第6話 三郎は、父の書付に答えを探す
承元二年(1208年)、鎌倉。
「三郎、竹の籠を見なかった?」
母ちよに尋ねられたとき、三郎は父の書付を広げていた。
片方には、人の名前と渡した米の量。もう片方には、どこかの家へ届ける物が並んでいる。父の字は、急いで書いたところだけ妙に細くなっていて、何度見ても読めない文字があった。
「戸口の脇にはありませんか」
「そこにないから、聞いているのよ」
三郎は顔を上げた。
母は空の両手を見せた。
「畑から菜を運びたいの。昨日まで、ここにあったでしょう」
探しているのは、持ち手のついた竹籠だった。縁の一か所を紐で結び直してあるので、ほかの籠と見間違えることはない。
三郎も戸口を見た。
いつもの場所には、草履が二足あるだけだった。
「誰かが使ったのでしょうか」
「そうだと思うけれど」
三郎は、広げていた書付へ目を戻した。
父は、誰に何を渡したか、いつ受け取ったかを書いていた。口で聞いただけでは忘れてしまうことも、書いてあれば確かめられる。
籠も同じではないだろうか。
「母上。最後に使った人から、順に聞けば分かります」
「では、お願いしてもいい?」
「はい」
三郎は、父が使った紙の中から、裏の空いた小さな一枚を選んだ。
隣で書付をのぞいていたあやが、首を伸ばす。
「何を書くの?」
「誰が籠を使ったか」
「探すのは?」
「聞いてから探す」
「ふうん」
あやは納得したような、していないような顔をした。
三郎は筆を取り、母へ向き直った。
「昨日、籠を使いましたか」
「朝、ふみのところへ菜を届けたわ」
「そのあとは?」
「空の籠を持って帰って、戸口に置いたと思う」
三郎は紙に書きつけた。
母上。菜。戸口。
名前と用事が並ぶと、少し仕事らしく見えた。
父の書付も、初めはこんなふうに作られたのかもしれない。
「姉上にも聞いてきます」
*
まつは庭で、干した布を取り込んでいた。
「籠?」
三郎が尋ねると、姉は抱えた布の向こうから顔を出した。
「昨日なら見たわよ」
「どこでですか」
「戸口のところ。与一が中へ入ろうとしていたから、私が動かしたの」
光成とおりんの息子の与一は、まだ二歳ほどだった。しゃがめる隙間があると、とりあえず入ってみようとする。
「どこへ動かしましたか」
「薪のそばだったかしら」
「戸口ではなく?」
「戸口にあったら、また入るでしょう」
三郎は、母の話の下に書き足した。
姉上。与一。薪。
まつが紙をのぞいた。
「私が与一を薪にしたみたいね」
「自分で読めればいいのです」
「あとで読んでも分かるように書きなさいよ」
三郎は少し迷ってから、与一の名前の横に小さく書き加えた。
籠に入る。
「あれでは、入ったことになるでしょう。入る前に止めたの」
「姉上」
「何?」
「話が進みません」
まつは笑い、布を抱え直した。
「籠を見つけたいのは、あなたでしょう」
三郎は紙から顔を上げた。
確かにそうだった。
*
薪を積んだ場所にも、籠はなかった。
軒下をのぞき、薪の裏へ回っても見つからない。
あとをついてきたあやが言った。
「昨日、魚を入れたよ」
三郎は振り向いた。
「この籠に?」
「うん。市から帰ってきて、母上と魚を数えたあと」
「そのあと、どこへ置いた?」
「母上が魚を出して、外へ持っていった」
三郎は母を呼んだ。
ちよは戸口まで来ると、あやの話を聞いてうなずいた。
「ああ、そうだったわ。籠に魚のにおいがついたから、水で流したの」
「では、最後に使ったのは母上ですか」
「そうなるかしら」
「朝、戸口へ戻したとおっしゃいました」
「それは朝の話よ。魚は昼に買ってきたでしょう」
三郎は紙を見た。
母の名前が、いちばん上にある。
その下にまつ。さらにあや。
順に書いていけば、籠がどこへ行ったか分かるつもりだった。それなのに、また母へ戻ってしまった。
「洗ったあとは、どこへ置きましたか」
「水を切ろうと思って、外へ伏せたわ」
「外の、どこですか」
ちよは庭を見渡した。
「あちらの軒下だったと思うけれど」
三郎はそこを探していた。
「ありませんでした」
「光成が動かしたのかもしれないわね。昨日、軒下を片づけてくれたから」
また一人、増えた。
三郎は紙の残りを見た。
籠一つのことで、ずいぶん場所を使ってしまった。
*
光成は、ほどなく帰ってきた。
裾に泥がついている。庭へ入るなり、土間の水桶へ手を伸ばした。
「次郎兄上、昨日、籠を動かしましたか」
「動かしたぞ」
三郎は筆を持ち直した。
ようやく見つかりそうだった。
「どこへですか」
「裏へ。濡れていたから、日が当たるところへ置いた」
「裏の、どこですか」
「おりんに渡した」
三郎は筆を止めた。
光成は濡れた手を振り、三郎の紙に気づいた。
「何を書いている」
「籠がどこへ行ったか、調べています」
「おりんに聞けば分かるぞ」
「今から、そのつもりです」
「そうか」
兄はあっさり答えた。
三郎は、光成の名前の下におりんと書こうとした。
けれど、その前に筆を置いた。
墨が乾くまで紙を広げておくと、あやが横からのぞいた。
「まだ書くところ、ある?」
「ある」
「小さくなってきたね」
「籠を探しに行くぞ」
「うん」
*
おりんは、裏の日なたで梅をあやしていた。
その足元に、探していた籠があった。
縁には見覚えのある紐が結ばれている。中には、取り込んだ布が入っていた。
「あった」
三郎が言うと、おりんは顔を上げた。
「籠? お借りしているわ。布を運び終えたら、お返ししようと思って」
「母上が探していました」
「まあ。声をかけておけばよかったわね」
おりんは梅を抱き直した。
三郎は籠へ手を伸ばした。
「布は、どこへ運べばいいですか」
「あちらの板敷までお願いできる?」
三郎が籠を持ち上げると、あやも持ち手をつかんだ。
「二人で持とう」
「一人で持てる」
「私も探したもの」
二人で持つと、歩幅を合わせなければならなかった。
三郎が急ぐたび、あやに引っ張られる。
「ゆっくり」
「そちらが遅いんだ」
「布が落ちるでしょう」
結局、おりんの家の板敷まで、二人で少しずつ運んだ。
布を出すと、籠はずいぶん軽くなった。
*
「ありがとう。見つかったのね」
籠を受け取った母は、底を確かめた。
すっかり乾いていた。
「母上が洗って、次郎兄上が裏へ運んで、おりん義姉上が布を入れていました」
「それで、こちらへ戻ってこなかったのね」
ちよは籠を腕にかけた。
三郎は板敷へ戻り、書きかけの紙を見た。
母上。姉上。あや。
途中までしか書いていない名前が並んでいる。
そこへ光成がのぞき込んだ。
「俺の名前はないのか」
「書く前に、聞きに行きました」
「それで見つかったなら、よかったな」
兄はそう言い、庭へ出ていった。
三郎は紙の下へ、残りを書き足した。
光成兄上が裏へ運び、おりん義姉上が布を運ぶために使った。籠は母上へ返した。
今度は、あとで読んでも分かる。
けれど、初めに書いたところを見直すと、薪のそばへ置いたあと、昼に母が使ったことが抜けていた。
三郎は狭い隙間へ筆を入れた。
字が、また小さくなった。
「まだ書いているの?」
まつがそばへ座った。
「途中のままでは、あとで間違えます」
姉は紙をのぞき、うなずいた。
「では、そこも直した方がいいわ」
指された先には、与一の名前があった。
籠に入る。
三郎は、その後ろに書き加えた。
入ろうとしたので、姉上が止めた。
まつは満足したらしく、取り込んだ布を畳み始めた。
三郎も、ようやく筆を置いた。
父の書付へ目を戻す。
人の名前と、米の量。その間に、小さな文字で何かが書き添えられていた。
さっきまで読めなかった字を、紙を近づけて見直した。
『本人に聞くこと』
何を聞くつもりだったのかまでは、書いていない。
三郎は紙を裏返した。
裏にも、続きはなかった。
父なら、この名前の人はどこにいる、と尋ねれば教えてくれただろう。説明が長くなって、先に名前だけ聞けばよかったと思うこともあった。
三郎は、紙の端へ筆を近づけた。
誰に聞くのか。
そう書き添えようとして、止めた。
筆を硯へ戻す。
紙は元の束へ入れず、自分の脇へ置いた。もう少し読めば分かるかもしれなかった。
しばらくして、三郎はもう一度、裏を見た。
母がそばを通り、父の字へ目を留めた。
「それは、こちらへ置いておいてくれる?」
「まだ、お読みになるのですか」
母はうなずき、三郎の手から紙を受け取った。端を押さえ、少し顔を近づける。
「何が書いてあるか、分かりますか」
「すぐにはね」
それでも母は、紙を返さなかった。指が、書き足された小さな字の脇に止まっていた。
やがて、日の当たらないところへ置いた。
「ここなら、濡れないわね」
三郎は硯を少し遠ざけた。母はそれを見てうなずき、戸口へ向かった。
戸口では、母があやを呼んでいた。
「あや、畑まで来てくれる?」
「籠を持つの?」
「そう。帰りは重くなるから、二人でね」
あやはうなずき、それから三郎を振り返った。
「三郎兄上。籠、借りるね」
「母上と一緒なら、分かっている」
「書かなくていい?」
まつの肩が、小さく揺れた。
三郎は二人を見送ってから、筆を硯の横へ置いた。
「帰ったら、戸口へ戻しておいて」
「はあい」
庭を渡っていく籠が、あやの足に当たって揺れていた。
三郎はそれを、しばらく目で追った。




