第1話 京から、父の帰らない知らせが来る
父を訪ねる客が来る、七日前のことだった。
承元二年(1208年)、鎌倉の二階堂家。
朝、十二歳の三郎が食器の棚を片づけていると、末の妹あやが隣へ来た。
「それ、父上のだよ」
三郎は手を止めた。
父の椀は、縁が一か所欠けていた。
捨てようとすると、まだ使える、と父が言う。ほかの椀と重ねると収まりが悪いので、いつも一つだけ端に置いてあった。
「分かっている。奥へ寄せるだけだ」
「奥にしたら、帰ってきたとき取れないでしょう」
「父上なら届く」
あやは棚を見上げた。
届かないのは自分だった。
父の直成は、仕事で京へ出ていた。
三郎は父がいつ帰るのか、母のちよに何度も尋ねていた。
母はそのたびに、もう少し、と答えた。
その朝も、父の椀を手前へ戻したところで、門を叩く音がした。
「帰ってきた」
あやが駆け出した。
三郎も立った。
父なら、門を叩く前に声をかける。
そう気づいたときには、妹はもう庭へ下りていた。
◇
門前には、見知らぬ男が立っていた。
旅の埃で衣が白くなっている。
あやを見ると、男は一度口を開き、それから家の奥へ目を向けた。
「直成殿の、ご家族でしょうか」
「娘です。父上は?」
男は、すぐには答えなかった。
「太郎兄上を呼んでくる」
三郎は妹に言い、家へ戻った。
長兄の宗直は、奥の部屋で紙を広げていた。
妻子と暮らす近くの家から、朝早く来ていたのだ。
「兄上。京から、お使いの方が来ています」
宗直は筆を置いた。
「父上からか」
「まだ、聞いていません」
兄はすぐに立った。
三郎も後ろについていく。
男が懐から包みを出した。
「大江広元殿へも、お知らせを届けます。まず、ご家族へ」
父と長く働いてきた広元の名を聞き、宗直はうなずいた。
包みを受け取ろうと手を伸ばす。
「直成殿が、京で亡くなられました」
兄の指が止まった。
三郎は、門の向こうを見た。
道には、荷を背負った人が歩いていた。
遠くで犬が吠え、どこかの家から子を叱る声がした。
男が何か言い違えたのなら、今、直してくれるはずだった。
宗直が低い声で尋ねた。
「いつのことでしょう」
使者は日を告げた。
三郎にも聞こえた。
けれど、それが何日前なのか、うまく数えられなかった。
「急に具合が悪くなられたと聞いております。私は知らせを運ぶよう命じられた者で、お亡くなりになったとき、そばにはおりませんでした」
宗直はうなずいた。
「父のそばには、どなたがいらしたのでしょう」
「こちらの書付に、記されております」
兄は包みを受け取った。
あやが、その手を見ていた。
「太郎兄上」
宗直が妹へ顔を向けた。
「父上は、いつ帰るの?」
兄は何も言わなかった。
もう一度、使者を見た。
奥で布を畳んでいた母が、戸口へ来た。
門前の話が聞こえていたらしい。
「上がっていただきなさい」
いつもと同じ声だった。
◇
使者が足を洗えるように、三郎は桶を探した。
見つからない。
家の裏へ回ると、次兄の光成が、その桶で水を運んでいた。
「次郎兄上、桶を貸してください」
「使っている」
「京から、人が来たのです」
光成が顔を上げた。
「父上の使いか」
三郎は首を振ろうとして、止まった。
父が亡くなった。
その言葉を、もう一度口にしなければならない。
光成が三郎の顔を見た。
「……どうした」
「父上が、京で」
その先が続かなかった。
光成は桶を持ち直した。
「分かった。持っていく」
水を捨てずに歩き出した兄へ、三郎はついていった。
使者が足を洗う間に、姉のまつが敷物を出した。
母は湯を用意し、宗直は包みを開いた。
中には、父の死を知らせる書付が入っていた。
皆が、それぞれ何かしている。
三郎だけ、することがなかった。
「お前も座れ」
光成に言われて、ようやく膝を折った。
使者は白湯の椀を両手で持った。
宗直の問いに、知っていることを一つずつ答える。
知らないことには、その場にいなかったので、と頭を下げた。
父が病の間、どの家にいたのか。
誰が知らせを書いたのか。
京に残った荷は、どうなっているのか。
宗直は、一つずつ尋ねていた。
三郎は紙を取りに立ちかけた。
まつが袖を押さえる。
「今は、兄上が確かめているでしょう」
三郎は座り直した。
宗直の手にある書付には、父の名があった。
字を書いたのは、三郎の知らない人だった。
その人の字で、見慣れた父の名が記されていた。
母が書付を受け取った。
上から下まで読んで、膝へ置く。
「道中、ご苦労でした」
使者は深く頭を下げた。
あやが母の隣へ寄った。
「母上」
母は妹の手を取った。
「父上は、帰ってこられないのだそうよ」
あやは、しばらく母を見た。
それから、膝の上の紙を見た。
「どうして?」
母はすぐには答えなかった。
「私も、何があったのか、もっと聞きたい」
あやの指が、母の袖をつかんだ。
◇
使者を送り出したあとも、宗直は戸口に立っていた。
「広元殿のところへ行ってくる。京の荷のことも聞かなければ。それから、父上に頼み事をしていた方々へ――」
「兄上。先に飯だ」
光成が言った。
「そんな場合か」
「朝から食べていないでしょう」
「お前は食べただろう」
「兄上の話をしている」
宗直は弟を見た。
光成も兄を見ていた。
まつが、二人の間へ椀を置いた。
「行くなら支度をする。食べるなら座る。戸口で話していても、どちらも済まないでしょう」
宗直は椀を見た。
やがて腰を下ろした。
光成も隣へ座ろうとした。
「次郎兄上。裾が濡れています」
三郎が言うと、兄は自分の裾を見た。
桶を運んだとき、水が跳ねていた。
いつもなら、あやが笑う。
今日は、母の袖を離さなかった。
宗直は少しだけ食べ、出かけていった。
光成は門の外まで、兄を送りに出た。
◇
まつが片づける横で、三郎は紙に日を書いた。
次に、父の名を書いた。
その先が続かなかった。
亡くなった、と書けばよい。
それは分かる。
けれど、父の名のすぐ下へ、その言葉を置く気になれなかった。
筆を止めたまま、紙を見つめた。
「そのままだと、墨が乾くわよ」
まつに言われ、三郎は筆を置いた。
「あやは?」
「棚の前」
妹は、父の椀を抱えていた。
「洗うの?」
まつが尋ねると、あやは首を振った。
「使っていないもの」
「そうね。では、置いておきましょう」
「置いたら、誰かが使うでしょう」
「誰も使わないわ」
「三郎兄上が、朝、動かした」
まつが三郎を見た。
「奥へ寄せただけです」
言ってから、それは朝にも言ったと思った。
あやは椀を抱え直した。
まつは手を伸ばさず、妹の横へ座った。
「そこに座っていると、夕飯を作るのが見えるわね」
あやは姉を見た。
「手伝わなくていい?」
「今日は私がする。明日は、あやにも手伝ってほしいわ」
妹は小さくうなずいた。
◇
三郎は庭へ出た。
端には、雨水を流すための細い溝があった。
父が帰る日に備えて、光成が直しているところだった。
三郎には、十分に水が通っているように見える。
だが、兄は雨が降れば分かる、と言っていた。
父が帰ったら、見せるつもりだったのだろうか。
光成が門から戻ってきた。
「太郎兄上は、広元殿のところへ?」
「ああ。見送ってきた」
兄は溝の端へしゃがんだ。
三郎も隣へしゃがむ。
「これを、父上に見せるつもりだったのですか」
光成は土を一つつまみ、指で崩した。
「ここを踏むと、いつも履物が汚れるとおっしゃるから」
「もう、踏まれませんね」
兄の指が止まった。
三郎は、言わなければよかったと思った。
光成は土を落とした。
「母上は通る。お前も、あやも通る」
「……はい」
「だから、仕上げる」
兄は立って、道具を取りに行った。
三郎は、水の細い筋を見た。
流れているかどうか、じっと見ないと分からなかった。
◇
夕方、母が火のそばで椀を並べていた。
一つ取って、止まり、棚へ戻す。
三郎は母の横へ座った。
「母上は、分かっていたのですか」
「何を?」
「父上が、帰ってこないこと」
母は三郎を見た。
それから、棚へ目を向けた。
「帰ったら、言うことがあったのよ」
「何ですか」
「出かける前に頼んだ棚が、まだ直っていませんって」
三郎も棚を見た。
右の端が、少し下がっている。
「直すと、おっしゃっていたのですか」
「ええ。戻ったらすぐに、と」
母は棚から目を離さなかった。
三郎は、自分が何を尋ねたかったのか、分からなくなった。
母が膝の上で手を重ねる。
「帰ってきたら、してもらうことが、まだあったの」
三郎も、棚を見ていた。
◇
やがて宗直が戻った。
まつが火のそばから顔を上げ、光成が道具を置いた。
あやは父の椀を抱えたまま、母の隣へ座った。
「椀は、そこに置いておきましょうか」
母が言うと、あやは少し迷ってから、自分の膝の前へ置いた。
まつが妹の分をよそった。
宗直は広元のもとで聞いたことを話しかけ、途中で口を閉じた。
「あとにしましょう」
母が言った。
兄はうなずいた。
三郎は、自分の椀を両手で持った。
腹が空いている。
こんな日にも腹が空くことが、少し後ろめたかった。
一口食べると、向かいで光成も食べていた。
あやが父の椀をそっと棚へ戻した。
いちばん手前だった。
誰も、奥へ寄せなかった。
◇
夜、三郎は水を飲みに起きた。
母のいる方に、まだ明かりがあった。
ちよは膝に三郎の着物を広げ、取れかけた紐を縫いつけていた。
「母上。明日、自分でします」
「もう終わるわ」
三郎はそばへ座った。
針が布を通る。母が糸を引く。
父はよく、その手元を見ながら話をしていた。三郎が寝床へ入ってからも、二人の声が聞こえることがあった。
もう休みましょう、と言っていた母が、針をしまいながら続きを尋ねることもあった。
父が話し、母が笑う。三郎は、その声を聞きながら眠った。
母は縫い終えた紐を確かめ、着物を畳んだ。
それから、隣へ顔を向けた。
三郎も、そちらを見た。
母の唇が少し動き、閉じた。
「母上」
「……何?」
三郎は差し出された着物を受け取った。
「明日の朝、これを着ます」
「ええ。強く引かないでね」
母は針を籠へ戻した。
「父上のお話は、長かったですね」
母の手が、籠の縁で止まった。
「ええ」
少しして、口元が緩んだ。
「でも、聞くのは好きだったわ」
三郎は着物を抱え直した。母は籠へ布を掛け、その上に両手を置いた。
針仕事は、もう済んでいた。
三郎は、母が立つまで、そばに座っていた。




