第54話 まつは、二人目の子を迎える
建保四年(1216年)、京――今の京都。
「ははうえ!」
廊下の向こうから、小さな足音が聞こえた。
「ははうえ! あかご、うまれた?」
まつは、布団の中で目を閉じた。
「……季成様」
「はい」
「千寿丸を、誰か止めてください」
夫の藤原季成は、戸の向こうを見た。
「止めるのですか」
「少しだけ」
「分かりました」
季成が立ち上がろうとしたところで、戸の向こうから声がした。
「ちちうえ! ははうえが、よんでる!」
「呼んでいません!」
まつが答えた。
「ほら、げんき!」
千寿丸は、どうやら母親の声が聞こえたことを喜んでいるらしい。
季成は少し笑った。
「元気なのは、よいことです」
「元気すぎます」
まつはため息をついた。
つい先ほど、二人目の子を産んだばかりだった。
女の子である。
名前は、あさ。
まだ生まれたばかりで、母親の隣ですやすやと眠っている。
一方、兄になった千寿丸は、妹が生まれたと聞いてから、ずっと落ち着かない。
「ちちうえ!」
また声がした。
「いもうと、あるける?」
「まだ歩けません」
季成が答えた。
「じゃあ、いつ、あるく?」
「もう少し大きくなってからです」
「あした?」
「もう少し先ですね」
まつは布団の中で笑ってしまった。
「季成様」
「はい」
「この子、誰に似たのでしょう」
季成は少し考えた。
「よく話すところは、まつ殿でしょうか」
「私は、あんなに騒がしくありません」
「そうでしたか」
「そうです」
季成は何も言わなかった。
まつは夫を見た。
「何か言いたそうですね」
「いえ」
「絶対に何か思っています」
「千寿丸は、よく似ていると思いました」
「どちらに?」
「まつ殿に」
まつは枕をつかんだ。
季成は静かに笑った。
*
千寿丸が妹と初めて対面したのは、その日の午後だった。
母親の体を休ませるため、季成が少し待たせていたのである。
「静かに入るのですよ」
季成が言った。
「はい」
「走らないこと」
「はい」
「大きな声を出さないこと」
「はい!」
「その声が、少し大きいですね」
「……はい」
千寿丸は口を両手で押さえた。
まつは、その姿を見て笑った。
「こちらへいらっしゃい」
千寿丸はそろそろと近づいた。
そして、母親の隣で眠っている赤子を見た。
「……小さい」
「そうでしょう」
「これ、いもうと?」
「ええ。あさですよ」
千寿丸はじっと見た。
「あさ」
呼んでみる。
返事はない。
「あさ」
もう一度呼ぶ。
やはり返事はない。
「ははうえ」
「何です?」
「あさは、ぼくのこと、きらい?」
「どうして?」
「よんでも、へんじ、しない」
まつは思わず吹き出した。
「まだお話ができないのです」
「どうして?」
「生まれたばかりだから」
「ぼくは、おはなし、できる」
「千寿丸は、もう大きくなったでしょう」
千寿丸は妹を見た。
それから、少し胸を張った。
「じゃあ、ぼくが、おしえる」
「何を?」
「おはなし」
季成が尋ねた。
「最初に何を教えるのですか」
千寿丸は真剣に考えた。
「……にいに」
まつは笑った。
「自分のことからですか」
「ぼくが、にいにだから」
「そうですね」
「ははうえと、ちちうえも、おしえる」
「順番が違いませんか」
季成が静かに言った。
「そう?」
「母上からでもよいと思いますよ」
千寿丸は少し考えた。
「じゃあ、ははうえ、ちちうえ、にいに」
「それならよいでしょう」
まつは首をかしげた。
「なぜ季成様が決めるのです?」
「……確かに」
二人は顔を見合わせた。
あさは、その間も眠っていた。
*
数日後。
まつは、あさを抱きながら、庭を眺めていた。
千寿丸は庭の端で、小さな枝を集めている。
何をしているのかと思えば、妹のために家を作っているらしい。
「ははうえ!」
「何です?」
「あさの、おうち!」
まつは庭を見た。
枝が四本、地面に並んでいた。
「……ずいぶん小さい家ですね」
「いまは、ちいさいから」
「屋根は?」
千寿丸は固まった。
「……屋根」
「雨が降りますよ」
千寿丸は枝を見た。
「ちちうえ!」
季成が呼ばれた。
「はい」
「やね、つくって!」
季成は庭へ出て、枝を眺めた。
「これは、あさの家ですか」
「はい!」
「立派ですね」
「でも、やね、ない」
「それは困りますね」
季成は少し考えた。
「では、葉を使いましょうか」
千寿丸は目を輝かせた。
「ちちうえ、なんでも、しってる!」
「何でもではありませんよ」
「でも、やね、しってる!」
「屋根くらいは知っています」
まつは縁側で笑った。
この家の男たちは、二人そろって真剣に小さな家を作り始めた。
*
夕方、季成がまつの隣へ座った。
「あさは、よく眠りますね」
「今は、です」
「今は?」
「そのうち千寿丸のようになるかもしれません」
季成は庭を見た。
千寿丸は、完成した小さな家を眺めている。
「それは賑やかになりますね」
「私は、少し静かな子でもよいと思っています」
「そうなるかもしれません」
「季成様は、どう思います?」
「まだ分かりません」
まつは笑った。
「父上と同じことをおっしゃる」
「直成殿ですか」
「ええ」
まつは、あさの顔を見た。
「父上は、何でもすぐに決めるのを嫌がる人でした」
「そうでしたね」
「私が小さいころも、よく言われました。自分で見て、自分で考えなさいって」
季成はうなずいた。
「まつ殿らしい教えですね」
「でも、何でも好きにしてよい、という意味ではありませんでした」
まつは少し考えた。
「自分で決めたことには、自分で向き合いなさい。そんな感じだったと思います」
季成は、あさを見た。
「では、この子にも?」
「ええ」
まつは答えた。
「この子にも、自分で考える子になってほしいです」
「千寿丸にも?」
「もちろん」
「二人とも違う道を選ぶかもしれませんね」
「そうでしょうね」
季成は静かに言った。
「それでも、よいのでしょう?」
まつは少し驚いた。
そして、笑った。
「季成様」
「はい」
「父上みたいなことを言わないでください」
「似ていますか」
「似ています」
「それは光栄です」
「でも、父上はもっと変なことを言いましたよ」
「たとえば?」
まつは思い出した。
「家のために子どもがいるのではない、って」
季成は黙って聞いていた。
「子どもが生きる場所として家がある。だから、家のために人生を決めるなって」
「なるほど」
「変わっているでしょう?」
「少し」
季成は微笑んだ。
「でも、分かる気がします」
まつは夫を見た。
「本当に?」
「ええ」
季成は庭の千寿丸へ目を向けた。
「私たちが、この子たちの人生を全部決めることはできませんから」
「決めたいとも思いません」
まつは即答した。
「それに、私だって、自分で京へ来ると決めたのです」
「そうでしたね」
「母上も、最後は私に聞いてくれました」
まつは少し笑った。
「もっとも、私が答える前から、母上は私の顔を見て分かっていたようでしたけれど」
「何をです?」
「季成様のことが好きだって」
季成は一瞬、黙った。
「……そうでしたか」
「何です、その顔は」
「いえ。少しうれしくて」
まつは笑った。
「今さらですか」
「今さらでも、うれしいことはあります」
まつは、夫の肩に少し寄りかかった。
あさが小さく動いた。
二人とも、その顔を見た。
*
それから数日して、鎌倉へ送る手紙を書くことになった。
「母上に知らせないと」
まつが言った。
「もう使いは出していますよ」
季成が答えた。
「それは生まれたという知らせでしょう」
「はい」
「今度は、私が書きます」
季成は紙と筆を用意した。
まつは考えながら書き始めた。
母上。
女の子が生まれました。
名前は、あさです。
千寿丸は、妹が生まれてから、急に兄らしくなろうとしています。
まつは、そこで筆を止めた。
「……急に、でしょうか」
季成が聞いた。
「何がです?」
「千寿丸は、前から自分が大きいと思っていましたよ」
まつは笑った。
「そうでした」
続きを書く。
千寿丸は、あさのために小さな家を作りました。
まだ本人は入れませんが、屋根もあります。
父上がいらしたら、きっと笑ったでしょう。
まつは筆を止めた。
父は、もういない。
けれども、父のことを思い出すと、今でも声が聞こえてくる気がする。
「まつは、どうしたいんだ?」
子どものころ、何度も聞かれた言葉だった。
今なら分かる。
父は、自分の望む答えを娘に言わせようとしていたのではない。
本当に、娘が何を考えているのかを知りたかったのだ。
まつは、もう一度筆を動かした。
父上が私たちにしてくれたように、私もこの子たちの話を聞こうと思います。
千寿丸も、あさも、それぞれ違う子になるのでしょう。
どんな子になるのか、楽しみです。
そして最後に、こう書いた。
母上。
私は今、幸せです。
どうぞご安心ください。
*
その夜。
千寿丸が、あさの寝顔を見ていた。
「母上」
「何です?」
「私は、あさを守ります」
まつは笑った。
「ありがとう」
「ずっと守ります」
「ずっと?」
「はい」
まつは少し考えた。
「では、あさが大きくなって、自分でできるようになったら?」
千寿丸は困った。
「……守らなくてよいのですか」
「そのときは、あさに聞いてみたら?」
「聞く?」
「ええ。手伝ってほしいかどうか」
千寿丸は妹を見た。
「あさ」
返事はない。
「まだ話せませんね」
「そうね」
「では、話せるようになるまで待ちます」
まつは、息子の頭をなでた。
「それがいいと思います」
千寿丸は、もう一度あさを見た。
「あさ。大きくなったら教えてね」
あさは眠っていた。
けれども、その小さな手が動いて、千寿丸の指を握った。
「あ!」
千寿丸が声を上げた。
「母上! あさが返事をしました!」
「そうかもしれませんね」
「私のことが分かったんです!」
まつは笑った。
「そうだったら、うれしいわね」
千寿丸は、しばらくその指を動かさなかった。
まつは、二人の子どもを見ていた。
鎌倉にいたころ、太郎兄上と次郎兄上も、こんなふうに自分を囲んでいたのだろうか。
覚えてはいない。
けれども、きっとそうだったのだと思う。
兄たちは、今でも自分のことを心配する。
父は、もういない。
母は、遠い鎌倉にいる。
それでも、あの家で育ったことは、今の自分の中に残っている。
まつは、千寿丸とあさを見た。
この子たちが、いつか京を離れたいと言うかもしれない。
別の仕事をしたいと言うかもしれない。
親の考えと違う道を選ぶかもしれない。
そのとき、自分はどうするだろう。
まつは、少し考えた。
そして、答えはもう知っていることに気づいた。
まず、本人に聞く。
父が、そうしてくれたように。
「千寿丸」
「はい」
「あなたは、あさのよい兄上になりそうね」
千寿丸は胸を張った。
「はい!」
その声で、あさが目を覚ました。
そして、泣いた。
「あ!」
千寿丸が慌てた。
「母上! あさが泣きました!」
「聞こえています」
「どうしましょう!」
「まず、静かにしましょうか」
「はい!」
「その声も大きいですよ」
季成が横から言った。
千寿丸は両手で口を押さえた。
まつは笑った。
京の藤原家は、今日も賑やかだった。
鎌倉の二階堂家とは、少し違う。
けれども、どこかよく似ている。
そして、まつは思った。
父上が大切にしていたものは、こんな遠くまで来ています。




