第59話 小太郎は、元服してもあやの前では小太郎である
建保六年(1218年)、鎌倉。
北条小太郎が元服することになった。
元服とは、少年が大人の仲間入りをする儀式である。
髪を大人の形に整え、烏帽子という帽子をかぶり、幼いころの名に代わって新しい名を名乗る。
武家の男子にとっては、大切な節目だった。
そして二階堂家では、その知らせを聞いた末娘が、朝から妙なことを考えていた。
「母上」
「何?」
「明日から、小太郎様のことは時景様とお呼びするのですよね」
ちよは、手元の布を畳みながら答えた。
「儀式のあとは、そうなるわね」
「家の中でも、ですか」
「それは、お家によるでしょうね」
「では、うっかり小太郎様とお呼びしてしまったら、失礼になりますか」
ちよの手が止まった。
「それは、ご本人に聞いてみたら?」
「そうする」
あやは、すぐに立ち上がった。
「どこへ行くの?」
「聞きに」
「まだ元服の儀式は終わっていないわよ」
あやは座り直した。
「では、終わるまで待ちます」
ちよは、畳みかけていた布をもう一度広げた。
どうやら今日は、長い一日になりそうだった。
*
小太郎の元服は、北条一門の者たちが見守るなかで行われた。
小太郎は、義時とつながりの深い北条一門の家に生まれた若者である。
幼いころから家の仕事を手伝い、港から届く荷や、商人とのやり取りにも慣れていた。
数を確かめるのが早い。
相手の話を聞くのも上手い。
何か問題が起きても、まず何を確かめればよいか考える。
そのため、大人たちからも頼りにされていた。
ただし、二階堂家のあやだけは、少し違う見方をしていた。
「小太郎様は、分かっていることが多すぎるの」
以前、あやはそう言ったことがある。
「よいことではないの?」
ちよが尋ねると、あやは首をかしげた。
「でも、私が何か聞くと、すぐ答えが返ってくるでしょう」
「困るの?」
「困らない。でも、たまには小太郎様が何を知らないのか、知りたい」
その話を聞いた小太郎は、珍しく笑っていた。
そして今、その小太郎が大人の名を授かろうとしている。
新しい名は、時景。
北条時景である。
儀式を終えた時景は、居並ぶ大人たちに丁寧に頭を下げた。
姿勢も、挨拶も、落ち着いている。
その様子を見て、宗直が感心した。
「立派なものだな」
隣にいた光成もうなずいた。
「三郎の元服のときとは、ずいぶん違う」
「どういう意味ですか、次兄上」
三郎が振り向いた。
「お前は烏帽子をかぶる前から、手順を三度も確かめていただろう」
「大切な儀式なのですから、当然です」
「最後には、確かめる順番を間違えていた」
「それは、兄上が途中で話しかけるからです」
宗直が二人を見た。
「ここで始めるな」
「太郎兄上が一番緊張していたと、母上から聞いていますが」
三郎が言った。
宗直は黙った。
光成が笑いをこらえる。
「それは、また別の話だ」
「同じ元服の話でしょう」
「三郎」
「はい」
「今日は時景殿の日だ」
三郎は口を閉じた。
その少し離れたところで、ふみがおりんに小声で言った。
「三人とも、あまり変わりませんね」
「元服を何度しても、変わらないところは変わりません」
しづが静かに付け加えた。
ちよは、三人の嫁を見て微笑んだ。
息子たちの扱い方は、もう母親より妻たちの方が上手かもしれない。
*
儀式の後、時景は二階堂家を訪れた。
正式な挨拶を済ませるためだった。
ちよは客を迎える支度を整え、あやにも声をかけた。
ところが、あやはいつもより静かだった。
「どうしたの?」
「考えてる」
「何を?」
「いつ聞こうかと思って」
「何を聞くの?」
「名前のこと」
ちよは、娘の顔を見た。
「そんなに気になるのね」
「だって、今日から時景様なんでしょう」
「そうね」
「小太郎様じゃなくなったんでしょう」
ちよは少し考えた。
「名前が変わっても、これまで一緒に話してきたことまで変わるわけではないでしょう」
あやは黙った。
それから、少しだけ安心したようにうなずいた。
「そうですね」
そのとき、家人が時景の到着を告げた。
あやは立ち上がった。
ちよが呼び止める。
「あや」
「何?」
「まずは、お祝いを申し上げるのよ」
「分かっています」
「名前のことは、そのあと」
「……分かっています」
ちよは、少し心配になった。
*
時景は、いつものように落ち着いていた。
ちよに挨拶し、宗直たちにも礼を述べる。
その言葉遣いは丁寧で、立ち居振る舞いにも無駄がない。
光成が感心して言った。
「本当に立派になられた」
「ありがとうございます」
「三郎にも見習わせたい」
「次兄上」
三郎が抗議した。
時景は、わずかに口元を緩めた。
そこへ、あやが進み出た。
「元服、おめでとうございます」
時景は、あやを見た。
「ありがとう」
あやは、少し迷った。
それから尋ねた。
「時景様」
「うん」
「家の中では、これまでどおり、小太郎様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
時景は、返事をしなかった。
宗直が顔を上げた。
光成は、何かを察して口元を押さえた。
三郎が口を挟む。
「あや、元服したからには、これからは——」
「三郎兄上、人前では時景様とお呼びします。家の中の話をしているの」
「ならば、なぜわざわざ聞く」
「ご本人に確かめるのが、一番確かだから」
言い返せない三郎を見て、光成が小さく吹き出した。
時景は、あやの顔を見た。
「いいよ」
「本当に?」
「長いこと、その名前で呼ばれてきたからね。急に呼び方を変えられたら、かえって振り向きそびれそうだ」
「では、家の中では小太郎様」
「うん」
「人前では時景様」
「そう。覚えられる?」
「覚えられます」
「じゃあ、試しに」
「小太郎様」
「何?」
返事は、すぐに返ってきた。
あやは嬉しそうに笑った。
「よかった」
時景は、その顔を見ていた。
宗直が咳払いをした。
「……あや」
「何、太郎兄上」
「場をわきまえて——」
「兄上」
光成が止めた。
「今は家の中だ。時景殿も困っていない」
二人が時景を見る。
時景は、落ち着いた顔で答えた。
「構いません」
ちよは、二人のやり取りを見守っていた。
幼いころから顔を合わせてきた二人である。
あやは、いつも品物や荷のことを尋ねていた。
小太郎は、それに答えたり、一緒に確かめたりしていた。
けれど最近は、少し違う。
あやは、時景が何を考えているのかを知りたがるようになった。
時景の方も、用事が終わってから帰るまでの時間が、以前より長くなっていた。
ちよには、それが何を意味するのか、何となく分かっていた。
*
挨拶が済んでも、時景はすぐには帰らなかった。
あやが、先日届いた荷の話を始めたからである。
「この前の船の荷は、全部届きましたか」
「全部ではないよ」
「残りは、別の船ですか。それとも途中で下ろしたのですか」
「船ごとに運ぶものが違うし、途中で別の場所へ下ろす荷もあるから」
「では、鎌倉で待っていた人は困りませんか」
「困ることもある。だから、どこで受け取るかを確かめる」
「受け取る場所を間違えたら、どうなりますか」
「探すことになるね」
「誰が探すのですか」
「荷を預かった人と、受け取るはずだった人かな」
あやは考え込んだ。
「荷物は自分で歩かないのに、人がずいぶん歩くのですね」
時景は、思わず笑った。
「そういう言い方をする人は、あまりいない」
「おかしい?」
「いや。確かにそうだと思った」
あやは、時景の顔を見た。
「小太郎様」
「何?」
「今日は、よく笑いますね」
時景の笑みが止まった。
「そうかな」
「うん」
「元服したからじゃない?」
「元服すると、笑うことが増えるの?」
「さあ。どうだろう」
「小太郎様でも分からないことがあるんだ」
時景は、少し困った顔をした。
「あるよ。それくらい」
あやは嬉しそうだった。
「では、また伺いますね」
「何を?」
「小太郎様が分からないこと」
「それは、なかなか難しい質問だね」
「考えておいて」
時景は、あやを見た。
そして、少し間を置いて言った。
「次に来るまでに?」
「うん」
「分かった」
ちよは、その会話を聞いていた。
時景は、次に来る日をまだ決めていなかったはずである。
けれど、どうやら来るつもりになったらしい。
*
夕方、時景が帰る支度を始めると、あやは門まで見送りに出た。
ちよも少し離れて立っていた。
「今日は、ありがとう」
あやが言った。
「こちらこそ」
「元服って、もっと違うものだと思ってた」
「どう違うの?」
「急に大人になって、前みたいに話せなくなるのかと思った」
時景は、あやを見た。
「話せなくなった方がよかった?」
「そんなわけないでしょう」
返事は早かった。
時景は、笑いをこらえた。
「なら、今までどおりでいいんじゃない?」
「うん」
それから、少し考えて尋ねた。
「でも、これからは家のお仕事が増えるんでしょう」
「増えると思う」
「忙しくなる?」
「今までよりは」
「じゃあ、あまり来られなくなるね」
時景は、あやの顔を見た。
いつもなら、仕事の予定を確かめてから答えるところだった。
けれど、今日は少し違った。
「来るよ」
「忙しいのに?」
「忙しくても、来る日は作れる」
「どうして?」
時景は答えかけて、口を閉じた。
あやが首をかしげる。
「小太郎様?」
「……次に来たとき、話すよ」
「何を?」
「今の質問の答え」
「忘れない?」
「忘れない」
あやは、満足そうにうなずいた。
「じゃあ、待ってる」
時景は、もう一度あやを見た。
「うん」
それから、ちよに丁寧に挨拶して帰っていった。
*
夕餉の席で、光成が言った。
「時景殿は、ずいぶん長くいらしたな」
宗直もうなずいた。
「元服の挨拶だけなら、あそこまで長くはかからない」
三郎が箸を置いた。
「荷の話をしていたのでしょう」
「それは分かっている」
宗直が答えた。
「だが、あやの話はいつも長い」
「あやだけではありません」
ふみが言った。
「時景殿も、楽しそうでしたよ」
おりんもうなずいた。
「何度も笑っていらっしゃいました」
しづが、あやを見た。
「次にお越しになるお約束も、なさったのですね」
あやは顔を上げた。
「うん。まだ答えてもらってないことがあるから」
光成が尋ねた。
「何を?」
「どうして忙しくても来てくれるのか」
宗直の箸が止まった。
光成も、三郎も、あやを見た。
あやは不思議そうに兄たちを見返した。
「何?」
「いや……」
宗直が言葉を探す。
光成が口を開いた。
「それは、時景殿に聞いたのか」
「聞いたよ」
「何と答えた?」
「次に来たとき話すって」
三郎が何か言おうとした。
その前に、しづが夫の袖を軽く引いた。
「三郎様」
「何だ」
「今は、お食事を」
三郎は口を閉じた。
おりんが光成を見た。
「あなたも」
「まだ何も言っていない」
「言いそうでした」
ふみは、宗直の椀に汁を足した。
「あなたも、冷めますよ」
宗直は、自分の椀を見た。
「……そうだな」
ちよは、黙って食事を続けていた。
あやが母を見た。
「母上」
「何?」
「兄上たち、どうしたの?」
「さあ。時景殿のことが気になるのでしょう」
「どうして?」
ちよは、娘の顔を見た。
「それも、いつか分かるかもしれないわね」
あやは、少し考えた。
「皆さん、分からないことが多いのですね」
光成が吹き出した。
宗直が咳払いをした。
三郎は、今度こそ何も言わなかった。
*
夜。
あやは、昼間のことを思い返していた。
小太郎様は、時景様になった。
大人の名前をもらい、家の仕事も増える。
それでも、自分が呼べば振り向いてくれる。
以前と同じように、荷の話を聞いてくれる。
そして、今日は何度も笑っていた。
あやは、少し嬉しくなった。
けれど、一つだけ気になることが残っている。
どうして、忙しくても来てくれるのだろう。
荷の話なら、ほかの人ともできる。
銭のことも、船のことも、時景は自分よりずっと詳しい。
それなのに、あやの質問を最後まで聞いてくれる。
次に会ったら、聞こう。
そう思ってから、あやは気づいた。
次に会える日が、楽しみだった。
荷の話を聞くためだけではない。
小太郎様が、どんな顔で答えるのか。
それを見たい。
あやは、布団の中で小さく笑った。
*
同じ夜。
ちよは、片づけを終えてから、しばらく一人で座っていた。
あやの縁談は、直成が生きていたころから両家で話し合ってきたものだった。
あのころ、あやはまだ幼かった。
夫がいなくなってからも、北条家との付き合いは続いている。
けれど、婚姻するのは家同士だけではない。
一緒に暮らすのは、あやと時景である。
今日の二人を見て、ちよは少し安心していた。
時景は、あやの話をよく聞いていた。
あやも、時景のことを知りたがっていた。
それが嬉しかった。
ちよは、ふと夫のことを思い出した。
直成は、あやが小さかったころ、よく抱き上げていた。
娘が何かを尋ねると、分からないことまで一緒に考えていた。
あの子が大きくなったら、どんな人を好きになるのだろう。
そんな話を、二人でしたこともある。
ちよは、誰もいない部屋で小さくつぶやいた。
「直成さん。あやも、大きくなりましたよ」
返事はない。
ちよは、昼間の息子たちの顔を思い出した。
宗直も、光成も、三郎も、何か言いたそうにしていた。
婚姻の話が具体的になれば、きっと三人そろって口を出すだろう。
そこへ、ふみとおりんとしづも加わる。
京にいるまつにも知らせなければならない。
ちよは、思わず笑った。
「あの人たちをまとめる方が、大変かもしれませんね」
夫が生きていたら、きっと面白がっただろう。
二階堂家の末娘の婚姻は、まだ決まっていない。
けれど、どうやら静かには進まないらしかった。
### 登場人物紹介
**北条時景/小太郎**
北条一門の若者。幼名は小太郎。建保六年(1218年)、元服して時景と名乗る。家の仕事に通じ、物事を落ち着いて考える性格。二階堂家のあやとは幼いころから親しく、彼女の質問に付き合う時間を楽しんでいる。




