第7話 母上は、父のいない家で米を量る
承元二年(1208年)、鎌倉。
昼過ぎ、三郎が庭へ出ると、軒先からまだ雫が落ちていた。
昨夜の雨は強かった。庭の端に掘った溝には、細く水が流れている。次郎兄が直していなければ、今ごろ戸口の前まで泥になっていただろう。
土間では、母のちよが米びつを開けていた。
三郎は敷居に腰を下ろした。
「母上、何を見ているのですか」
「夕飯に使う分よ」
「まだ昼なのに?」
「夕方になって足りないと分かっても、困るでしょう」
母は木の升を取り、米の上へ置いた。
そこへ、長兄の宗直が入ってきた。
「母上。米を少し分けてもらえませんか」
母が顔を上げる。
「どなたに?」
「西の道沿いの家です。昨夜、屋根の一部が落ちたそうで。米まで濡らしてしまったと」
宗直の肩には、畳んだ筵が載っていた。藁を編んで作った敷物だ。
「それは、うちの?」
「俺の家から持ってきました。濡れたところへ敷けるかと思って」
「ふみには言ってきたの?」
兄の手が、肩の筵を押さえた。
「……戻ってから話します」
母は少しだけ眉を上げた。
「先に話しておいで。使うつもりで出してあったかもしれないでしょう」
「はい。ただ、米を先に」
「何人いるの?」
「子どもがいると聞きました」
「何人?」
兄が黙った。
三郎は母と兄を交互に見た。
太郎兄はもう、相手の家へ米を運ぶところまで考えているらしい。母は、まだ升を持っていない。
「どれくらい必要なのですか」
三郎が尋ねると、兄はすぐ答えた。
「三日分だそうだ」
「何人の三日分?」
「三郎まで、母上と同じことを聞くな」
「同じところが分からないから」
兄は困った顔をした。
戸口の外で足音がした。
次兄の光成だった。袖をまくり、両手に泥をつけている。
「母上、古い縄はどこだ」
「何に使うの?」
「西の家の屋根。筵を掛ける」
宗直が振り向いた。
「お前、もう見てきたのか」
「ああ。梁は残ってる。上を覆えば、ひとまず雨はしのげる」
光成は宗直の肩を見た。
「それ、持っていくのか」
「そのつもりだ」
「助かる。あと二枚欲しい」
兄たちの間では、もう話が進んでいた。
母が米びつのふたを閉じた。
「待ちなさい。家の筵を全部持っていかれては、こちらが困ります」
「全部は持っていかない」
光成が答える。
「何枚残すつもり?」
光成は戸口の脇を見た。
そこに積んであった筵は、三枚だった。
母も同じところを見た。
「……一枚」
「それは全部に近いでしょう」
三郎は少し笑った。
次郎兄がこちらを見る。
「お前も来い。小さい物なら運べる」
「私はまだ、行くとは」
「三郎には、別のことを頼みます」
母が言った。
「太郎兄と一緒に、向こうの家で話を聞いてきて。何人いるのか、今夜はどこで寝るのか。米を炊く道具は使えるのか」
三郎は立ち上がった。
「書いてくる?」
「忘れそうならね」
「書いた方が確かです」
「それなら、紙を持っておいで」
母は宗直へ向き直った。
「炊いた飯を少し用意するから、先に持っていって。米は、帰ってきてから量りましょう」
宗直の肩が下がった。
「分かりました」
三郎が紙を取りに行くと、後ろで光成の声がした。
「母上、縄は」
「納屋の左。新しい束は残しておいて」
「分かった」
「それから、泥の手であちこち触らない」
返事がなかった。
少しして、戸口を拭く音が聞こえた。
*
西の家では、戸板の上に濡れた衣や寝具が広げられていた。
屋根の片側に穴があり、その下の土は黒く湿っている。
三郎は紙を広げようとして、置く場所がないことに気づいた。
「こちらでどうぞ」
家の女が、慌てて荷を動かそうとする。
「いえ、大丈夫です」
三郎は膝の上へ紙を置いた。
宗直が包みを差し出すと、小さな子がその手元を見た。
「まず、これを召し上がってください。母からです」
女は何度も頭を下げた。
三郎は筆を持ったまま、包みが開かれるのを見ていた。
子どもは三人いた。一番小さい子は、女の背に負われている。
「今は、ご家族五人で?」
宗直が尋ねた。
「はい。二晩しのげれば、兄のところから米を届けてもらえます」
「三日分と聞きましたが」
「それが、先ほど使いが来まして。明後日には来られると」
三郎は、書こうとしていた「三」をやめた。
「竈は使えますか」
「火はつけられます。ただ、薪が濡れてしまって」
庭の端で、光成が顔を上げた。
「薪もか」
女が頷く。
光成は屋根から下がった縄を引き、結び目を確かめた。
「うちに乾いたのがある。あとで持ってくる」
宗直がすぐ口を開いた。
「それも、おりんに聞いてからだぞ」
「分かってる」
「本当か」
「太郎兄には言われたくない」
三郎は紙へ目を落とした。
二日分の米。
乾いた薪。
今夜は、雨の入らなかった部屋で五人一緒に寝るという。
書き終えるころ、小さな子が宗直の袖を引いた。
包みの中に残った飯を指している。
「食べていい?」
「ああ。皆で分けてお食べ」
宗直がしゃがんだので、肩に載せていた筵がずれた。
三郎は慌てて受け止めた。
*
家へ戻ると、母は土間に袋を用意していた。
三郎は紙を見ながら、聞いたことを順に話した。
母は途中で一つだけ尋ねた。
「小さい子は、どれくらい?」
「与一より小さいと思う。母親に背負われていたから」
「そう」
母は升で米をすくった。
三郎はその手元を見た。
升の縁から盛り上がった米を、母が指で静かにならす。袋へ移すと、乾いた音がした。
宗直が袋の口を持った。
「これは、貸すことにしますか」
「向こうの方は、何と言っていたの?」
「秋に返したいと」
「では、そう書いておきましょう。こちらでも、渡した分を覚えておきたいから」
三郎は紙の端に書き加えた。
母は米を量り終えると、袋の口を結んだ。
「薪は、次郎兄が持っていくそうです」
「おりんに聞いた?」
「今、聞きに行っています」
母は頷いた。
宗直が袋へ手を伸ばす。
「俺が届けます」
「その前に、ふみのところへ」
兄の手が止まった。
「筵のことが、まだでしょう」
三郎は兄を見上げた。
兄は小さく息をつき、袋を置いた。
*
夕方、兄たちが戻るころには、あやが何度も戸口へ顔を出していた。
「太郎兄、遅い」
「悪かった」
「おなかが空いた」
「先に食べていてよかったのに」
「皆で食べるって、母上が」
宗直が母を見ると、母は椀を並べていた。
「あなたたちの分を取り分けようとしたら、あやが待つと言ったのよ」
あやは黙って自分の席へ戻った。
まつが、その前へ椀を置く。
「待っていたのなら、そう言えばいいでしょう」
「おなかが空いたのも本当だもの」
光成が笑って腰を下ろした。
母は兄の手を見た。
「洗った?」
「洗った」
「爪の間」
光成は両手を裏返し、もう一度立ち上がった。
三郎は自分の手を確かめた。
指先に墨がついている。
母と目が合った。
三郎も立った。
二人で手を洗って戻ると、宗直がようやく飯を口へ運んでいた。
母も自分の椀を取った。
三郎は隣へ座り、小声で尋ねた。
「母上は、初めから二日分なら出せると思っていたの?」
「三日分でも、何とかするつもりだったわ」
「それなら、先に量っても」
「向こうの家では、薪にも困っていたのでしょう」
三郎は頷いた。
米だけ運んでいたら、炊くための薪を探す間、子どもたちはまた待つことになった。
母は汁を一口飲んだ。
「聞いてきてくれて、助かった」
三郎は膝の横に置いた紙を見た。
そこには米の量と、返してもらう約束が書いてある。
乾いた薪は、もう次郎兄が届けていた。
「母上」
「何?」
「明日は、あの家の屋根を直すの?」
「次郎兄に聞いてごらん」
光成が顔を上げた。
「明日は晴れたらだ。まず、屋根を乾かす」
「晴れなかったら?」
「筵を掛け直す」
三郎は紙へ手を伸ばしかけた。
その前に、母が飯の入った椀を寄せた。
「続きは、食べてから」
三郎は筆の代わりに箸を取った。
向かいでは、あやがもう椀を空にしていた。
「母上、もう少し」
「はい」
母が飯をよそう間、宗直は自分の椀を見ていた。
やがて、残っていた飯を大きく一口食べた。
母はそれを横目で見てから、あやへ椀を返した。
*
食事が済むと、母は残った飯を小さな器へ移した。
三郎が空の椀を運んで戻ると、その器には布が掛けてあった。
父の帰りが遅い晩も、母はそうしていた。父が戻ると布を取り、湯を用意した。
「母上。これは、どこへ?」
母は器を見た。
少しして、布の端を掛け直した。
「そこへ置いておいて。明日の朝にいただきましょう」
三郎は棚の端へ置いた。
母は膳を拭き終えると、布を畳んで脇へ置いた。
右の手が、左の薬指へ触れた。
三郎が空の椀を重ねると、母はそちらへ手を伸ばした。
「それも、洗ってしまいましょう」
「はい」
三郎は母へ椀を渡した。




