、その間も考えていた。
「認めるというお言葉が、実際に何を認めたものなのか。そこを確かめたいと思います」
頼朝が直成を見た。
「続けよ」
「同じ土地でも、年貢を受け取る権利と、現地で管理する役目が、別の人にあることがございます」
一つの田について、一人だけがすべてを持っているとは限らなかった。京で年貢を受け取る領主がいて、現地では武士が管理している場合もある。
「それを、土地を認められたという言葉だけで受け取れば、自分にすべて任されたと思う人もおります」
直成は続けた。
「別の権利を持つ人と争いになったとき、鎌倉殿に約束を破られたと思うかもしれません」
頼朝の眉が寄った。
直成は、言葉を引っ込めなかった。
「何をお認めになったのか。以前から誰が、どのような権利を持っていたのか。双方の文書と話を確かめたいのです」
広元がうなずいた。
「そのうえで、京の領主とも話を整えます」
頼朝は、二人を見た。
「わしは、守ると申す。お前たちは、何を、どこまで、と申す」
直成も広元も、うなずいた。
頼朝は、小さく息を吐いた。
「……頼む」
直成が頭を下げた。
顔を上げるとき、口元が少し緩んでいた。頼朝は、その顔を見てから次の文書へ手を伸ばした。
***
義時が尋ねた。
「京から、こちらの約束と違う命が来たときは、どういたしましょう」
頼朝の目が、義時へ向いた。
「義経との争いで、わしを討てという命まで出た」
部屋が静かになった。
義経は、平氏との戦いで大きな働きをした頼朝の弟だった。
兄弟が争ったとき、朝廷の命令も、その争いに重なった。
「こちらを頼っている者に、こちらを討てと申す。そうなれば、誰に従うかで分かれる」
頼朝は、膝の上へ手を置いた。
「朝廷からの命なら、軽く扱うことはできぬ。だが、その命が、どのような事情で出たのかは確かめねばならぬ」
広元が言った。
「こちらの事情を、京へ申し上げることも必要です」
政子が尋ねた。
「聞いていただけなければ?」
頼朝は妻を見た。
すぐには答えなかった。
「争いになることもあろう」
頼朝は続けた。
「だが、腹が立つたびに兵を出せばよいとは思わぬ」
「御家人たちの負担もございますね」
義時が言った。
「兵を出す者の家には、家族も田も残る。遠くまで戦いに行かせて、帰ったときには土地を失っておったのでは、鎌倉を頼れとは申せぬ」
直成は、膝の上で指をそろえ、黙って聞いていた。
「戦って勝つことと、そのあとを守ることは、どちらも考えねばならぬ」
頼朝は言った。
「わしも、何でも守りきれるわけではない」
誰も、すぐには答えなかった。
頼朝は、三人の返事を待った。
直成が、静かに答えた。
「だから、京との話も、こちらの仕事も、整えておかなければならないのですね」
頼朝はうなずいた。
***
「わしの顔を知っている者ばかりでもない」
頼朝が言った。
「遠くの者には、文書が届く。それを持って、こちらが認めたと申す」
直成が顔を上げた。
「その文書を、次に仕事をする者も読めるようにしたいと思います」
「読めぬ字を書く者がいるのか」
「字だけではございません」
直成は、少し困った顔をした。
頼朝の口元が緩んだ。
「分かっておる。申してみよ」
「何を調べ、誰の話を聞いて、その返事にしたのか。担当した者だけが覚えていては、あとから確かめられません」
広元もうなずいた。
「病で休むことも、別の役目へ移ることもございます」
「私が休んでも、続きを見られるようにしたいのです」
直成が言った。
頼朝は、少し考えた。
「わしが留守でも、進められるものがあると」
「はい。ただ、新しい判断が必要でしたら、お尋ねします」
「そこは、わしの仕事か」
「はい」
義時が笑いをこらえた。
頼朝は三人を見た。
「お前たちの話を聞くと、わしが楽になるのか、分からなくなる」
直成が答えた。
「同じことを、初めからお聞きする回数は減らせると思います」
「違うことを聞きに来るのだろう」
直成は、少し考えた。
「それは、あると思います」
政子が笑った。
義時も、とうとう笑った。
頼朝はため息をついたが、すぐに言った。
「広元と進めよ。義時、お前も、御家人が何に困っているか聞いてくれ」
三人が頭を下げた。
頼朝は、その姿を見ていた。
「困ってから来る者ばかりでもなかろう。言い出せずにいることもある」
義時が顔を上げた。
「承知いたしました」
広元が文書を寄せ、直成は手元の紙へ書き留めた。義時も、尋ねるべき相手を考えていた。頼朝はその様子を確かめ、次の用件へ移ろうとした。
***
家人が政子を呼びに来た。
大姫が、少し庭を眺めたいと言っているという。
頼朝が、すぐに顔を上げた。
「起きておるのか」
「はい。今日は、お加減がよろしいようでございます」
頼朝は立ち上がった。
袖が文書へ触れた。
広元が紙を押さえ、直成が端を持ち直す。
頼朝は戸口を見ていた。
「庭へ出るなら、羽織るものを用意せよ。風がある」
政子が庭を見た。
木の葉は、ほとんど動いていなかった。
「まず、お顔をご覧になっては」
「そうだな」
廊下の先に、大姫の姿が見えた。
付き添いの女と、ゆっくり歩いてくる。
頼朝は、その手前で足を止めた。
「具合はどうだ」
「今日は、少しよいようです」
「そうか」
頼朝の顔が和らいだ。
大姫が腰を下ろすと、近くへ座った。
「疲れぬか」
「少し、眺めるだけです」
「何か欲しいものは?」
「今は、ございません」
頼朝は、娘の顔を見ていた。
大姫は庭へ目を向けた。
しばらくして、頼朝がまた尋ねた。
「本当に、具合はよいのだな」
大姫の口元が、わずかに緩んだ。
「父上。先ほども、お尋ねになりました」
頼朝は口を閉じた。
政子が言った。
「聞いても、まだ心配なのですよ」
「お前は、余計なことを申すな」
その声に、強さはなかった。
頼朝が廊下へ目を向けた。
誰かを呼ぼうとしたようだった。
そのとき、大姫が尋ねた。
「父上も、こちらにいらっしゃいますか」
頼朝は娘を見た。
「わしか」
「はい」
「おる」
返事は早かった。
頼朝が広元を見る。
広元は静かに頭を下げた。
「続きは、後ほど」
直成も文書を抱え直した。
頼朝は二人へうなずき、娘の方へ向き直った。
今度は、何も尋ねなかった。
大姫が何か言うと、すぐに顔を向けた。
政子は少し離れたところで腰を下ろした。
頼朝は、娘が指さす庭へ目を向けた。文書の続きは、広元たちに任せていた。
*
その夜、子どもたちが眠り、家人も下がってから、直成はちよと二人で座った。
「今日は、鎌倉殿から仕事を任されたよ」
「新しいお仕事ですか」
「今まで調べたことを、次の人にも分かるように残しておくんだ」
ちよは、直成の顔を見た。
「嬉しそうですね」
「顔に出ている?」
「はい」
直成は、少し照れたように笑った。
「頼まれると、嬉しいよ。それに、あの方がつくろうとしている鎌倉を、僕もつくりたい」
ちよは、その言葉を聞いた。
「直成さんが、家でお調べになっているものも、そのお仕事ですか」
「うん。僕だけが分かっていても、続かないからね」
「私には、まだ分からないところがございます」
「うまく説明できるかな」
「分からないときには、尋ねます」
直成はうなずいた。
「今日も、広元殿と僕が同じことを言いそうになってね。鎌倉殿に、一人でよいと言われたよ」
ちよが笑った。
「お二人とも、黙ってはいられなかったのでしょう」
「僕は、まだ何も言っていなかったんだけれど」
「お顔に出ていたのでは?」
直成は返事に困り、それから笑った。
ちよは、その手へ自分の手を置いた。
*
「子どもたちにも、少しずつ話したいね」
直成が言った。
「どうして鎌倉へ人が集まったのか。今あるものも、初めからあったわけではないから」
ちよはうなずいた。
「太郎は、きっと、その前はどうしていたのかと尋ねます」
「それは、長くなるね」
「次郎は、途中で別のことを尋ねます」
直成は笑った。
「まつは?」
「お膝へ上がります」
直成は、自分の膝を見た。
「話せるかな」
「まず、三人を座らせるところからでしょうね」
「広元殿にも、お越しいただこうか」
ちよは笑った。
「鎌倉殿が聞いたら、一人でよいとおっしゃいますよ」
直成が声を出して笑った。
隣の部屋で、子どもが身じろぎした。
二人は顔を見合わせ、少し声を落とした。
ちよの手を握ったまま、直成は、誰から話し始めるかを考えていた。
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【人物紹介】
源頼朝
鎌倉を拠点に武士の政権を築いた人物。御家人との主従関係を整える一方、朝廷との交渉も重ねました。
北条政子
頼朝の妻。大姫、頼家、三幡、実朝の母です。本作では、頼朝の相談相手であり、子どもや御家人の家々の暮らしにも目を向ける人物として描いています。
大江広元
京での実務経験を持ち、頼朝のもとで文書や政務に関わった人物。
北条義時
北条時政の子で、政子の弟。頼朝に仕え、後に幕府の政治で重要な役割を担います。
【事件・時代背景紹介――頼朝は、鎌倉に何を残そうとしたのか】
■ 御家人との約束
頼朝の政権を支えたのは、頼朝に仕える武士である御家人たちでした。
御家人は軍事や警備などの役目を果たし、頼朝は所領に関わる権利を認め、働きに応じて恩賞を与えました。ただし、すべての武士や住民の土地を、一律に守る制度だったわけではありません。
本作では、この主従関係を「働くことと、認められた権利を守ってもらうことが結びついている」と描いています。
■ 一つの土地に、複数の権利があった
当時の土地には、朝廷の貴族や寺社、現地の武士など、複数の人々の権利が重なっていました。
年貢を受け取る権利、現地を管理する役目、耕作に関わる権利などが、別々の人に属する場合もあります。「土地を持つ」という言葉だけでは、誰が何をできるのかを説明しきれません。
■ 朝廷との関係
鎌倉の政権は、朝廷との関係を保ちながら成立しました。頼朝が朝廷の役職に就き、京都と書状を交わしていたことも、その関係を示しています。
文治二年(1186年)の頼朝の書状には、朝廷で公卿たちが話し合って政治を行うことや、不当な命令については出された後でも見直すことを求める内容があります。頼朝が、朝廷の政治の進め方についても意見を述べていたことが分かります。
■ 本作で描いた「頼朝の構想」
この話では、御家人が鎌倉を頼れる状態を保つこと、京との交渉を続けること、日々の仕事を人へ引き継げるようにすることを、頼朝と直成たちの会話にまとめています。
頼朝の構想や行動には、源氏の家や自分の政権を強くする意図もありました。御家人の暮らしを案じる姿と、厳しい政治判断を下す姿を、同じ人物の中に描いています。




