第5話 あやは、父に話したい買い物をする
承元二年(1208年)、鎌倉。
昼前、あやは母の前で手を広げていた。
ちよが、その手のひらへ銭を三枚置く。
「まつと一緒に、干し魚を買ってきてくれる?」
「三枚、全部使っていいの?」
「ええ。でも、先に値段を聞いてね。今日は汁に入れる魚が欲しいの」
あやは銭を握った。
九歳になっても、家の用事は兄や姉に頼まれることが多い。自分へ直接頼まれると、それだけで大事な仕事を任された気がした。
「何人分?」
「今夜は四人分ね。宗直と光成のところは、それぞれ支度をしているから」
母と、まつと、三郎と、自分。
あやは指を四本立ててから、戸口を振り返った。
「姉上、行こう」
「あなたの支度を待っていたのよ」
まつは籠を持ち、すでに草履を履いていた。
*
物売りの集まる辺りまで来ると、あやの歩みは遅くなった。
籠に盛った菜、重ねられた木の椀、竿に掛けた布。
売り手の呼ぶ声に、買う人の声が重なる。荷を担いだ男が近づいてきたので、まつがあやの肩を引き寄せた。
「前も見なさい」
「見ているよ」
「菜の方をでしょう」
あやは姉の横へ戻った。
干し魚を並べた女の前で足を止める。敷物の上には、魚を縄でまとめた束が幾つもあった。
「汁に入れる魚をください」
女は顔を上げた。
「何人で食べるんだい」
「四人です」
「それなら、この辺りだね」
指された束には、小さな魚が十匹連なっていた。
「銭二枚だよ」
あやは隣の束も見た。
「こちらは?」
「三枚」
同じように干された魚なのに、こちらは五匹しかいない。
「少ない方が高いの?」
「一匹が大きいだろう」
女は二つの束を持ち上げ、並べて見せた。
確かに、五匹の方は身が厚かった。十匹の方は細く、尾も小さい。
あやは交互に見比べた。
「どちらがおいしい?」
「食べ方にもよるね。大きい方は、あぶって食べてもいい。汁にするなら、この小さい方でも十分だよ」
あやは握っていた銭を開いた。
三枚ある。
小さい方なら、一枚残る。
「こちらにします」
十匹の束を指すと、女は縄の結び目を確かめてから渡してくれた。
あやは銭を二枚差し出した。
まつの持つ籠へ魚を入れる。その横へ残った一枚を入れようとして、姉に止められた。
「魚と一緒にすると、どこへ入ったか分からなくなるわ」
あやは銭を取り戻した。
「では、私が持つ」
「落とさないでね」
「姉上は、心配が多いね」
「あなたが今、籠へ放り込もうとしたからよ」
*
帰り道、あやは握った銭をまつに見せた。
「一枚残った」
「そうね」
「全部使うと思ったでしょう」
「母上は、全部使ってきなさいとは言っていないわ」
あやは銭を裏返した。
魚を買う前と同じ銭なのに、今は少し違って見えた。自分で選んだので、これが残ったのだ。
「次も、安い方を買おうかな」
「次も同じ物があるとは限らないでしょう」
「今日の魚が、またあったら」
「まず、今日の汁を食べてからね」
まつは籠の中を見た。
あやもつられてのぞき込む。
小さい魚が、縄にまとめられて揺れていた。
「姉上なら、大きい方にした?」
「今日は、あなたと同じ方」
「どうして?」
「汁に入れる魚を頼まれたから。あの人も、小さい方で十分だと言っていたでしょう」
あやはもう一度、魚を見た。
自分は、残る銭を見ていた。
姉は、帰ってから作る汁を考えていた。
「でも、大きい魚も食べてみたいね」
「それなら、今度は母上に、あぶって食べたいと頼んでみたら?」
「姉上も食べたい?」
「ええ」
あやは少し笑った。
「では、二人で頼もう」
話しているうちに、道が二つに分かれるところへ来た。
あやは右へ曲がろうとした。
まつが左から袖をつかむ。
「家はこっち」
「知っているよ」
「足は知らなかったようね」
*
家へ戻ると、三郎が板敷で書付を広げていた。
「あや、買えた?」
「十匹」
「何が?」
「魚。銭二枚で十匹」
三郎は筆を置いた。
「母上は奥だよ」
あやはまつから籠を受け取り、母のところへ運んだ。
魚を渡し、残った銭も差し出す。
「大きい方は、三枚で五匹だった。でも、一枚残るから、小さい方にした」
ちよは魚を手に取った。
「汁に入れるには、ちょうどよさそうね」
「売っていた人も、そう言っていた。大きい方は、あぶってもいいって」
「そう。ちゃんと聞いてきたのね」
母は銭を受け取り、小さな袋へ戻した。
あやはその袋を見ていた。
「その一枚は、次に何を買うの?」
「まだ決めていないわ」
「使う物が決まっていなくても、取っておくの?」
「ええ。塩が足りなくなったり、糸が要ったりするでしょう。そのときに使えるから」
あやはうなずいた。
母が袋の口を結ぶ。
あやは、その手元を見届けてから魚へ目を戻した。
「私も手伝う」
「では、手を洗ってきて。戻ったら、この縄をほどいてくれる?」
あやは袖をまくった。
買って帰れば仕事は終わりだと思っていたが、魚はまだ汁になっていなかった。
縄をほどいていると、母が一本ずつ魚を確かめながら、少し笑った。
「お父上は、小さな骨を取るのが苦手だったわね」
「母上が取ってあげていたね」
「話しながら召し上がるから、手が止まるのよ」
母はそう言って、また笑った。
あやは最後の結び目をほどいた。母へ渡すと、その手が、隣の何もないところへ少し動いた。
それから、魚を鍋のそばへ戻した。
「今夜の汁のことも、話したかったわね」
あやはうなずき、ほどいた縄を籠へしまった。
*
夕餉の支度ができるころ、庭から光成の声がした。
「母上、桶はありますか」
三郎が戸口へ出ると、兄が与一の手を引いて立っていた。
幼い与一は、片方の足だけ泥だらけだった。
「次郎兄、今日は与一まで?」
「俺は、入るなと言った」
与一は父の手を握ったまま、汚れた足を持ち上げた。
あやが横からのぞく。
「次郎兄が先に入ったんでしょう」
光成は少し黙った。
「俺には用があった」
「与一にもあったんだね」
三郎が笑いながら桶を運んできた。
ちよは戸口へ出ると、与一の顔を見た。
「おりんは?」
「梅を寝かせています。こいつを連れて、少し外へ出ていました」
「そう。では、足を洗ったら帰ってあげて。夕餉の支度もあるでしょうから」
光成が与一を抱き上げ、桶の前へ座った。
あやは台所へ戻り、鍋を見た。
買ってきた魚と菜が入っている。
「母上。次郎兄のところへ、汁を少し持っていってもいい?」
ちよは鍋をのぞいた。
「ええ。おりんも、温めるだけで食べられるわね。小さな器を出してくれる?」
あやは棚へ手を伸ばした。
目当ての器には届かず、まつが横から取って渡す。
「運ぶのは次郎兄に頼みなさい。熱いから」
「分かっているよ」
「両手で持って」
「まだ何も入っていないでしょう」
まつは笑って、器をあやの両手に持たせた。
*
四人が膳についたとき、戸口の外は薄暗くなっていた。
あやは汁を一口飲んだ。
菜の味の奥に、魚の塩気がある。
箸で小さな魚を持ち上げると、身がほろりと崩れた。
「どう?」
まつに聞かれて、あやはもう一口飲んだ。
「おいしい」
「では、よかったわね」
あやは自分の椀を見てから、三郎の椀をのぞいた。
「三郎兄、魚は何匹?」
「数えていない」
「私は二匹」
三郎が箸で菜をよけた。
「私も二匹」
「母上と姉上も二匹?」
「ええ。二匹ずつにしたの」
ちよが答えた。
あやは四人の椀を順に見た。
二匹ずつで八匹。
「あと二匹は、次郎兄のところだ」
「よく覚えていたわね」
あやはうなずいて、汁を飲んだ。
銭二枚で買った魚を、四つの椀と、持ち帰る器に分けた。
買ったときには、魚が家でどう分かれるかまで考えていなかった。
「明日、おりんに聞いてくる」
「何を?」
三郎が顔を上げた。
「魚の汁、おいしかったか」
「次郎兄に聞けば?」
「あの兄上は、何でもうまいと言うでしょう」
まつが箸を止めた。
「それは、そうね」
ちよも笑った。
「おりんに聞いたら、私にも教えてね」
「うん」
あやは残った魚を食べた。
小さいので、すぐになくなった。
次は大きい魚も見てみたい。
けれど、今日の魚も、自分で選んでよかったと思った。
*
食べ終えると、あやは椀を母のところへ運んだ。
父の椀が、棚の手前にあった。
あやは自分の椀を置き、その前で足を止めた。
銭二枚で十匹買えた。
一枚、残して帰れた。
母には話した。姉も三郎も知っている。
父なら、銭が一枚残ったと話すだけでも、何を買ったのか聞いてくれた。
あやが指を折って数えている間も、先に答えを言わずにいた。数え終わると、十匹もあったの、と椀をのぞいた。
あやは棚へ伸ばした手を下ろした。
「母上。鍋も洗う?」
「お願いできる?」
「うん」
鍋をのぞくと、底に小さな魚の尾が残っていた。
あやはそれを指で取り、空いた椀へ移した。それから両手で鍋を持ち上げた。




