第9話 大江広元は、父の悪口を言いに来た
承元二年(1208年)、鎌倉。
三郎は、父の残した紙をひもで束ね直していた。
紙の大きさがそろっていない。
端を合わせると、別の一枚がはみ出した。
「それ、また読んでいるの?」
姉のまつが、縁側からのぞき込んだ。
「順番を直しているのです」
「読む方が長くなっているでしょう」
三郎は返事をせず、ひもを取り直した。
そのとき、門の方から聞き慣れた声がした。
「ちよ殿。お邪魔してもよろしいですか」
まつが顔を上げた。
「広元様だわ」
三郎も立ち上がった。
大江広元は、父と長く働いてきた人だった。
家へ来るたびに父と紙を広げ、飯の支度ができても、なかなか話を終えなかった。
幼い三郎には、いつも難しい話をしている人に見えた。
それでも父は、広元が来ると嬉しそうだった。
母のちよが、奥から出てきた。
「広元様。どうぞ、お上がりください」
「お忙しいところを」
「ちょうど、子どもたちが直成殿の紙を片づけていたところです」
広元は三郎を見た。
「進んでいますか」
「まだ、途中です」
「そうでしょうな」
部屋へ上がり、広げられた紙を見渡す。
「直成殿は、一枚確かめると、もう一枚持ち出す方でしたから」
「片づけていても、同じです」
三郎が答えると、広元は少し笑った。
いつも父と向かい合っていた場所へ腰を下ろす。
三郎は、その向かいを見た。
今は、紙の束が置いてあった。
◇
母が白湯を運んできた。
広元は礼を言い、椀へ手を添えた。
すぐには飲まず、そばにある紙を一枚見ていた。
「その字は、直成殿ですな」
「はい」
三郎が紙を寄せると、広元は目を細めた。
「……あの方には、何度も困らされました」
まつが顔を上げた。
「今日は、父の悪口を言いにいらしたのですか」
「そう聞こえましたか」
「少し」
広元は、真面目な顔でうなずいた。
「では、そのつもりで聞いてください」
三郎は広元を見た。
父がいたころにも、こんな言い方をした。
すると父は、何のことでしょう、と本気で考え始めた。
母が笑いながら、二人の前へ膳を置いた。
今日は、父の返事がなかった。
広元は、紙の端を指で押さえた。
「急いでいるときに、直成殿へ文書を見せると、なかなか戻ってこないのです」
「読むのが遅かったのですか」
「いえ。読んだあとに、尋ねることが増える」
まつが、小さくうなずいた。
「土地の名が、別の文書と違う。境の川は、今も同じ場所を流れているのか。ここに書かれた者は、その話を承知しているのか」
広元は一つずつ挙げた。
「こちらは、今日中に進めたいのです。ところが直成殿は、今日中に決めてもよいのかとおっしゃる」
「父上らしいですね」
三郎が言うと、広元は顔を向けた。
「三郎殿も、そう思いますか」
「家でも、よく確かめていました」
「でしょうな」
広元は、ようやく白湯を飲んだ。
「困るのは、聞いてみると、確かめておいた方がよいことなのです」
まつが笑った。
「それでは、父が正しかったのではありませんか」
「そのときは、そうです」
「そのときは?」
「心配しすぎて、何も違わなかったこともありました」
母がうなずいた。
「直成殿は、そういうとき、安心した顔をしていましたね」
「ええ。おかげで、確かめに行った者も文句を言いにくい」
広元の口元が緩んだ。
三郎も、少し笑った。
何もなくてよかった。
父なら、そう言っただろう。
◇
「父上と、言い合いになることもあったのですか」
三郎が尋ねた。
「ありました」
広元は、すぐに答えた。
「何度もです」
「家では、あまり怒りませんでした」
「私も、怒ってばかりいたわけではありませんよ」
まつが三郎を見た。
「そういう聞き方では、広元様がいつも怒っていたみたいでしょう」
「そのつもりでは」
「直成殿も、よくそうおっしゃいました」
広元が言った。
三郎は口を閉じた。
母とまつが笑う。
広元も笑っていたが、やがて紙へ目を戻した。
「こちらが強く言っても、直成殿は最後まで聞いていました。それから、分かったことと、まだ尋ねたいことを話される」
「まだ、尋ねるのですね」
「ええ」
「もうよいでしょう、と私が言ったこともあります」
少し間を置いた。
「ですが、あとになって、あのとき聞いておけばよかったと思うこともありました」
三郎は、父の字を見た。
紙の端に、小さく書き足した文字がある。
父が文書を読みながら筆を取る姿を思い出した。
書いて、少し考えて、また人の顔を見る。
何をそんなに確かめるのだろうと、そばで待ちくたびれたこともあった。
広元は、その文字をしばらく見ていた。
◇
「今日は、お仕事のご用ですか」
母が尋ねた。
広元は顔を上げた。
「いえ」
椀を持ち直す。
「近くまで来たものですから」
「では、もう少し、ゆっくりしていってください」
母はそう言って、湯を足した。
広元は礼を言った。
そのあと、向かいへ目をやった。
そこには、やはり父はいなかった。
「直成殿なら、何とおっしゃるかと考えることがあります」
広元が言った。
「仕事をしていると、つい」
母は黙って聞いていた。
「尋ねられそうなことを、先に確かめているのです。直成殿へ見せる予定は、もうないのですが」
広元は、困ったように笑った。
「長く一緒に働きましたからな」
三郎は、何か言おうとした。
けれど、言葉が見つからなかった。
父の悪口を聞いているつもりだった。
いつの間にか、広元が父に会いたがっているのだと分かった。
母が静かに言った。
「直成殿も、家でよく広元様のお話をしていました」
「私の?」
「ええ。これは広元殿に聞かなければ、と」
広元の手が止まった。
「自分で考えてからお尋ねしようとして、夜更かしをすることもありました」
「それは……私も、もう少し早く相談するようにと申し上げていたのですが」
「私も、早く休んでくださいと言っておりました」
二人が顔を見合わせた。
母が少し笑い、広元もうなずいた。
三郎は、その間に広げられた紙を見た。
父には、まだ尋ねたいことがあったのだろう。
広元にも、まだ話したいことがある。
◇
風が入り、紙の一枚がめくれた。
三郎が手を伸ばすより先に、広元が押さえた。
「これは、まだ束ねていないのですね」
「順番が分からなくて」
「拝見しても?」
「はい」
広元は二枚を並べた。
日付を見て、裏を返し、端の文字を確かめる。
「こちらが先でしょう。その話を受けて、次の紙を書かれたのだと思います」
三郎は、並べられた紙を見た。
別々の話だと思っていたものが、つながった。
「そういうことだったのですか」
「ただ、間にもう一枚あるかもしれません。直成殿は、話を聞き直して書き加えることもありましたから」
三郎は、残りの束へ手を伸ばした。
隣から、まつが言った。
「今から全部お見せするつもり?」
手が止まる。
広元が笑った。
「また、長くなりそうですな」
「父上とも、いつも長くお話ししていました」
三郎が言うと、広元は向かいを見た。
「……そうでしたね」
その声を聞いて、三郎は紙の束を置いた。
広元は押さえていた紙を、ゆっくり離した。
◇
帰り際、広元は縁側で履物を整えた。
三郎とまつも、見送りに出た。
「また、父のお話を聞かせてください」
まつが言った。
「悪口でもよいのですか」
「少しなら」
「それは、難しい注文ですな」
三郎は、広元を見た。
「仕事のことも、聞かせていただきたいです」
広元はうなずいた。
「では、また伺いましょう」
母が門まで送った。
三郎は部屋へ戻り、広元に並べてもらった二枚を見た。
「父上は、お仕事を増やしていたのですね」
まつが隣へ座った。
「広元様も、増やしていたのでしょう」
「どうしてですか」
「父上が、いつも相談していたのだから」
三郎は考えた。
父が尋ねる。
広元が答える。
その答えを聞いて、父がまた考える。
家へ来るたび、話が長くなった理由が、少し分かった気がした。
母が戻ってきて、広元の使った椀を手に取った。
「よく、お話しになりましたね」
まつが言った。
母はうなずいた。
「直成殿と話しているときも、あのようなお顔をなさっていたわ」
母は椀の縁へ指を添えた。
「来てくださって、よかった」
「父上の悪口でも?」
まつが尋ねると、母はうなずいた。
「家では、私が知らない人のお話も多かったから。今日、広元様がお話しくださって、あの人がどんな顔で仕事をしていたのか、少し分かったわ」
母は二枚の紙へ目を向けた。
「まだ、聞けるお話があるのね」
三郎は、父の座っていた場所を見た。
紙の束を少し寄せる。
それから、広元に教えてもらった順に、二枚を重ね直した。
* * *
【今回登場した歴史人物】
大江広元(1148~1225年。生年には諸説あります)
もとは京で朝廷の文書実務に携わった官人です。元暦元年(1184年)ごろに鎌倉へ移り、幕府の公文所や政所で長官にあたる別当を務めました。頼朝の死後も幕府の政務に関わり、将軍や北条政子・義時らを支えました。
後世には、武勇ではなく文書行政や朝廷との交渉を通じて、鎌倉幕府の仕組みを整えた実務官僚として評価されています。




