序章 父がいないのに、客が来る
「直成殿は、おいでか」
門の外から声がしたとき、三郎は父の履物を持っていた。
承元二年(1208年)、鎌倉。
父の直成が京で亡くなったという知らせが、二階堂家へ届いてから七日が過ぎていた。
三郎は十二歳だった。
父の履物をどこへしまえばよいのか、まだ決められずにいる。
棚へ入れると、帰ってきた父が探しそうだった。戸口に置いておくと、誰かが帰るたび、そちらを見てしまう。
「三郎。どなたかいらしたのか」
長兄の宗直が、奥から顔を出した。
近くの家で妻子と暮らす兄は、このところ朝早くから母のもとへ来ていた。今日も書付を広げていたらしく、指に墨がついている。
「父上を訪ねてきた方です」
兄は一度、三郎の手を見た。
それから履物を受け取り、戸口の端へ寄せた。
「俺が出る」
襟を直し、門へ向かう。
三郎もあとを追った。
門前には、紙の包みを抱えた男が立っていた。髭に白いものが交じり、草鞋には湿った土がついている。
「直成殿が、そろそろ京から戻られると聞いたのだが」
宗直が足を止めた。
「父は、京で亡くなりました」
男の指が、包みの紐を握ったまま止まった。
「……亡くなられた?」
「はい。七日前に、こちらへ知らせが届きました」
男は宗直の顔を見て、それから家の奥へ目を向けた。
「私は、知らずに」
その先の言葉が続かなかった。
三郎は、男の草鞋を見ていた。
知らせを持ってきた使者も、こんなふうに泥をつけていた。
「書付をお持ちでしたら、私がお預かりします」
宗直が手を伸ばした。
「私でよければ、お話も――」
「兄上。先に足を洗っていただこう」
横から光成が桶を置いた。
次兄は、朝から裏の溝をさらっていた。その足にも泥がついている。
「お前も洗えよ」
「そのつもりで持ってきた」
光成が桶を寄せると、男はようやく自分の足元を見た。
「いや、今日はこれで」
「二人とも、少し退いて」
姉のまつが、拭くための布を持って出てきた。
「そこに立っていたら、お客さまが入れないでしょう」
兄たちが左右へ退いた。
まつは男に頭を下げた。
「どうぞ。母もおりますから」
男はしばらく迷ったあと、紙の包みを抱え直した。
「では、少しだけ」
草鞋をほどこうとする男のそばへ、光成がしゃがむ。
三郎も手伝おうとしたところで、袖を引かれた。
「夕飯も召し上がるの?」
末の妹、あやだった。
「まだ分からない」
「じゃあ、聞いておいて。米を足すなら、今のうちでしょう」
「お前が聞けばいい」
「お話が終わってから聞くの」
そのつもりなら、なぜ今、自分の袖を引くのか。
三郎が妹を見ると、あやはもう桶の方を見ていた。
「次郎兄上も、きれいに洗ってね」
「分かってる」
「昨日もそう言って、泥を落としていたでしょう」
光成は返事の代わりに、足へ水をかけた。
男の口元が少し動いた。
笑ったのかと思ったが、すぐに顔を伏せてしまった。
◇
「宗清と申します」
板敷へ上がった男は、両手を膝に置いた。
「政所で、書付を作る仕事をしております」
政所は、幕府の政務や銭、米などに関わる仕事を扱うところだった。
父も文書の仕事をしていた。そこで知り合った人なのだろう。
三郎は座る場所を空けるため、紙の束を端へ寄せた。
父は背が高く、この部屋へ入るときには少し頭を下げた。考え事をしながら入ってきて、戸口に頭をぶつけたこともある。
そのときは、ぶつけた本人より、そばにいた母の方が驚いていた。
「三郎。その紙も寄せてちょうだい」
母の声で、三郎は手元へ目を戻した。
ちよが、湯を入れた椀を運んできた。
「どうぞ。歩いていらして、お疲れでしょう」
「お構いなく」
宗清は礼を言い、椀を両手で包んだ。
三郎は小さな紙を膝へ置いた。
宗清、と名を書く。その下へ、父上への用、と続けようとした。
「三郎。お話を聞いてからでいいでしょう」
母に言われ、筆を止める。
隣から、あやが覗き込んだ。
「夕飯のことは?」
「あとだ」
まつが妹の肩を引き寄せた。
宗清は椀を置き、包みの紐をほどいた。
「直成殿に、これを見ていただこうと思いまして」
二枚の紙が出てきた。
宗直が身を乗り出す。
「急ぎでしたら、明日、私が――」
「太郎兄上」
まつが呼んだ。
「まず、お話を伺いましょう」
兄は伸ばしかけた手を膝へ戻した。
「……そうだな。失礼しました」
「いえ。急ぎというほどのことでもないのです」
宗清は紙の端を押さえた。
「大江広元殿へ出す書付に、田の名が間違って書かれておりまして」
広元は、幕府の政務を担う人物で、父と長く一緒に働いてきた人だった。
「元の記録を確かめれば直せます。ところが、誰が直すかで揉めてしまったのです」
「書いた人が直すのではないのですか」
三郎が尋ねると、宗清は頷いた。
「私も、そう申しました」
「では」
「書いた者は、確かめる役の者が見落としたのだから、そちらが直すべきだと」
三郎は筆を持ち直した。
「確かめる方は?」
「最初に書き間違えた者が直すべきだと」
筆が止まった。
宗清は二枚の紙を見下ろした。
「二人とも、私に言いに来るのです。片方の話を聞いていると、もう片方が来る。朝から、そればかりで」
光成が、膝の上で指についた泥をこすった。
宗直は紙を見つめている。
「直成殿なら、何とおっしゃったでしょうな」
宗清が母へ顔を向けた。
ちよは少し考えてから尋ねた。
「今日は、あの人に何をお話しになるつもりでしたか」
「この書付のことを」
「ええ」
母は続きを待った。
宗清は紙から手を離した。
「……二人の言い争いを、今日はもう聞きたくないと」
小さな声だった。
「これでは私の仕事が終わらんと、そう言いたかったのです」
宗直が顔を上げた。
「それは、お疲れでしょう」
宗清は、ようやく少し笑った。
「直成殿にも、よくこんな話をしておりました。仕事の相談で来たはずなのに、上役の言い方が気に入らんとか、家で息子が返事をせんとか」
「父上は、何と答えたのですか」
三郎が尋ねた。
「たいていは、黙って聞いておられました」
「それだけですか」
「私が話し終えると、少し待って、それから尋ねられるのです。まだ話したいことはありますか、と」
三郎は膝の紙を見た。
父のところへ客が来ると、話が長くなることが多かった。
用がなかなか済まないのだと思っていた。
「帰ってくると、しばらく黙っている日もありましたよ」
母が言った。
「私が話しかけても、返事が遅いので、聞いていますか、と尋ねたことがありました」
「それは……私が喋りすぎたのでしょうか」
「どうでしょう。家へ帰っても、この人数ですから」
母は子どもたちを見回した。
光成があやを見た。
あやは、すぐに兄を見返した。
「私だけじゃないでしょう」
「まだ何も言ってない」
「顔が言っていたもの」
宗清が笑った。
今度は、顔を伏せなかった。
「それで、直成殿は何と?」
「ちゃんと聞きたいから、少しだけ待ってほしい、と」
母は椀へ目を落とした。
「少し休んだら、聞いてくれました。私も、話し始めるのを待てばよかったのですけれど」
「母上は、何のお話を?」
三郎が聞くと、母は顔を上げた。
「お前たちのことよ。誰が何をしたとか、何を忘れたとか」
光成が、こすっていた指を止めた。
まつはそれを見て、少し笑った。
◇
帰り際、宗清は書付を包み直した。
「これは、明日、二人を一緒に呼んで話します」
宗直が、その手元を見る。
「お預かりしなくても、よろしいのですか」
「ええ。田の名は分かっているのですから。あとは、私が二人に話せばよいことでした」
宗清は包みを懐へ入れた。
「長居をいたしました」
「もうお帰りになるの?」
あやが尋ねた。
「夕飯も召し上がるかと思って」
「ありがとう。家で待っている者がおりますので」
宗清が答えると、あやは頷いた。
「では、お気をつけて」
宗直が門まで送っていった。
光成は庭の土を片づけに戻り、まつは椀を重ねた。あやもそのあとを追う。
三郎の紙には、宗清の名だけが残っていた。
「母上」
「何?」
「お客さまの用は、済んだのでしょうか」
書付は直していない。
父の代わりに誰かが仕事を引き受けたわけでもなかった。
母は戸口へ行き、端に置かれた履物を取り上げた。
「明日どうするかは、決まったようね」
三郎は紙へ目を落とした。
明日、二人を一緒に呼ぶ。
それを書こうか迷っていると、母が棚の前で立ち止まった。
そこには、父の紙が積んであった。
三郎は立ち上がり、紙の束を両手で持ち上げた。
母は空いた場所へ履物を置いた。
片方が少し曲がったので、指でそろえる。
三郎は、その手が離れるのを待ってから、紙を隣へ戻した。
「三郎、飯にしよう」
庭から光成が声をかけた。
「次郎兄上。足を洗ってからよ」
まつに言われ、兄が戸口で止まる。
「さっき洗ったぞ」
「そのあと、また庭へ下りたでしょう」
桶の水が鳴った。
門から宗直が戻ってくる。
「何か運ぶものはあるか」
「では、そちらの膳をお願いします」
母が言うと、兄は袖をまくった。
あやが鍋のそばから三郎を呼んだ。
「三郎兄上も、椀を持って」
「今、行く」
三郎は筆を置いた。
母が飯をよそい、まつが椀を配る。宗直の運ぶ膳へ、あやが箸を並べていく。
父のいない家にも、夕飯の支度をする音がした。




