第11話 義時殿は、休みに来たのではない
承元二年(1208年)、鎌倉。
宗直が草鞋の緒を結んでいると、門の外から声がした。
「宗直殿はおられるか」
聞き慣れた声だった。
宗直は顔を上げ、そのまま立とうとして、片方の緒を踏んだ。
「あなた、足元」
妻のふみが言った。
「分かっている」
「今、踏んでいました」
宗直は緒を外し、今度こそ立ち上がった。
門のところに、北条義時がいた。供の者を外に待たせ、屋敷の中へ目を向けている。
「出かけるところだったか」
「はい。ですが、まだ間に合います。どうぞ」
「引き止めるつもりで来たのではない」
そう言いながら、義時は宗直の足元を見た。
「緒は、きちんと結んでから出よ」
後ろで、ふみが小さく笑った。
義時は、宗直が元服したときに烏帽子親を務めた人だった。成人の儀式で烏帽子を着け、新しく大人になる者を支える役目である。
父がいたころから、この家へ何度も来ている。
三郎にとっても、家の中で声を聞くことのある人だった。
ただし、宗直は義時の前へ出ると、いつもより少し背筋が伸びた。
◇
「おじさん」
あやが、まつの手元から抜け出そうとした。
「まだ。髪が途中でしょう」
「ご挨拶するだけ」
「動きながらしなくていいの」
義時が足を止めた。
「そのままでよい。まつに叱られるぞ」
「もう叱られています」
三郎が言うと、まつがこちらを見た。
「三郎も、書き物が途中でしょう」
三郎は紙へ目を戻した。
光成は、与一を抱いて庭から上がろうとしていた。
「足を拭いてから」
おりんに言われ、光成が止まる。
「今日は、それほど汚れていない」
「裾を見てください」
光成は自分の裾を見た。
「……少しだ」
与一が父の腕の中から、義時へ手を伸ばした。
義時が指を差し出すと、小さな手が握った。
「力が強くなったな」
「離さなくなりました」
光成が答えた。
「それは、お前が離さぬからではないか」
義時に言われ、光成は与一を見た。
与一も父を見ていた。
おりんが、梅を抱いたまま笑った。
母のちよが奥から出てきた。
「義時様。どうぞ、お上がりください」
「急にすまない」
「宗直にご用でしょうか」
「ああ。顔を見ておこうと思ってな」
宗直が姿勢を正した。
「何かございましたか」
「何かあれば、使いを出す」
義時はそう答え、座敷へ上がった。
いつも父が紙を広げていた辺りに腰を下ろす。
三郎は、義時の手元を見た。
今日は、文書を持っていなかった。
◇
ちよが白湯を出した。
義時は椀へ手を添えたが、すぐには飲まなかった。
「暮らしに、困ったことはないか」
宗直が口を開きかけた。
その前に、あやが言った。
「あるよ」
宗直が妹を見る。
「何だ」
「棚の上の籠が取れない」
光成が笑った。
「それは俺に言え」
「次郎兄は、頼むと忘れるでしょう」
「忘れぬ」
「昨日も頼んだよ」
光成が黙った。
義時の口元が緩んだ。
「ほかには」
「三郎兄が、紙を広げると場所を取る」
「それは今の仕事に必要なのです」
三郎は言った。
「仕事が終わっても広げているでしょう」
まつが付け加えた。
三郎は、少しだけ紙を寄せた。
義時は、その様子を見てから宗直へ顔を向けた。
「お前はどうだ」
「家のことも、仕事も、今のところは」
「全部、自分で引き受けておらぬか」
宗直の返事が遅くなった。
ふみは、何も言わずに夫を見ていた。
「……皆に助けてもらっています」
「ならばよい」
義時は白湯を飲んだ。
宗直の肩が少し下がった。
三郎は筆を置いた。
家の様子を尋ねるために、義時は来たらしい。
それなら、今の話を書いておく必要はあるだろうか。
考えていると、義時がこちらを見た。
「三郎。何を写している」
「兄上に頼まれたものです」
「進んでいるか」
「もう少しです」
まつが、三郎の紙を見た。
「さっきもそう言っていました」
「間違えないように確かめているのです」
「確かめる前に、お話を聞いていたでしょう」
義時が笑った。
「ここでは、隠し事も難しそうだな」
「隠していません」
「そうか」
義時は、それ以上尋ねなかった。
◇
外を、馬が通り過ぎた。
義時の目が門へ向いた。
供の者の足音が近づきかけ、また止まる。
ちよが椀へ湯を足した。
「少し、ゆっくりしていらしてください」
「いや。休みに来たわけではない」
「まだ、お仕事がおありですか」
「ある」
「では、なおさら。湯が冷めるまでくらいは」
義時は椀を見た。
足されたばかりの湯から、細い湯気が上がっていた。
「……今、熱くしたのではないか」
「冷たいものより、よろしいでしょう」
ちよは静かに答えた。
ふみが顔を伏せた。まつも笑っている。
義時は、もう一口飲もうとして、やめた。
少し熱かったらしい。
その間に、宗直がふみへ出かける時刻を伝え、光成は与一を下ろした。まつは、ようやくあやの髪を結び終えた。
あやが三郎の隣へ来る。
「まだ終わらないの?」
「もう少しです」
「それ、今日何回目?」
三郎は数えなかった。
筆を動かした。
義時は口を挟まず、しばらく家の中を眺めていた。
◇
帰り際、義時は宗直を門のところへ呼んだ。
「頼みがあれば、話しに来い」
「はい」
「引き受けられることばかりではないが、話は聞く」
宗直は、改めて頭を下げた。
「ありがとうございます」
義時はうなずき、供の者から文を受け取った。
文を開いたときには、もう先ほどの顔ではなかった。
宗直が戻ってきた。
三郎は兄の顔を見た。
「兄上も、義時殿に頼むことがあるのですか」
宗直は、すぐには答えなかった。
「あるだろうな」
「何を?」
「まだ、言葉にできていない」
兄は膝を折り、三郎の書きかけの紙へ目を落とした。
いつもなら、次にすることを告げてから座る。今日は、しばらく何も言わなかった。
「これが済んだら、続きを手伝ってくれるか」
「はい」
光成が棚の前に立っていた。
「これか」
「それ」
あやが指を差す。
光成は上の籠を下ろし、あやへ渡した。
「ほら。忘れていない」
「今、言ったからでしょう」
「下ろしたのだから、よいだろう」
あやは籠を抱えて戻ってきた。
中から布を取り出し、まつへ渡す。
「姉上、これ」
「ありがとう。これが欲しかったの」
宗直が二人を見た。
「昨日から、これを取ろうとしていたのか」
「だから、頼んだって言ったでしょう」
あやの返事に、ふみが笑った。
ちよは客の椀を片づけ、三郎は最後の一文字を書き終えた。
義時に話すほどではない困り事も、この家にはいくつもあった。
今日の一つは、ようやく片づいた。
* * *
〖今回登場した歴史人物〗
北条義時
源頼朝を支えた御家人で、北条政子の弟です。この話の時代には、幕府の政務を主導する立場にありました。本作では宗直の烏帽子親であり、直成の存命中から二階堂家と深く付き合ってきた人物として描いています。




