第8話 母上は、父上に先に声をかけた
承元二年(1208年)、鎌倉。
昼過ぎ、三郎は縁側で父の書付を広げていた。
使える紙を選り分けていると、細かい文字の並んだ一枚が出てきた。土地の名と人の名が書かれ、その脇に、さらに小さな文字が添えられている。
父の字だった。
「母上。これ、何と書いてあるのですか」
隣で衣を繕っていたちよが、手を止めた。
三郎の指したところへ顔を寄せ、少し目を細める。
「……これは、読めないわね」
「母上にも?」
「あの人は、急いで書くと字がつながるの」
「父上は、あとで読めたのでしょうか」
「読めないときは、私に聞いていたわ」
三郎は紙を見下ろした。
自分で書いた字を、人に尋ねる。
父らしいのか、父らしくないのか、少し迷った。
向かいで布をたたんでいたまつが笑う。
「母上が読めなかったら、どうするのですか」
「二人で考えたのよ」
「自分の字なのに?」
「ええ。ずいぶん難しい顔をしていたわ」
ちよも笑って、針を布へ通した。
三郎は、父が母の隣で紙をのぞき込んでいるところを思い浮かべた。低い声で何かを言い、母に違うと言われ、もう一度紙を見る。
覚えのある姿だった。
「母上は、父上の字を昔から読めたのですか」
「昔から、というほどではないけれど。会ったころから、あの人はよく紙を見ていたわね」
まつの手が止まった。
「初めて会ったときも?」
「そうね」
三郎は顔を上げた。
父と母が夫婦になる前のことは、あまり知らない。
兄たちの幼いころの話なら、母はよくする。宗直が転んだことも、光成が泥だらけで帰ってきたことも、何度も聞いた。
けれど、父と母の出会いは聞いた覚えがなかった。
「父上から、母上に声をかけたのですか」
三郎が尋ねると、ちよは針を止めた。
「先に声をかけたのは、私よ」
「母上から?」
まつが身を乗り出した。
ちよは、その膝の上を指した。
「今たたんだ布、落ちるわよ」
まつは慌てて布を押さえた。
その声を聞きつけたあやが、庭から上がってきた。
「何の話?」
「父上と母上が、初めて会ったときの話」
まつが答えると、あやは三郎の隣に座った。
「聞く」
「あなたは、どこへ行っていたの」
ちよが尋ねた。
「庭。何もしていない」
「足を見せて」
あやは足の裏を確かめ、それから縁側の端で払った。
ちよは三人の顔を見た。
針仕事も、布をたたむ手も、紙の整理も止まっている。
「少しだけよ」
まつがうなずく。
三郎も、父の紙を脇へ寄せた。
*
「家の用事で、文書を届けに行ったの」
ちよは、繕いかけの衣を膝に置いた。
「そこに、あの人がいた。初めて見る人だったわ。背が高くて、座っていても、すぐ分かった」
「父上は大きかったですからね」
三郎が言った。
家の鴨居に頭をぶつけ、黙って額を押さえていたことがある。
そのあと父は、鴨居の高さを測っていた。測っても高くなるわけではないと、母に言われていた。
「あの人は、二枚の紙を並べて見ていたの。私が文書を渡しても、すぐには片づけなかった」
「何を見ていたのですか」
「土地の名前。同じ土地の話らしいのに、紙によって呼び名が違っていたそうよ」
父が気にしそうなことだった。
三郎は、さっき読めなかった書付へ目をやった。
「それで、母上が聞いたのですか」
「ええ。どうして片づけないのかと思って」
「父上は、何と?」
「確かめてからにします、と」
ちよの口元が少し緩んだ。
「声が低くてね。もっと怖い話し方をする人かと思ったのに、とても丁寧だった」
「家でも、説明をするときは丁寧でした」
「長かったけれどね」
まつが言う。
ちよはうなずいた。
「そのころから長かったわ」
「初めて会った日も?」
「私が一つ聞くと、いくつも答えてくれるの」
あやが首をかしげた。
「一つでいいのに」
「そう思ったのよ、私も」
三郎は少しだけ父に同情した。
聞かれたことにきちんと答えようとすると、言うことが増える。途中を省けば、また別のことを聞かれる。
父も、そうだったのかもしれない。
「でも、母上は帰らなかったのですね」
三郎が言うと、ちよは三郎を見た。
「……そうね」
まつが母の顔をのぞいた。
「話が長いと思ったのに?」
「聞きたいことがあったから」
「紙のことですか」
「初めはね」
三郎が次の問いを考えている間に、あやが尋ねた。
「父上の顔も、好きだった?」
ちよの手から、糸が滑った。
まつが口元を押さえる。
三郎はあやを見た。そういうことは、もっと順番を考えて聞くものではないだろうか。
けれど、答えは気になった。
ちよは糸を拾い、針の先を確かめた。
「……顔のきれいな人だとは、思ったわ」
まつが小さく声を上げた。
「母上」
「何よ」
「もっと早く、その話をしてください」
「あなたたちが、今聞いたのでしょう」
ちよはそう言ったが、すぐには縫い始めなかった。
*
風が吹き、縁側に置いた紙の端が持ち上がった。
三郎は手を置いて押さえた。
「それからも、父上と話をしたのですか」
「ええ。顔を合わせればね。仕事のことも、家のことも」
「母上から話しかけたの?」
あやが聞く。
「私からのときも、あの人からのときもあったわ」
「父上は、何を聞くのですか」
「この前の話はどうなりましたか、とか。家の者は元気ですか、とか」
ちよは、指に糸を巻きつけた。
「前に話したことを、覚えていてくれたのよ」
まつは、膝の上の布へ目を落とした。
三郎も黙った。
父は、三郎の習字を見て、前に書けなかった字を指すことがあった。
書けるようになったね、と言われると、うれしかった。
母も、父に何かを覚えていてもらったのだろうか。
「母上の話も、長かったのですか」
三郎が尋ねると、まつが吹き出した。
ちよは三郎を見た。
「どういう意味かしら」
「父上の話が長かったので、母上も同じくらい話したのかと」
「話したいだけ話したわよ」
「父上は、困りませんでしたか」
「それは、本人に聞かないと分からないわね」
ちよはそう答えてから、少し笑った。
「でも、次に会うと、また聞いてくれたから」
あやが両手を膝についた。
「それで、一緒に暮らしたくなったの?」
「あなたは、急に先へ行くわね」
「三郎兄上が聞くと、日が暮れそうだから」
「そんなにかからない」
三郎が言い返すと、まつがうなずいた。
「そうね。夕飯くらいまでは続くわ」
「姉上まで」
ちよが声を立てて笑った。
その笑い方を見て、三郎は次の問いを忘れた。
近ごろ母は、父の話をしていても、ふと口を閉じることがある。
今は笑っていた。
父がここにいたころのように。
「何度も会っているうちに、もっと話したくなったのよ」
ちよは言った。
「用事が終わると帰るでしょう。そうすると、帰り道で思いつくの。あれも聞けばよかった、これも話せばよかった、って」
「次の日に言えばよいのでは?」
三郎が尋ねた。
「毎日会えるとは限らないもの」
「ああ」
それなら、少し分かる。
聞きたいことがあっても、相手が来なければ聞けない。
「それで母上から、また声をかけたのですね」
「ええ」
「何と言ったのですか」
ちよは針を布へ刺した。
今度は、すぐに答えなかった。
まつが母を見ている。あやも待っている。
「……その話は、また今度」
「そこからなのに」
まつが言った。
「今日は、出会ったところまで」
「母上、忘れたわけではないのですよね」
三郎が確かめると、ちよは少し目をそらした。
「覚えているわよ」
「では――」
「三郎。その紙、風で飛ぶわ」
慌てて振り向くと、脇へ寄せた紙が一枚、庭へ滑り落ちていた。
三郎は縁側から下りて拾った。
土を払い、戻ってくると、まつとあやが顔を寄せて何か話している。
「何ですか」
「何でもない」
二人の返事がそろった。
ますます気になったが、母はもう針を動かしていた。
三郎も座り直し、紙の整理を再開した。
しばらくして、あやが尋ねた。
「母上。父上は、母上に声をかけられて、うれしかったのかな」
ちよの手が止まった。
庭では、落ち葉が一枚、風に押されて動いている。
「……そのときは、分からなかったわ」
「あとでは?」
ちよは膝の上の衣を整えた。
それから、あやを見て、小さくうなずいた。
「ええ」
まつが笑い、あやも笑った。
母も笑ったが、膝の上の衣へ目を戻すと、しばらく針を動かさなかった。
「一緒に暮らせば、聞きそびれることもなくなると思ったのよ」
三郎は顔を上げた。
「そうではなかったのですか」
「毎日、次の話ができるもの。用事が重なれば、続きは明日にしましょうって」
母は糸を引いた。けれど、次の一針を通さなかった。
「明日も、顔を合わせると思っていたから」
まつが布を膝へ置いた。あやも、母の手元を見ていた。
「母上」
三郎が呼ぶと、母は顔を上げた。
「ごめんなさい。昔のことを思い出していたの」
母は三人の顔を見て、少し笑った。
「今日は、よくしゃべったわね」
三郎は、父の書付へ目を落とした。
読めなかった小さな文字は、やはり読めない。
けれど今日は、もう一度母に尋ねるのをやめた。




