第3話 次郎兄は、父に見せるはずだった溝を直す
承元二年(1208年)、鎌倉。
父の訃報が届いてから、五日が過ぎていた。
昼前、三郎は父の書付を並べていた。
途中まで読んだものと、まだ読んでいないもの。
分けておかないと、同じところを何度も読んでしまう。
庭から、足音が聞こえた。
ぺた、ぺた。
乾いた日なのに、妙に湿った音だった。
顔を上げると、光成が戸口に立っていた。
三郎が家で次郎兄と呼ぶ、二番目の兄である。
「次郎兄上、そこで止まってください」
光成が片足を上げた。
草鞋の裏から、泥が落ちた。
「まだ上がっていない」
「泥は上がりました」
二人で、板敷に落ちた黒い塊を見る。
奥から、ちよが顔を出した。
「光成。足を洗ってからにしなさい」
「上がりません。三郎を呼びに来ただけです」
「では、庭から呼べばよかったでしょう」
光成は少し考えた。
「そうですね」
三郎は書付を重ね、泥から遠いところへ置いた。
兄が自分の足元を見ているうちに、布で板敷を拭く。
「何の用ですか」
「板を運んでほしい」
「どこの板ですか」
「庭の端にある」
それだけ言うと、光成は庭へ戻った。
三郎は兄の背を見た。
用事を頼むときくらい、最後まで説明してほしい。
けれど、光成はもう溝の前にしゃがんでいた。
◇
戸口の前には、まだ泥が残っていた。
光成が直していた溝は、先日の雨で一部が崩れていた。流れ込んだ土が水をせき止め、庭の低いところに水たまりができている。
「また崩れたのですか」
「ああ。ここだけ土が軟らかい」
光成は短い鍬で泥をすくった。
三郎が横からのぞき込む。
「もっと深く掘ればいいのでは?」
「深くするだけでは、横からまた崩れる」
光成は、脇へ置いてあった板切れを溝の側面に当てた。
その外側へ短い杭を打ち、板が倒れないように押さえる。
「こうして、土が落ちるのを止める」
「水の中へ杭を打つのではないのですね」
「打ったら邪魔だろう」
「聞いただけです」
光成は木槌を置いた。
鍬で溝の底をさらうと、たまっていた水が少し動いた。
細い流れが、庭の端へ向かって伸びていく。
光成は顔を近づけ、その先を見ていた。
「……次郎兄上」
返事がない。
「板を運ぶのでは?」
「ああ」
兄は、ようやく顔を上げた。
「戸口の前に置く。母上が通るところだ」
「溝が直れば、乾くでしょう」
「乾くまで待たせるのか」
三郎は足元を見た。
水は流れ始めても、土はまだ軟らかい。踏むと、草鞋が沈んだ。
「雨が降れば、またぬかるむ。母上が足を取られると困る」
「まだ転んではいませんよ」
「転んでからでは遅い」
光成は立ち上がり、庭の端へ向かった。
三郎も、そのあとを追った。
◇
二人で板を運んでいると、あやが出てきた。
「何を作ってるの?」
「道だ」
光成が答えた。
あやは、兄たちが下ろした板を見た。
「ここを歩くの?」
「そうだ。泥を踏まずに済む」
「もう歩いていい?」
「まだだ」
あやが片足を上げたところで、光成が止めた。
「下を固めてから」
「いつできる?」
「少し待て」
三郎は板の端を持ったまま言った。
「次郎兄上の少しは、長いですよ」
「今日は短い」
光成は板の下へ小石を詰めた。
上から押さえ、端へ体重をかける。
板が傾いた。
「あ」
あやが言った。
光成は板を持ち上げた。
三郎も持ち直す。
「短いのでは?」
「今、直している」
兄の額に汗が浮いていた。
三郎も、少し暑くなっていた。
父の書付を読んでいたときには、朝からほとんど動いていなかったことに気づく。
二人でもう一度板を置いた。
今度は、光成が踏んでも大きく動かなかった。
「よし」
あやがすぐに乗った。
一歩進み、二歩目で振り向く。
「ここ、まだ揺れるよ」
光成はあやの足元を見た。
「どこだ」
「ここ」
あやが足を動かすと、板の端がわずかに浮いた。
光成はしゃがみ、もう一つ石を差し込んだ。
「もう一度」
あやが踏む。
今度は動かなかった。
「大丈夫」
「では、そこから戻ってこい」
「向こうまで行ってない」
「まだ先を作っていない」
あやは、板の終わりを見た。
その先には泥があった。
「早く作ってね」
「分かっている」
三郎が笑うと、光成がこちらを向いた。
「三郎。次の板」
「はい」
書付を並べるつもりだったのに、いつの間にか、すっかり手伝いになっていた。
◇
ちよが戸口へ来たころには、板の道が庭の固いところまでつながっていた。
「ずいぶんできましたね」
光成が立ち上がった。
「母上、歩いてみてください」
ちよは戸口から板へ足を下ろした。
兄がすぐ横へ寄る。
「ゆっくりで」
「いつもどおりに歩いていますよ」
一枚目から、二枚目へ。
あやが先へ回った。
「母上、ここは揺れないよ。私が確かめたから」
「それなら安心ですね」
ちよは最後まで歩き、振り向いた。
足元を見てから、光成へ笑いかける。
「泥が付きませんね。ありがとう」
光成は小さくうなずいた。
母は兄の袖へ手を伸ばし、ついた泥を払おうとしてやめた。まだ濡れていた。
「お父上も、袖を汚して帰ってきましたね」
「父上は、墨でしょう」
三郎が言うと、母はうなずいた。
「何か気になると、ご自分の袖は見えなくなるのね」
光成が袖へ目を落とした。
母は笑い、兄の肩に残っていた枯れ草を取った。
「次郎。先に洗っていらっしゃい」
兄が歩き出しても、母は指先の枯れ草をしばらく持っていた。
光成は、母の足元を最後まで見ていた。
ちよが戸口へ戻ってからも、庭に残った。
「次郎兄上。道具も片づけますか」
「ああ」
兄は木槌を拾い、板の端へ足を載せた。
一枚ずつ踏んで、庭の固いところまで進む。
その先で振り返った。
三郎は道具を抱えていた。兄と目が合うと、光成は足元へ視線を落とした。
「そこも、踏んでみてくれ」
三郎は言われた板へ乗った。
「揺れません」
「そうか」
兄はうなずいた。
三郎が下りると、光成はその板をもう一度踏んだ。それから、木槌をこちらへ渡した。
「次の雨でも、水がこちらへ来なければよいのですが」
「また見に来るの?」
「ああ。水を流してみたが、雨のときも確かめたい」
光成は溝へ目を向けた。
三郎も見た。
さっきまでたまっていた水が、細く流れ続けている。
父も、こうして兄の横にしゃがんでいたことがあった。
父は裾が土に触れても気にせず、兄の指す方を見ていた。
光成が話している間に立ち上がることはなかった。三郎が家から呼ぶと、二人とも同じように振り返った。
父の方が、少し遅かった。
何を話していたのか、そのときの三郎は知らない。
紙の上のことの方が、面白かった。
「三郎」
母に呼ばれ、顔を上げた。
「あなたも手が汚れていますよ」
見ると、指にも袖口にも泥が付いていた。
光成が笑った。
「お前も同じだな」
「兄上ほどではありません」
「まだな」
「もう終わりでしょう」
光成は、並べた板を振り返った。
三郎も振り返る。
兄が何か言い出す前に、庭の外から声がした。
「あなた」
◇
おりんが立っていた。
腕には幼い梅を抱き、そばには与一がいる。
与一は母の衣を握ったまま、光成を見つけて笑った。
「父上」
「ああ」
光成の顔が緩む。
おりんは夫の足を見た。
次に、手を見た。
「今日は、ここだったのね」
「溝が崩れていた」
「うん。直したのは分かった」
おりんは板の道へ目を移した。
「昼には戻ると言っていなかった?」
光成が空を見た。
三郎は、今見ても遅いと思った。
「もう、そんな時刻か」
「与一がおなかをすかせて、あなたを捜しに行くと言い出したの」
与一が光成へ手を伸ばした。
光成も手を出しかけたが、途中で自分の指を見た。
泥が付いている。
おりんが笑った。
「先に洗ってきて」
「ああ」
光成が桶のところへ行くと、与一もついていこうとした。
三郎が、その小さな手を取る。
「父上は、すぐ戻ってきますよ」
与一は三郎を見上げた。
それから、板を指さした。
「あるく」
「ゆっくりですよ」
三郎が手を引くと、与一は一歩ずつ板を踏んだ。
あやが横から教える。
「そこ、もう揺れないよ」
与一は足元を見て、また一歩進んだ。
おりんは二人を見届け、ちよへ頭を下げた。
「お昼前に、お邪魔してしまって」
「一緒に食べていきなさい。これから支度を整えるところです」
「でも」
「光成も手伝ってくれたのですから。おりんも座って」
腕の中で、梅が小さく声を上げた。
ちよがそちらを見る。
「梅も、そろそろ眠くなるころでしょう。奥を使ってください」
「ありがとうございます」
おりんは、ほっとした顔でうなずいた。
◇
光成が手足を洗い終えると、与一が待ちかねたように寄っていった。
今度は、そのまま抱き上げる。
与一は父の肩へ手を置いた。
「父上、どろ」
「もう洗った」
おりんが光成の袖を見た。
「そこは残ってるね」
「これは、あとで洗う」
「そうして」
光成は与一を抱いたまま、庭を見た。
おりんも同じ方を見る。
「まだ、何かあるの?」
「端をもう少し広くした方がよいかと思って」
「今?」
「板を一本足せば済む」
おりんは、しばらく夫を見た。
「その一本を取りに行って、ほかのところも気になるのでしょう」
光成が黙った。
三郎は、さっき光成が庭の奥まで見ていたことを思い出した。
「次郎兄上、あちらの溝も見ていましたね」
「水がどこへ出るか、確かめただけだ」
「それで、どこまで行くつもりだったの?」
おりんが尋ねた。
光成は与一を抱き直した。
「……飯のあとにする」
「まず食べようね」
おりんの声に、責める響きはなかった。
光成も、今度は庭へ戻らなかった。
◇
三郎は書付を片づけ、膳を運んだ。
おりんは梅を寝かせてから、与一の隣に座った。
あやが庭を指さす。
「おりん姉も、あとで歩いてみて。次郎兄が作ったの」
「入ってくるときに歩いたよ。助かった」
光成が顔を上げた。
「揺れなかったか」
「大丈夫。梅を抱いていても歩きやすかった」
光成はうなずき、ようやく椀を取った。
三郎も自分の膳の前に座る。
庭には、掘り返した土と、新しく運んだ板が見えた。
朝にはまだ、水がたまっていた場所だった。
「三郎」
光成が言った。
「はい」
「板、助かった」
短い言葉だった。
三郎は、泥の残った袖口を見た。
「次は、先に何をするのか教えてください」
「ああ」
「少しと言うなら、どのくらいかも」
おりんが笑った。
光成は少し困った顔で、飯を口へ運んだ。
その隣で、与一が父の椀をのぞき込む。
ちよが子どもの手元へ小さな椀を寄せた。
三郎は、戸口の向こうをもう一度見た。
細い溝を、水が庭の端へ流れていた。




