幕間23 ちよは、娘が生まれて家の空気が変わるのを見る
建久四年(1193年)、鎌倉。
二階堂家に、三人目の子どもが生まれた。
女の子だった。
ちよは、腕の中の小さな顔を見つめた。
目を閉じている。
鼻も小さい。
口も小さい。
手など、もっと小さい。
それなのに、ときどき驚くほど大きな声で泣いた。
「元気ですね」
直成さんが言った。
「あなたに似たのではありませんか」
「私は、こんなに泣きません」
「赤子のころを覚えているのですか」
「……覚えていません」
「では、分からないでしょう」
「はい」
直成さんは素直に認めた。
ちよは笑った。
「まつ」
もう一度、娘の名前を呼んでみる。
まつ。
二人で考えて決めた名前だった。
まだ何者でもない、小さな女の子。
けれども、その子が一人加わっただけで、家の中が少し変わったように感じた。
そして、その変化を誰より大きく受け止めたのが、二人の兄だった。
*
「母上」
太郎が部屋の入口から顔を出した。
「入ってもよいですか」
「いいですよ」
太郎は、そろそろと入ってきた。
その後ろから、次郎も顔を出した。
「僕も」
「次郎もどうぞ」
二人は並んで、ちよの前へ来た。
ちよの腕の中では、まつが眠っている。
二人とも黙った。
「どうしたの?」
「……小さいです」
太郎が言った。
「そうね」
次郎は、まつの顔をじっと見ている。
近い。
「次郎」
「はい」
「近いですよ」
次郎は少しだけ顔を離した。
それでも近い。
太郎が妹を見ながら尋ねた。
「母上」
「なあに」
「落としたら、どうなるのですか」
「落とさないでください」
「はい」
太郎の顔が急に真剣になった。
「では、私は抱かない方がよいです」
ちよは少し驚いた。
「抱きたくないの?」
「抱きたいです」
「では、どうして?」
「私が失敗したら、まつが困ります」
ちよは、太郎の頭をなでた。
「では、座って抱いてみますか」
「座って?」
「私がそばにいます」
太郎はしばらく考えた。
「それなら」
ちよは布を整え、太郎を座らせた。
その腕に、そっとまつを預ける。
太郎の体が固まった。
「母上」
「はい」
「動きました」
「赤子ですから」
「どうすればよいですか」
「そのままで大丈夫」
「本当に?」
「本当に」
太郎は息まで小さくして、妹を抱いていた。
そこへ次郎が顔を近づけた。
「兄上」
「何だ」
「まつ、兄上の指をつかんでる」
太郎が下を見る。
小さな手が、太郎の指を握っていた。
「……母上」
「はい」
「離しません」
「握っているのね」
「どうしましょう」
「そのままでいいでしょう」
太郎は困ったような、それでいて少しうれしそうな顔をした。
「仕方ありませんね」
ちよは笑いそうになった。
六歳の兄が、生まれたばかりの妹に指を握られて、
仕方がない。
と言っている。
どう見ても、うれしいのである。
*
次は次郎だった。
「僕も抱く」
「次郎は、じっとしていられる?」
「いられる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんでは困ります」
「じゃあ、いる」
次郎も座らせた。
ちよがまつを抱かせる。
次郎は妹を見た。
じっと見る。
太郎とは違って、怖がってはいない。
むしろ、不思議そうだった。
「母上」
「なあに」
「どうして手を握るの?」
「赤子だからでしょう」
「どうして赤子は握るの?」
「さあ」
次郎はまつの手に自分の指を近づけた。
まつの手が動いた。
指を握った。
「あ」
次郎の顔が明るくなった。
一度、指を抜く。
また近づける。
また握る。
「次郎」
「はい」
「遊ばないの」
「遊んでないよ。確かめてる」
「何を?」
「もう一回やっても握るか」
ちよは次郎を見た。
やはり、この子はそういうところがある。
何かを見つけると、自分で確かめたくなる。
「赤子で試さないでください」
「はい」
次郎は残念そうだった。
*
直成さんが部屋へ入ってきた。
「どうですか」
「父上」
太郎が振り向いた。
「まつは、私の指を握りました」
「そうか」
「かなり強いです」
「それは頼もしい」
次郎も言った。
「僕の指も握った」
「そうか」
「何回やっても握るか調べようとしたら、母上に止められた」
「それは止められるだろうな」
「どうして?」
「まつは調べ物ではないからだ」
「でも、不思議でしょう」
「不思議ではある」
直成さんは、まつの顔をのぞき込んだ。
「小さいな」
太郎が言った。
「父上」
「何だ」
「まつは、いつ大きくなりますか」
「少しずつだ」
「いつ私くらいになりますか」
「ずいぶん先だな」
太郎は考えた。
「では、それまでは私が守ります」
直成さんは太郎を見た。
「そうか」
「はい」
すると次郎も言った。
「僕も守る」
「二人で?」
「はい」
「それなら安心だな」
太郎は胸を張った。
次郎もうなずいた。
まつだけが、何も知らずに眠っていた。
*
それから、二階堂家では少し妙なことが起き始めた。
太郎が静かになった。
正確には、まつが眠っているときだけ静かになった。
「次郎、走るな」
「どうして?」
「まつが起きる」
「まだ起きてない」
「起きてからでは遅い」
「でも兄上も歩いてる」
「私は静かに歩いている」
「足の音してるよ」
「お前より小さい」
二人が言い争い始める。
そして、その声でまつが泣く。
「ほら!」
「兄上もしゃべったからだよ!」
「お前が――」
「二人とも」
ちよが言う。
二人とも黙る。
まつは泣き続ける。
直成さんが、書き物を持ったまま部屋から顔を出した。
「どうした」
太郎と次郎が同時に父を指さした。
「父上の声が大きい!」
「僕か?」
「まつが起きました」
「もう起きていたような気がするが」
「父上も静かにしてください」
直成さんは黙った。
家の中で一番小さい人間が、一番大きな力を持っていた。
*
数日すると、太郎は妹の世話をしたがるようになった。
「母上、布を持ってきます」
「ありがとう」
「水はいりますか」
「今は大丈夫」
「寒くありませんか」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「太郎」
「はい」
「少し座っていてもいいのよ」
「でも、まつが困ります」
「まつは今、寝ています」
太郎は眠っている妹を見た。
「では、起きたら呼んでください」
「分かりました」
太郎は部屋を出た。
その直後、次郎が入ってきた。
「母上」
「なあに」
「まつは、いつしゃべるの?」
「まだ先ですね」
「いつ歩くの?」
「それもまだ先」
「歯は?」
「まだです」
「何ができるの?」
ちよは、まつを見た。
「泣くことと、眠ることと、お乳を飲むことかしら」
次郎は驚いた。
「それだけ?」
「それだけ」
「それでいいの?」
ちよは少し考えた。
「いいのよ」
「どうして?」
「赤子だから」
次郎はしばらく妹を見ていた。
「何もできなくてもいいの?」
「ええ」
「ふうん」
次郎は、それがずいぶん不思議らしかった。
*
夜。
三人の子どもが眠ったあと。
直成さんとちよは、並んでまつの寝顔を見ていた。
太郎と次郎は、もう眠っている。
家の中が静かだった。
「直成さん」
「はい」
「女の子でしたね」
「そうですね」
「うれしいですか」
「もちろん」
「太郎や次郎のときと違います?」
直成さんは考えた。
「同じですね」
「同じ?」
「無事に生まれてきてくれて、よかったと思っています」
ちよは笑った。
「そういう意味ではありません」
「では?」
「女の子ですよ」
「はい」
「いずれ、お嫁に行くのでしょう」
直成さんは、眠っているまつを見た。
「それは、まだ分からないでしょう」
ちよは夫を見た。
「分からない?」
「はい」
「女の子ですよ」
「女の子ですね」
「でしたら、どこかのお家へ嫁ぐのでしょう?」
「本人が嫁ぎたいなら」
ちよは黙った。
少し考えてから聞いた。
「嫁ぎたくないと言ったら?」
「なぜ嫁ぎたくないのか、聞きます」
「聞くのですか」
「本人のことですから」
ちよは、ますます不思議になった。
「では、太郎は?」
「太郎?」
「この家を継ぐのでしょう」
直成さんは、また考えた。
「それも、本人と話さないと」
「長男ですよ」
「はい」
「二階堂の家ですよ」
「はい」
直成さんは、そこまで答えてから首をかしげた。
「でも、家のために太郎がいるわけではないでしょう」
ちよは返事をしなかった。
直成さんが、ときどきこういうことを言うのを知っている。
初めて聞いたときには、何を言っているのか分からなかった。
今でも、全部分かるわけではない。
「では、誰も家を継ぎたくないと言ったら?」
ちよが聞いた。
「困りますね」
「困るのですね」
「それは困ります」
直成さんはあっさり認めた。
「でも、困るからといって、その子の一生をこちらで決めてよいことにはならないでしょう」
「二階堂の家がなくなっても?」
直成さんは少し黙った。
ちよは、さすがにそこでは迷うのだろうと思った。
ところが、返ってきた答えは違った。
「なくなるときは、なくなるでしょう」
「……よいのですか?」
「寂しくはあります」
直成さんは言った。
「でも、家を残すために子どもがいるわけではありませんから」
ちよは、眠っているまつを見た。
「変わったことを言いますね」
「そうですか」
「普通は、家を残したいものではありませんか」
「僕も、残ればうれしいですよ」
「でしょう?」
「でも、それは結果でしょう」
「結果?」
「太郎がここに残りたいと思う。次郎もここで何かをしたいと思う。まつも帰ってきたいと思う。そうして残るなら、うれしいです」
直成さんは、まつの小さな手を見た。
「でも、この子たちを家に縛りつけて残った家なら、僕はあまりうれしくない」
ちよは、夫の横顔を見た。
「では、何を残したいのです?」
直成さんは困った顔をした。
「難しいですね」
「家ではないのでしょう?」
「家も残ればうれしいです」
「土地は?」
「それも残れば助かります」
「では、何です?」
直成さんはしばらく考えた。
「この子たちが、自分で生きていけるようになれば、それでいいのかもしれません」
「それだけ?」
「はい」
「ずいぶん欲がありませんね」
「そうでしょうか」
「もっとありませんか。二階堂家を大きくするとか」
「ないですね」
「即答ですね」
「はい」
ちよは笑った。
「では、偉くなってほしいとか」
「本人がなりたいなら」
「よい家へ嫁いでほしいとか」
「本人が嫁ぎたいなら」
「よい役目についてほしいとか」
「本人がやりたいなら」
「全部、本人なのですね」
「本人の人生ですから」
ちよは、少しあきれた。
「あなたの育ったところでは、みんなそうなのですか」
直成さんの顔が止まった。
「……どうでしょう」
「また、それですか」
「いろいろな家がありましたから」
「では、あなたがそう思っているだけ?」
直成さんは少し考えてから、うなずいた。
「たぶん、そうです」
その答えを聞いて、ちよはなぜか安心した。
遠いどこかの決まりを持ち込んでいるのではない。
この人が、自分でそう考えているのだ。
「では、この子はどう育てます?」
ちよはまつを見た。
直成さんも見る。
「太郎と同じです」
「女の子なのに?」
「同じ子どもですから」
「次郎とも?」
「はい」
「何を教えるのです?」
「考えること」
「ほかには?」
「人の話を聞くこと」
「ほかには?」
「分からないことを、分かったふりをしないこと」
ちよは笑った。
「あなたの好きなものばかりですね」
「そうですね」
「それでは、あなたと同じ人になってしまいますよ」
直成さんは首を横に振った。
「それは困ります」
「どうして?」
「五人も僕がいたら、うるさいでしょう」
「まだ三人です」
「そうでした」
ちよは笑った。
直成さんも笑った。
その声に反応したのか、まつが小さく動いた。
二人とも黙る。
まつは少し顔をしかめた。
泣くかと思ったが、そのまま眠った。
「この子は、この子ですね」
直成さんが言った。
「そうですね」
「何になるかは、まだ分からない。どこで暮らすかも、誰と暮らすかも」
「はい」
「なら、今から決めなくてもいいでしょう」
ちよは、まつの頬に触れた。
「ずいぶん先の話ですものね」
「ええ」
「そのとき、本人に聞く?」
「はい」
「嫌だと言ったら?」
「なぜ嫌なのか聞きます」
「それでも嫌だと言ったら?」
直成さんは少し考えた。
「別の道を一緒に考えます」
ちよは夫を見た。
この人は、本当に家にこだわらない。
二階堂という名にも、土地にも、子どもたちの将来にも、何も思わないわけではない。
大切にはしている。
ただ、それより先に、人を見る。
家を残すために子どもがいるのではない。
子どもが生きる場所として、家がある。
直成さんにとっては、どうやら順番が逆なのだった。
*
翌朝。
まつが泣いた。
太郎が走ってきた。
「母上、まつが泣いています!」
その後ろから次郎も来た。
「どうして泣いてるの?」
「今から見ます」
「お腹がすいたのですか」
太郎が聞く。
「そうかもしれません」
「寒い?」
次郎が聞く。
「それも確かめましょう」
「痛いのですか」
「まだ分かりません」
太郎と次郎は、妹の左右に座った。
二人とも心配そうな顔をしている。
直成さんもやってきた。
「どうした」
「まつが泣いています」
太郎が言った。
「それは大変だ」
直成さんも座った。
ちよは三人を見た。
太郎は、何かあれば自分が守ろうとする。
次郎は、なぜそうなっているのかを知ろうとする。
同じ家で育った兄弟なのに、もう違う。
そして、この小さな娘も、きっと二人とは違う人になる。
ちよは、まつを抱き上げた。
「大丈夫ですよ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
まつに。
太郎に。
次郎に。
それとも、自分自身に。
三人の子どもがいる。
三人とも違う。
だから、三人とも同じところへ向かわせる必要はないのかもしれない。
同じ家に生まれても、
同じ人生を生きる必要はない。
直成さんは、そう考えている。
ちよには、まだ少し変わった考えに思えた。
けれども、三人の子どもを見ていると、少しだけ分かる気もした。
太郎が言った。
「母上」
「なあに」
「まつは、私たちのことが分かるようになりますか」
「なりますよ」
次郎が聞いた。
「いつ?」
「そのうち」
「そのうちって、いつ?」
「分かりません」
次郎は不満そうだった。
太郎は妹を見て言った。
「早く大きくなるといいですね」
ちよは首を横に振った。
「そんなに急がなくてもいいのよ」
「どうして?」
ちよは腕の中の娘を見た。
「この子には、この子の速さがあるから」
二人の兄は、まだよく分からない顔をしていた。
まつは、そんな兄たちのことなど知らず、母の腕の中でまた眠り始めた。




