幕間22 ちよは、夫が帰るまで眠れない
建久四年(1193年)、鎌倉。
「父上、狩りって、そんなに大勢で行くものなのですか」
太郎が尋ねた。
直成さんは、旅支度をしながら答えた。
「普通の狩りなら、ここまで大勢では行かないな」
「では、どうして?」
「鎌倉殿が、大勢の武士を連れて富士の裾野へ行かれるからだ」
「富士?」
「大きな山があるだろう」
「白い山!」
横から次郎が答えた。
「そうだ。その山の近くで巻狩をする」
巻狩とは、大勢で山野を囲み、獣を追い込んで射る狩りのことである。
ただ獲物を捕るだけではない。
武士たちが馬を操り、弓を射る腕を見せる場でもあった。
「鎌倉殿も鹿を射るのですか」
太郎が聞くと、直成さんは少し考えた。
「射られるだろうが、今回は御家人たちを見て回るお仕事も多いだろうな」
「また、お仕事?」
「そうだ」
「鎌倉殿は、いつ遊ぶのですか」
直成さんは荷物を結ぶ手を止めた。
「……それは、鎌倉殿も知りたがっておられると思う」
ちよは思わず笑った。
以前、直成さんから聞いたことがある。
頼朝は鷹狩も馬も好きなのに、土地の争いや訴え事を聞いてばかりいるらしい。
「せっかくの狩りですもの。楽しんでこられるとよいですね」
ちよが言うと、直成さんはうなずいた。
「本当に」
それから、直成さんの目が、ちよのお腹へ向いた。
まだ、外から見てすぐに分かるほどではない。
けれども、二人はもう知っていた。
ここに、新しい子どもがいる。
「本当に行って大丈夫ですか」
直成さんが言った。
「何がです?」
「ちよさんの方です」
太郎と次郎がすぐそばにいる。
ちよは直成さんを見た。
「あなた」
「あ」
直成さんは口を閉じた。
太郎が不思議そうに父を見上げた。
「母上がどうかしたのですか」
「いや」
「今、ちよさんって言った」
次郎が言った。
「言っていない」
「言ったよ」
「気のせいだ」
「聞いた」
ちよは笑いをこらえた。
「二人とも。父上は出かける支度の途中でしょう」
太郎はまだ納得していなかったが、次郎を連れて庭へ出ていった。
二人の姿が見えなくなってから、ちよは小さな声で言った。
「気をつけてくださいね、直成さん」
「はい。ちよさんも」
直成さんは、もう一度ちよのお腹を見た。
「三人目か」
「三人目です」
「今度は、どんな子でしょうね」
「まだ分かりません」
「そうですね」
直成さんは笑った。
分からないことは、分からない。
それでよい。
男の子なのか、女の子なのか。
どんな顔をしているのか。
誰に似るのか。
まだ何も分からない。
ただ一つ分かっているのは、家族がまた一人増えるということだけだった。
ところが、その子が生まれる前に、鎌倉中を震え上がらせる事件が起きた。
*
富士の裾野へ向かったのは、頼朝だけではなかった。
有力な御家人たちも、多くの家来を連れて出かけている。
鎌倉では、男手が少なくなった家もあった。
二階堂家も同じだった。
直成さんは頼朝に同行し、ちよは家を預かることになった。
もっとも、今のちよは一人ではない。
お腹の中に、もう一人いる。
「母上」
太郎が庭で木の枝を振っていた。
「私は、いつ巻狩に行けますか」
「もう少し大きくなってからでしょうね」
「次郎より先ですね」
「どうして?」
「私の方が兄ですから」
次郎は黙っていなかった。
「鹿は、兄か弟かなんて知らないよ」
「それはそうだが」
「だったら、僕の方が先に見つけるかもしれない」
「見つけるのと射るのは違う」
「見つけないと射られない」
太郎は少し考えた。
「……それもそうだな」
ちよは二人を見ていた。
そのうち、この二人にも弟か妹ができる。
太郎は、きっと世話を焼くだろう。
次郎は、きっと顔を近づけて、何をするのかじっと見るだろう。
そんなことを考えると、少しおかしかった。
父がいなくても、家は賑やかだった。
朝になれば食事を作り、洗濯をし、子どもたちの喧嘩を止める。
夕方には戸を閉める。
直成さんが帰ってくるまで、それを繰り返せばよい。
そう思っていた。
*
知らせが届いたのは、巻狩が始まってしばらくしてからだった。
「富士で、人が斬られたそうです」
使いに来た男が、そう告げた。
ちよは手を止めた。
無意識に、もう片方の手がお腹へ動いた。
「どなたが?」
「工藤祐経殿と聞いております」
工藤祐経。
頼朝に仕える武士の一人だった。
「何があったのですか」
「曽我という兄弟が、父親の仇を討ったとか」
「仇討ち……」
男はうなずいた。
「昔、父親を殺された恨みだそうです」
ちよは、すぐには言葉が出なかった。
父を殺された子どもたち。
その子どもたちが成長し、父の仇を殺した。
それだけ聞けば、長い恨みの末の出来事に思える。
けれども、男の話はそこで終わらなかった。
「鎌倉殿のお泊まりになっていたところにも、騒ぎが及んだそうです」
「……鎌倉殿は?」
「ご無事と聞いております」
ちよは胸をなで下ろしかけた。
しかし、すぐに尋ねた。
「ほかの方々は?」
「まだ、詳しいことは」
「直成殿は?」
男は困った顔をした。
「そこまでは、分かりませぬ」
ちよは、男を責めなかった。
分からないものは、分からない。
直成さんがいつも言っていることだった。
ただ、その言葉を自分に言い聞かせるのは、思っていたより難しかった。
お腹に手を置く。
何かあったら。
そう考えかけて、やめた。
分からないことを、悪い方へ勝手に決めてはいけない。
それも、直成さんから教わったことだった。
*
「母上」
太郎が尋ねた。
「鎌倉殿が、斬られそうになったのですか」
「まだ、詳しくは分からないの」
「でも、鎌倉殿は強いのでしょう?」
「ええ」
「だったら、大丈夫では?」
ちよは答えに迷った。
次郎も隣に来た。
「鎌倉殿って、刀で斬られたら死ぬの?」
太郎が弟を見た。
「そんなことを言うな」
「でも、知りたい」
次郎は真剣だった。
ちよは二人の前に座った。
「死ぬことはあります」
「将軍なのに?」
「将軍でもです」
次郎は目を丸くした。
「将軍って、すごく偉い人でしょう?」
「そうね」
「偉くても?」
「偉くても、人間ですから」
太郎は木の枝を握り直した。
「では、鎌倉殿を守る人が必要ですね」
「そうね」
「父上も守っているのですか」
「父上は、刀で戦うより、お話を聞いたり、書き物をしたりするお仕事が多いけれど」
「それでは、危ないときに困ります」
「そうかもしれませんね」
ちよは少し笑った。
「でも、鎌倉殿を守る方法は、刀だけではないのよ」
「どういうことですか」
「争いが起きないようにすることも、大切でしょう?」
太郎はうなずいた。
次郎は首をかしげた。
「でも、今回は起きちゃった」
「……そうね」
そのとおりだった。
*
事件の詳しい話は、少しずつ鎌倉へ伝わってきた。
曽我十郎祐成と五郎時致という兄弟が、工藤祐経を討ったこと。
兄はその場で討たれ、弟は捕らえられたこと。
頼朝の宿所の方へも騒ぎが広がったこと。
そして、頼朝は無事だったこと。
けれども、直成さんの消息はなかなか届かなかった。
ちよは、いつもどおり家事を続けた。
米を量り、火を起こし、子どもたちの着物を整える。
太郎が転べば膝を洗い、次郎が虫を持ち込めば外へ出すように言う。
そして、ときどきお腹へ手を当てた。
この子が生まれるころには、きっと笑い話になっている。
そう思いたかった。
何も変わらない一日だった。
ただ、門の外で馬の音がするたびに、顔を上げた。
夜になると、太郎が言った。
「母上、父上は帰ってきますよね」
「ええ」
ちよは答えた。
それから、自分の返事が少し早すぎたことに気づいた。
「……帰ってきてほしいわね」
太郎は黙った。
次郎も、その夜は虫の話をしなかった。
ちよは二人が眠ってからも、なかなか横になれなかった。
自分一人なら、もう少し平気だったかもしれない。
けれども、太郎と次郎がいる。
そして、お腹には、まだ父親の顔を見たこともない子がいる。
「早く帰ってきてください」
誰もいない部屋で、ちよは小さく言った。
*
直成さんが帰ってきたのは、それから数日後のことだった。
門の外から声がした。
「ただいま」
ちよは立ち上がった。
太郎と次郎が先に走り出した。
「父上!」
「お帰りなさい!」
直成さんは二人を受け止めた。
「ただいま。二人とも元気だったか」
「父上は斬られませんでしたか」
太郎が真顔で尋ねた。
「斬られていない」
「鎌倉殿は?」
「ご無事だ」
「本当に?」
「本当だ」
次郎が直成さんの袖を引いた。
「父上、鹿は?」
「鹿?」
「捕った?」
直成さんはしばらく黙った。
「……僕は、鹿を捕りに行ったわけではない」
「じゃあ、何を捕ったの?」
「書き物だな」
「書き物は逃げないよ」
「逃げないが、増えるんだ」
次郎は納得できない顔をした。
ちよは、ようやく笑えた。
そして直成さんが、ちよを見た。
一瞬だけ、その視線がお腹へ落ちる。
ちよは何も言わず、うなずいた。
直成さんも、うなずいた。
それだけでよかった。
*
その夜、子どもたちが寝たあと。
ちよは直成さんの前に湯を置いた。
「直成さん」
「はい」
「無事でよかった」
直成さんは、湯飲みに伸ばしかけた手を止めた。
「心配をかけました」
「鎌倉殿がご無事と聞いても、直成さんのことは分からなかったから」
「……そうでしたか」
ちよはうなずいた。
それから、自分のお腹へ手を置いた。
「この子にも、父親の顔を見せてもらわないと困ります」
直成さんは目を瞬いた。
そして、少し笑った。
「それは、大変だ」
「大変です」
「では、もっと気をつけないと」
「今ごろ気づいたのですか」
「いえ。前から気づいていました」
「本当ですか」
「たぶん」
「たぶん、なのですね」
二人で笑った。
しばらくして、直成さんが静かに言った。
「人が大勢集まる場所では、何が起こるか分かりませんね」
「鎌倉殿ほどのお方でも?」
「鎌倉殿ほどの方だからこそ、でしょう」
直成さんは湯を一口飲んだ。
「大勢の人がついてくるということは、それだけ多くの思いや恨みも集まるということです」
ちよは考えた。
「曽我の兄弟は、お父上の仇を討ったのでしょう」
「そう聞いています」
「そのお父上にも、家族がいた」
「ええ」
「討たれた工藤殿にも、家族がいるのでしょうね」
直成さんはうなずいた。
「います」
「兄弟の方にも、お母上がいらしたのでしょう」
「そうですね」
ちよは湯飲みを見つめた。
「誰かの恨みが晴れたら、別の誰かの恨みが生まれるのね」
直成さんは、すぐには答えなかった。
「だから、争いを裁く仕事が必要なのだと思います」
「でも、全部は止められない」
「ええ」
直成さんは静かに言った。
「それでも、少しでも減らさないと」
ちよは、昼間の太郎の言葉を思い出した。
鎌倉殿を守る人が必要だ。
そのとおりだった。
けれども、守るというのは、刀を持って前に立つことだけではないらしい。
「直成さん」
「はい」
「直成さんも、気をつけてくださいね」
「はい」
「鎌倉殿のお仕事も大切でしょうけれど」
「ええ」
ちよは自分のお腹に触れた。
「この家にも、直成さんを待っている人がいるのですから」
直成さんは、その手を見た。
「三人ですね」
「いいえ」
ちよは言った。
「私も入れて、四人です」
直成さんは一瞬黙った。
「……そうでした」
「忘れないでください」
「それは、絶対に忘れてはいけませんね」
「はい」
今度は、ちよも笑った。
*
翌朝。
直成さんが庭に出ると、太郎が木の枝を持って待っていた。
「父上」
「何だ」
「私が大きくなったら、父上を守ります」
直成さんは目を丸くした。
「それは心強いな」
「鎌倉殿も守ります」
「ずいぶん忙しくなるぞ」
「大丈夫です」
すると次郎が、後ろから言った。
「僕は、危ない人が来る前に見つける」
太郎が振り向いた。
「どうやって?」
「よく見る」
「それだけか」
「兄上が戦う前に、知らせるんだよ」
太郎は考えた。
「……それなら助かる」
直成さんは二人を見て笑った。
「では、父上は何をすればいい?」
太郎は即答した。
「書き物です」
次郎もうなずいた。
「父上は、書き物が逃げないように見張っていて」
「……そうか」
直成さんは腕を組んだ。
「父上の役目は、それで決まりか」
「はい!」
二人の声がそろった。
縁側で聞いていたちよは、声を出して笑った。
そして、お腹にそっと手を置いた。
「あなたのお兄さんたちは、ずいぶん賑やかですよ」
まだ返事はない。
けれども、もうこの家には、その子の居場所があった。
富士の裾野では、人が死んだ。
鎌倉殿も、命の危険に近づいた。
その出来事は、二階堂家の子どもたちにも、少しだけ世の中の怖さを教えた。
けれども、朝になれば、また家族の一日が始まる。
太郎は守ると言い、次郎は見つけると言う。
直成さんは書き物をする。
ちよは皆が帰ってくる家を守る。
そして、その家にはもう一人、新しく加わろうとしている。
それぞれにできることは違っていた。
ちよは、そんな家族を見ながら思った。
将軍でも、父親でも、子どもでも。
人は一人では生きられない。
だからこそ、誰かが誰かの帰りを待っている。
そして、帰ってきた人を迎える家には、ときどき新しい命もやってくる。
ちよはまだ知らない。
お腹の中にいるこの子が、やがて二人の兄に負けないくらいよくしゃべり、よく動き、自分の人生を自分で選ぼうとする娘になることを。
今はただ、
無事に生まれてきてくれれば、それでよかった。
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今回登場した歴史上の人物
源頼朝(1147〜1199)
鎌倉幕府の初代将軍。建久四年(1193年)、富士の裾野で大規模な巻狩を行った。その最中に曽我兄弟の仇討ち事件が起こった。
曽我十郎祐成(1172〜1193)・五郎時致(1174〜1193)
父の仇である工藤祐経を討つため、富士の巻狩に参加した兄弟。事件の中で兄の祐成は討たれ、弟の時致は捕らえられた。
工藤祐経(生年不詳〜1193)
伊豆の武士。所領をめぐる争いを背景に曽我兄弟の父・河津祐泰を死なせた側の人物とされる。のちに頼朝に仕え、富士の巻狩で曽我兄弟に討たれた。




