第2話 太郎兄は、父の用事まで引き受ける
承元二年(1208年)、鎌倉。
父が京で亡くなったという知らせが来てから、三日が過ぎていた。
朝、三郎は母ちよと暮らす家の板敷に座っていた。
向かいにいるのは、長兄の宗直だった。
妻のふみや子どもと近くの家に住んでいるが、このところ毎朝やって来て、父の残した紙を確かめている。
「太郎兄上。その書付は、いつお返しになるのですか」
三郎は、兄の脇にある包みを指した。
中には、父が人から借りていた書付が入っている。
「これを読んだら行く」
「先ほども、そうおっしゃいました」
「今度こそだ」
宗直は、手元の紙へ目を戻した。
返すための包みを開いては閉じ、別の紙を手に取る。
読んでおかなければならないものが、次々に見つかるらしかった。
三郎は筆を置いた。
兄の「今度こそ」は、今日だけで三度目だった。
宗直は二枚の紙を並べていた。
片方を読み、もう片方を見る。それから、父の小さな書き込みへ目を戻した。
「何か違うのですか」
三郎が尋ねると、兄は紙の端を指で押さえた。
「日が違う。書き直したのか、別の用なのか」
三郎ものぞいたが、分からなかった。
兄はしばらく二枚を見比べ、それぞれ別に畳んだ。
いつもなら、分からないものは父の前へ置いていた。父が帰るまで、そのままにしておけばよかった。
宗直は包みへ手を伸ばし、結びかけた紐をほどいた。
「もう一度、見ておく」
三郎は、出かけるのですか、と聞くのをやめた。
◇
戸口に、人の影が差した。
「まだ、こちらにいたのですね」
顔を上げると、ふみが立っていた。
畳んだ布を包んで抱えている。
「三郎、これを母上にお返ししておいてくれる?」
「はい」
母から借りていた布だという。
受け取ると、ふみは板敷へ上がり、宗直の隣へ座った。
「出かけるなら、帰りに竿を借りてきてほしいのですけれど」
「ああ」
宗直は紙を見ていた。
「洗った物を干すための、長い竿を一本」
「ああ」
「あなたの背丈の、二倍くらいあるものを」
「ああ」
ふみは、少し待った。
「返事だけは、早いですね」
宗直が顔を上げた。
ふみは笑っていた。
「何を頼んだか、聞いていました?」
「竿だろう」
「どのくらいの?」
兄は両手を広げた。
ふみが頼んだものより、ずっと短かった。
「それなら、もうあります」
三郎は笑いかけて、口を押さえた。
宗直がこちらを見たので、紙を指す。
「書いておきましょうか」
「覚えた」
ふみは兄の襟へ手を伸ばした。
片側が折れていたのを直し、そこについた糸くずを取る。
兄は、その間だけじっとしていた。
二人は、子どものころから知っている間柄だった。
ふみが宗直の着物を直す手にも、兄がそれを待つ様子にも、ためらいがなかった。
「昨日の洗い物も残っているのです。日が当たるうちに、済ませてしまいたくて」
「母上のところで干せば」
「子どもと濡れた物を、一度に運ぶのは大変でしょう」
ふみは、庭へ目を向けた。
「今日は、うちで済ませたいのです」
宗直はうなずいた。
「帰りに借りてくる」
「お願いします」
ふみは立ち、戸口で振り返った。
「昼までですよ」
「分かっている」
「ええ。念のため」
兄の返事を聞くと、ふみは家へ戻っていった。
◇
宗直が書付を包み直す横で、三郎は紙に一字書いた。
竿。
「覚えたと言っただろう」
「私が覚えておくためです」
「お前が借りるのか」
「兄上がお忘れになったら、お伝えします」
宗直は筆の跡を見た。
それから、包みを持って立ち上がった。
兄が出ていくと、板の前が空いた。
三郎は、残った紙をそろえた。
父の字のあるものと、ないものを分けようとして、二枚でやめた。
書かれていることより、その字を書いていた父の手を思い出してしまう。
父が紙を読んでいるとき、三郎はよく隣からのぞいた。
何が書いてあるのか尋ねると、説明してくれる日もあれば、今は待って、と言われる日もあった。
待っているうちに、父が別の紙を持ち出すこともあった。
三郎は、先ほどまで兄が座っていた場所を見た。
それから、竿と書いた紙を手前へ寄せた。
◇
日が高くなってから、宗直が戻った。
手には、出かけたときとは別の紙を持っていた。
「お返しできましたか」
「ああ」
「竿は?」
兄の足が止まった。
三郎は、手前の紙へ目を落とした。
「お忘れになったら、お伝えすると申し上げました」
「もう思い出した」
宗直は戸口で向きを変えた。
そこへ、ふみが来た。
兄とぶつかりかけて、半歩退く。
「お帰りなさい」
「ああ」
ふみは兄の両手を見た。
「竿を頼んだのに、紙を持って帰っていらしたのですね」
宗直が、持っていた紙を少し後ろへ回した。
三郎は、今度は笑いをこらえられなかった。
ふみも笑ったが、すぐに額の汗を拭いた。
「洗い終わりました。でも、干すところが足りなくて。お戻りになったかと思って、見に来たのです」
「今から行く」
「お願いします」
三郎は白湯を椀へ注いだ。
差し出すと、ふみは礼を言い、縁側へ腰を下ろした。
両手で椀を持つ。
宗直は一度外へ出かけ、戻ってきた。
手にしていた紙を、板の上へ置く。
ふみが、それを見た。
「また、頼まれたのですか」
「父上に相談するはずだったことを、聞いてほしいと」
「いつ、お話を聞くのですか」
「まだ決めていない。これから返事をしようと思っていた」
ふみは黙って湯を飲んだ。
宗直も黙った。
三郎は、兄が置いた紙の脇へ、竿と書いた紙を寄せた。
兄は二枚を見ていた。
◇
「あなたに頼めば、聞いてくれると思われたのでしょうね」
ふみが言った。
「父上に頼んでいたことだからな」
「でも、今日はあなたに頼んだのでしょう」
宗直は、すぐには答えなかった。
父の残した用事を、兄は一つずつ引き受けていた。
話を聞くだけで済むものもあれば、誰かに確かめなければならないものもある。
朝にはなかった紙が、夕方には増えていた。
ふみは、その紙へ目を落とした。
「頼まれたら、そのままにはしておけないのですよね」
三郎は、ここから小言が始まると思った。
まつなら、まず一度に引き受けすぎだと言う。
けれど、ふみは兄の袖についた埃を、指先で払った。
「そういうところ、好きですよ」
宗直が、三郎を見た。
三郎は慌てて紙へ目を落とした。
竿。
ほかには、何も書いていない。
それでも、しばらくその字を見ていた。
「でも、私も頼んでいますから」
ふみが続けた。
「ああ」
「家のことだから、あとでもよいと思われると、困る日もあります」
「……分かった」
今度は、宗直はふみの顔を見て答えた。
ふみはうなずき、椀を三郎へ返した。
「ありがとう。少し座れて、楽になりました」
立ち上がろうとすると、宗直が手を出した。
ふみはその手を借りた。
立ってからも、すぐには離さなかった。
「洗った物が重いのです。竿を渡したら、すぐ出かけてしまわないでくださいね」
「ああ」
ふみが兄を見た。
兄は言い直した。
「干すのも手伝う」
「助かります」
三郎は紙へ、干す、と書き足した。
ふみがのぞき込む。
「頼りになるわね、三郎」
宗直は、その紙を取り上げた。
「持っていく」
「それなら、忘れずに済みますね」
兄は三郎の頭を軽く押し、今度こそ出かけた。
ふみはその背中を見送ってから、自分の家へ戻っていった。
◇
三郎は、返された椀を洗った。
板の上には、兄が持ち帰った紙が残っている。
父の書付と重ねると、区別がつかなくなりそうだった。
三郎は別に置き、小さな石を載せた。
そのとき、門の外から宗直の声がした。
「三郎。少し手を貸してくれ」
庭へ下りて門を出ると、兄が長い竿を抱えていた。
片端が、地面に触れそうになっている。
「ふみのところまで運ぶ。そちらを持ってくれ」
三郎が片端を持ち上げると、兄も持ち直した。
二人で竿の前と後ろを持ち、道を曲がった。
「本当に、兄上の背丈の二倍ほどありますね」
「ふみも、そう言っていた」
「お聞きになっていたのですか」
「長さは覚えていた」
三郎は、竿を持ち直した。
兄は前を向いたままだった。
◇
宗直の家へ着くと、二人は庭へ回った。
洗った布が、籠に重ねてある。
ふみは眠っている子の様子を確かめてから、外へ出てきた。
「ありがとう。長いものがありましたね」
宗直が片端を下ろそうとする。
ふみが、庭の奥を指した。
「こちらへ。日が当たりますから」
兄弟で竿を運び、支えの横木へ載せた。
ふみが布を一枚広げる。
宗直は反対の端を持った。
二人が引いた拍子に、間にいた三郎の顔へ冷たい雫が飛んだ。
「三郎、ごめんなさい」
ふみが袖で拭こうとした。
「それも濡れている」
宗直が言った。
ふみは自分の袖を見た。
三郎も笑った。
兄が乾いた布を取りに入り、戻ってきて三郎へ渡した。
それから、洗い物の前へしゃがむ。
「こんなにあったのか」
ふみは次の一枚を、兄の膝へ置いた。
「これでも、何枚かは干したのです」
宗直は布を広げた。
三郎が端を渡すと、夫婦で竿へ掛ける。
兄は残りの布を見たが、外の用事を気にして立ち上がることはなかった。
ふみは兄の手が空くたび、次の布を渡した。
最後の一枚を掛けたとき、家の中から子どもの声がした。
ふみが振り向く。
宗直は手を拭き、先に立った。
「見てくる」
「袖が濡れていますよ」
兄は振り返り、袖をまくった。
◇
ふみが縁側へ腰を下ろした。
三郎も隣へ座り、干した物を眺めた。
竿には、まだ少し空いているところがあった。
「長いものを頼んでよかった」
ふみが言った。
三郎がうなずくと、家の中から兄の声がした。
「ふみ。着替えは、どこにある?」
ふみは立ち上がらずに答えた。
「枕元の籠です」
少し間が空いた。
「この籠か。私の着替えより多いな」
「すぐ、汚してしまいますから」
ふみはそう返し、庭へ顔を戻した。
風が吹いて、干した布が膨らんだ。
家の中から、子をあやす兄の声が聞こえる。
ふみはそれを聞きながら、膝の上で手を休めていた。
三郎も、もう少しここに座っていようと思った。
◇
家へ戻ると、母が兄の置いていった紙を見ていた。
「太郎は、まだ何か引き受けていた?」
「お父上に相談するはずだったことを、聞いてほしいそうです」
母は紙を重ねず、脇へ置いた。
「一度に、あの人の分までしなくてよいのに」
三郎は母の隣へ座った。
「父上なら、何とおっしゃるでしょう」
母は空いた手を膝へ戻した。
「私も、それを聞きたいのよ」
それから、兄の帰る道へ顔を向けた。




