第10話 北条政子は、父の言葉を確かめに来た
承元二年(1208年)、鎌倉。
広元が訪ねてきた翌朝、三郎は縁側を拭いていた。
昨日、広元が座っていたところだった。
板の継ぎ目に、布の端が引っかかる。
指で直して、もう一度拭いた。
「そこは、もうきれいよ」
姉のまつが言った。
「ここだけ、色が違います」
「古い板だからでしょう。拭いても同じよ」
三郎は手を止めた。
部屋には、昨日、広元に並べてもらった紙が置いてあった。
別々の話だと思っていた二枚が、今は続けて重ねてある。
その隣で、母のちよが布を畳んでいた。
門の方で声がした。
家人が応じ、ほどなく戻ってくる。
「政子様がお越しです」
母が顔を上げた。
まつも立ち上がる。
三郎は布を脇へ置いた。
◇
母が門へ出ると、黒い衣の政子が立っていた。
少し後ろに、供の女房が控えている。
「政子様。お越しくださるとは」
「急に来て、ごめんなさい。少し、お邪魔してもよいかしら」
「もちろんです。どうぞ」
三郎も、まつと並んで頭を下げた。
政子は二人を見た。
「まつ、三郎。今日は家にいたのね」
「はい。父上の紙を片づけていました」
三郎が答えると、政子は部屋へ目を向けた。
「直成の紙は、多いでしょう」
「広元様も、そうおっしゃっていました」
まつが言った。
政子の口元が緩んだ。
「昨日、来たそうね」
「はい」
「あの人は、何を話していったの?」
まつは少し考えた。
「父の悪口を、たくさん」
「まつ」
母が呼んだが、政子は笑った。
「そう。広元らしいわね」
政子は、源頼朝の妻だった人だ。
頼朝が亡くなったあとに出家し、今も鎌倉の政務に関わっている。
三郎には、父が仕えてきた人であり、母と昔から親しく話す人でもあった。
それでも、こうして家へ迎えると、少し背筋が伸びた。
◇
政子は縁側へ腰を下ろした。
母が白湯を置く。
「今日は、宗直と光成は?」
「それぞれの用を済ませに出ております。あやは、家の裏へ行っているようです」
「そう」
政子は椀へ手を添えた。
しばらく、庭を見ていた。
母も、先を急がせなかった。
「ちよ」
「はい」
「直成は、家で私の話をしていた?」
母は少し考えた。
「政子様にお目にかかったことは、伺っておりました」
「何を話したかは?」
「仕事に関わることなら、少し。けれど、それ以外は」
母は首を横に振った。
「こちらから聞いても、政子様のお話ですから、と」
政子はうなずいた。
「やっぱりね」
三郎は、部屋にある紙を見た。
「父上は、お聞きしたことを、書き残していたのではないのですか」
政子が三郎へ顔を向けた。
「何でも?」
「仕事のことは、よく書いていました」
「そうね。でも、私が困って話したことまで、皆に読ませるつもりはなかったでしょう」
三郎は紙から目を離した。
「父上に、ご相談を?」
「ええ。何度か」
政子は椀を持ち上げた。
「すぐに答えてくれる人ではなかったけれど」
母が、小さくうなずいた。
◇
「以前、息子のことで話したことがあるの」
政子が言った。
まつも三郎も、黙って聞いていた。
「心配だから、こうした方がよいと思う。けれど、鎌倉のことを考えれば、別の決め方をしなければならない。そういう話だったわ」
母として息子を案じることと、将軍の家を支える立場で決めること。
三郎には、その違いがまだよく分からなかった。
「直成は、最後まで聞いていた」
政子は続けた。
「それから、尋ねたの。『今は、どちらの話をしていますか』と」
「どちら?」
まつが聞き返した。
「息子が心配だという話なのか、鎌倉で決めなければならないことの話なのか」
政子は少し笑った。
「それが分からないから話しているのに、と思ったわ」
三郎は、父が紙を挟んで人と話す姿を思い出した。
相手が黙ると、父も待っていた。
返事が来るまで、別の話を始めなかった。
「父上は、そのあと何と?」
「私が答えるまで、待っていたのよ」
「ずっとですか」
「ええ」
政子は庭へ目を向けた。
「腹が立ったから、両方だと答えたわ」
まつの口元が、少し動いた。
「すると、直成はうなずいたの。では、一つずつ伺います、と」
母が笑った。
「直成殿らしいですね」
「本当に」
政子も笑った。
「おかげで、ずいぶん長い話になった」
◇
「それで、お決めになれたのですか」
三郎が尋ねた。
政子は、少し間を置いた。
「すぐにはね」
椀を膝の前へ置く。
「心配していることを話しても、それだけで用が済むわけではなかったから。けれど、何を心配しているのかは、前より分かった。まだ起きていないことまで、起きたように考えていたことにも気づいたわ」
三郎は、父の紙を見た。
書いてあれば、分かると思うことがある。
けれど、紙を並べただけでは、順番さえ分からなかった。
昨日は、広元に教えてもらった。
父は、政子の話を聞きながら、何を確かめていたのだろう。
「直成殿は、そのお話を家ではなさいませんでした」
母が言った。
政子は、母を見た。
「そう」
「政子様のお考えは、政子様に伺わなければ分からないと。そう申しておりました」
政子はしばらく黙っていた。
それから、小さく息をついた。
「あの人らしいわ」
◇
裏から、あやが戻ってきた。
政子の姿を見て足を止め、慌てて手を後ろへ回した。
母が、その手を見る。
「あや。まず、手を洗っていらっしゃい」
「はい」
妹は一度頭を下げて、また庭へ下りていった。
政子が見送った。
「大きくなったわね」
「ええ。本人は、もう何でもできるつもりでおります」
母が答える。
「よいことよ。何もしたくないと言われるより」
「したあとに、知らせてくれることも多いのですが」
政子が笑った。
三郎も、妹が何を持っていたのか気になった。
戻ってきたあやは、今度は両手を見せてから、母の隣へ座った。
「何のお話ですか」
「父上のお話よ」
母が言うと、あやは政子を見た。
「昨日も、広元様が話していました」
「聞いたわ」
「父上は、そんなに細かかったですか」
「細かかったわね」
政子は答えた。
あやは少し首をかしげた。
三郎には、妹の気持ちが分かった。
家にいた父と、客が話す父は、同じ人なのに少し違う。
家では子どもの話を聞いていた父が、政子や頼朝の前でも、同じように座っていたのだろうか。
◇
「頼朝様も、父上によくお尋ねになったのですか」
三郎は聞いた。
「ええ。広元と一緒に呼ぶこともあったわ」
政子の声が、少し柔らかくなった。
「二人が帰るときには、持ってきたときより仕事が増えているの」
母がうなずいた。
「帰ってきてから、よく申しておりました」
「困った顔をして?」
「はい。けれど、楽しそうでもありました」
「頼朝もそうだったわ」
政子は、庭を見ながら言った。
「直成が帰ったあと、今度はこんなことを考えてきた、と話すことがあったの」
三郎は、少し驚いた。
父が家で頼朝の話をしていたように、頼朝も父の話をしていた。
「頼朝様は、父上の意見を、いつもお聞きになったのですか」
「聞いてはいたわ。でも、そのとおりにするとは限らない」
政子は三郎へ顔を向けた。
「直成も、思いついたことが全部できるとは考えていなかったでしょう」
「……はい」
「広元に確かめ、頼朝に尋ねられて、考え直すこともあった。頼朝の方が考え直すこともね」
母が静かに言った。
「三人で話し始めると、長うございましたね」
「長かったわ」
政子はうなずいた。
「もう終わったかと思って人をやると、まだ同じ紙を広げているのよ」
まつが笑った。
「広元様がいらした昨日も、そうなりかけました」
「昨日は、三郎が紙を持ち出したのです」
母に言われ、三郎は顔を上げた。
「分からないものがあったので」
政子が笑った。
「そこも、父上に似たのかしら」
三郎は、何と答えればよいのか分からなかった。
◇
政子は、しばらく家にいた。
母が話し、まつが答える。
あやも、ときどき口を挟んだ。
父のことばかりではなかった。
宗直が仕事を抱えすぎていないか。
光成が、また田や川へ出かけているのか。
まつは、母を手伝っているか。
知っていることを尋ねられると、三郎も答えられた。
やがて政子が立ち上がった。
「長くなってしまったわね」
「また、おいでください」
母が言った。
政子はうなずき、そばにあった紙へ目を落とした。
「直成の紙は、ゆっくり片づけなさい」
三郎が顔を上げる。
「はい」
「今日、全部読まなくてもよいでしょう」
昨日の自分を見られていたような気がした。
政子は、三郎の顔を見て少し笑った。
「分からないものがあれば、広元に聞いて。あの人も、また来るつもりでしょうから」
「はい」
三郎は、今度ははっきり答えた。
◇
母と一緒に、政子を門まで送った。
帰り際、政子が母へ言った。
「直成は、家でも私の話をしなかったのね」
「ええ」
「それだけ、確かめておきたかったの」
母が、少し笑った。
「ご心配でしたか」
「いいえ」
政子は、すぐに答えた。
それから、言い添えた。
「そういう人だったと、もう一度聞きたかっただけよ」
母はうなずいた。
「はい」
政子は、すぐには歩き出さなかった。
「夜は、眠れている?」
母は少し迷ってから、答えた。
「家が静かになると、かえって目が覚めることがございます」
政子が、小さくうなずいた。
「話しかけてから、気づくのです。もう、お返事はないのだと」
「私もよ」
短い返事だった。
母は政子を見た。二人とも、その先は話さなかった。
三郎は、母の袖から出た指が、少し開くのを見た。
やがて母が息を吐くと、政子はうなずき、三郎たちへ目を向けた。
「ちよを頼みますよ」
まつが返事をした。
三郎もうなずいた。
あやは、母の隣へ少し近づいた。
◇
部屋へ戻ると、政子の座っていた場所が空いていた。
三郎は、その前の椀を持ち上げた。
中は空だった。
「今日は、父の悪口ではなかったわね」
まつが言った。
「少しは、あったでしょう」
三郎が答えると、母が笑った。
「直成殿が聞いたら、何のことでしょう、とお尋ねになるわね」
「それで、また長くなるのですね」
「ええ。きっと」
三郎は椀を母へ渡した。
紙の束の前へ座る。
広元と仕事をする父も、政子の話を聞く父も、三郎はよく知らなかった。
けれど、人の話が終わるまで待っている顔なら、覚えていた。
自分が話しているときも、父はそうしていた。
途中で言葉が出なくなっても、待ってくれた。
三郎は紙を一枚取り、父の字を見た。
今日は、急いで次の紙へ移らず、初めから読んでみようと思った。
* * *
【今回登場した歴史人物】
北条政子(1157~1225年)
北条時政の娘で、源頼朝の妻。頼家・実朝の母でもあります。頼朝の死後に出家しましたが、幕府の政治に関わり続けました。
後世には「尼将軍」と呼ばれ、承久三年(1221年)の承久の乱では御家人たちをまとめた人物として知られています。一方で、北条氏の幕府内での立場を強める政治にも深く関わりました。




