第4話 姉上は、今日も弟妹に口を出す
承元二年(1208年)、鎌倉。
父が京で亡くなったという知らせが届いてから、七日が過ぎていた。
朝、三郎は父の書付を束ねていた。
紙の大きさがまちまちなので、端をそろえるだけでも手間がかかる。大きな紙の間から、小さな紙が滑り落ちた。
拾って戻し、紐を掛ける。
引いたところで、ぷつりと切れた。
三郎は、両手に残った紐を見た。
「……またか」
「そんなに引っ張るからでしょう」
顔を上げると、姉のまつが立っていた。
十五歳の姉は、畳んだ着物を抱えていた。その上に、針仕事の道具を入れた小さな籠が載っている。
「古い紐だからだよ」
「古いと分かっているなら、加減すればいいのに」
まつは三郎の隣へ座った。
それから、紙に伸ばしかけた三郎の腕をつかんだ。
「こっちも破れている」
右の袖口に、細い裂け目があった。
三郎は手を引いた。
「あとで直す」
「昨日も、そう言った」
「昨日は忙しかったから」
「今日は?」
三郎は、目の前の紙を指した。
まつは紙を見てから、弟を見た。
「脱いで」
「今?」
「着たまま縫ったら、あなたが動くでしょう」
三郎は口を開きかけたが、まつが籠から針を出したので、黙って上着を脱いだ。
姉はそれを受け取り、膝へ広げた。
「どこで引っかけたの?」
「庭の杭」
「光成が打ったもの?」
「うん。紙を拾おうとして」
「紙は拾えた?」
「拾えた」
「それならよかった。次は袖も気にして」
叱られると思っていたので、三郎は少し拍子抜けした。
まつは裂け目の両側を合わせ、針を通した。
三郎が紙へ手を伸ばすと、すぐに声が飛んだ。
「先に、そこの籠を取って」
「姉上の方が近いよ」
「あなたの袖を縫っているの」
三郎は籠を持ち上げ、姉の手元へ置いた。
「もう少し右」
動かした。
「そこだと、糸が引っかかる」
また動かした。
まつは満足したらしく、針を進めた。
三郎は膝を抱えた。
姉は、座る場所まで細かい。
庭では、あやが光成の敷いた板の上を歩いていた。片手に小さな桶を持ち、もう片方の手を横へ伸ばしている。
「走らないでね」
まつが声をかけた。
「走ってないよ」
「桶を振らない」
「振ってない」
言ったそばから、水が少しこぼれた。
あやは足を止め、桶の中を覗いた。
まつが立ちかけたので、三郎は言った。
「私が行く」
庭へ下り、あやから桶を受け取った。
「どこまで?」
「母上のところ」
桶は、思ったより重かった。
あやは三郎の隣を歩きながら、家の方を振り向いた。
「姉上、縫い物は?」
「しているよ」
「こっちも見ているね」
「見ていなくても、声はする」
あやが笑った。
三郎が水を運び終えて戻ると、まつは上着を裏返していた。
「もういい?」
「まだ。ここも糸が抜けている」
「そこは破れていないでしょう」
「今なら、少し縫えば済むの」
三郎は座り直した。
今度こそ紙をそろえようとすると、まつが自分の膝の下から一枚抜き取った。
「これ、踏むところだった」
「父上の字がある」
「だから渡しているでしょう」
三郎は受け取った。
紙には、途中まで書いてやめたらしい文章があった。端の方には、小さく別の書き込みもある。
父は、空いているところなら、どこにでも書いた。
「これは、どっちだろう」
三郎は二つの紙の束を見比べた。
片方には人の名前や土地のことが書かれたものを、もう片方には家の買い物や覚え書きらしいものを集めていた。
まつが手を止めた。
「分からないものも、分けておけば?」
「束が増えるよ」
「あとで探すときには、楽でしょう」
三郎は三つ目の置き場所を作った。
まつは、その紙が針仕事の籠に触れないよう、籠を少し動かした。
「姉上」
「何?」
「さっき、そこがいいって言ったのに」
「今は、そこに紙があるから」
三郎が笑うと、まつも口元を緩めた。
「あなたたちが何を広げるかで、こっちも変わるのよ」
母のちよが、朝の食事を運んできた。
まつは針を止め、椀を受け取ろうとした。
「針をしまってから」
母に言われ、姉の手が引っ込んだ。
三郎は姉を見た。
まつは弟を見返した。
「何?」
「何も」
母は二人の前に椀を置いた。
「三郎、紙を少し寄せて」
「ここまで?」
「もう少し。まつも食べるから」
まつは、自分の前に置かれた椀を見た。
「私は、これを済ませてから」
三郎はすぐに言った。
「あとで、という人は、あとでも食べない」
姉が顔を上げた。
母が笑った。
「よく聞いていること」
まつは糸を始末し、針を籠へ戻した。
「もう終わりました」
「私も、そう言うつもりだった」
「あなたは紐が切れたところでしょう」
上着が戻ってきた。
袖を通すと、裂けていたところに細かな縫い目が並んでいた。腕を曲げても、引っかからなかった。
三郎がそこを指でなぞっていると、まつが言った。
「引っ張らない」
「確かめただけ」
「着られる?」
「うん」
三郎は椀を持った。
「ありがとう」
まつは自分の飯へ目を落とした。
「次は、破れる前に気づいて」
それは難しい、と言いかけて、三郎はやめた。
あやも戻ってきて、母の隣へ座った。
四人で食べ始めると、まつが母へ尋ねた。
「食べ終わったら、出かけてもいい?」
「どこへ?」
「ふみのところ。縫い方を教えてもらう約束をしているの」
姉は、籠の下に置いていた布を少し広げた。
縁に、細かな模様が縫ってある。途中から、糸が通っていない。
あやが身を乗り出した。
「花?」
「そう見える?」
「こっちは」
「こっちは?」
あやが黙った。
三郎も覗いた。
花の隣にあるものは、少し形が違った。
「葉っぱ?」
「両方、花よ」
三郎は椀へ顔を戻した。
まつが、その肩を軽く押した。
「笑うなら、見てから笑って」
「見たから」
「三郎」
母に呼ばれ、三郎は飯を飲み込んだ。
「姉上にも、分からない縫い方があるんだね」
「あるわよ」
まつは布を畳んだ。
「だから教わるの」
三郎は、針仕事の籠を見た。
姉は、朝から自分の縫い物をするつもりだったのだ。
その前に三郎の袖を見つけ、水を運ぶあやに声をかけ、父の紙を拾っていた。
「袖は、あとでもよかったのに」
まつは三郎の腕を見た。
「それを着て、また庭へ下りるでしょう」
三郎は返事に困った。
さっきも、そのつもりだった。
食事が済むと、まつは椀を重ねた。
三郎が手を出した。
「私が片づける」
「落とさないでね」
「姉上」
「何?」
「もう言っている」
まつは笑い、椀を渡した。
あやも自分の椀を差し出したので、三郎はそれも受け取った。
母のそばへ運んで戻ると、姉は籠を抱え、戸口で履物を履いていた。
三郎は足元の紙を拾い上げた。
「ふみのところから、太郎兄の用事まで引き受けてこないでね」
まつが振り返った。
「どうして?」
「姉上の花が、ずっとそのままになる」
まつは籠の中へ目を落とした。
それから、三郎を見た。
「今日は、自分の縫い物をしてくる」
「うん」
「あなたも、片づけたら少し休みなさい」
「分かった」
「紙は、窓のそばに置かないで。風が入るから」
「分かったよ」
まつは門へ向かった。
母が戸口から声をかけた。
「まつ。今日は、自分の縫い物をしておいで」
姉は振り返り、籠を少し持ち上げた。
「そのつもりよ」
母はうなずいた。門の向こうへ姉が消えても、しばらく戸口に立っていた。
「姉上は、母上みたいですね」
三郎が言うと、母は弟の袖を見た。姉が直したところだった。
「まだ、十五なのよ」
母は、姉の残していった布を畳んだ。
「お父上にも、そう言ってもらいたかったわね」
三郎は縫い目へ指を触れ、それから、紙を抱えて部屋の奥へ移った。
あやが隣へ座る。
「姉上、帰ってきたら見せてくれるかな」
「花?」
「うん」
三郎は紙の端をそろえた。
「今度は、両方分かるといいね」
あやが笑った。
三郎も笑い、破れていた方の袖で、口元を押さえた。
◇
夕方、まつが帰ってきた。
あやがすぐに籠をのぞいた。
「花、できた?」
「少しだけね」
姉が布を広げる。
朝には形の分からなかった花に、細い糸が足されていた。
「今度は分かる」
三郎が言うと、まつは弟を見た。
「朝のも、花だったのよ」
あやが笑った。
まつも笑い、布を持ち上げたまま奥へ目を向けた。
父が書付を読んでいた辺りだった。
以前、縫い終えた布を見せると、父は紙を裏返して場所を空けた。
布を広げ、まつがどこを縫ったのか聞いた。三郎にはどこが違うか分からなくても、父は姉が指を置くところを一つずつ見ていた。
姉はそのまま立っていたが、やがて腰を下ろし、布を膝へ広げた。
「あや。そちらの端を持って」
二人で布を畳む。
あやが手を離してから、まつは花のあるところを一度開いた。指先で糸をならし、もう一度、内側へ折った。
三郎は籠を姉のそばへ寄せた。
今度は、置く場所を直されなかった。




