第53話 あやは、銭の行方と小太郎の用を追う
――建保四年(1216年)、鎌倉。
あやは朝から、昨日の銭を見ていた。
昨夜、小さな布に包んだものを、朝になってまた取り出した。まだ一度も使っていないのに、ずいぶん長く眺めている。
「母上」
「何?」
「銭って、どこへ行くの?」
ちよが振り返った。
「使えば、渡した相手のところでしょう」
「そのあと」
「その人が使えば、また別の人のところ」
「そのあと」
ちよは、畳みかけていた衣を膝へ置いた。
「今日は、何人目まで答えればよいの?」
あやは少し考えた。
「追ってみたい」
「銭を?」
「うん」
「どうやって?」
あやも止まった。
そこまでは考えていなかった。
「……使った人に聞く」
「ずっと?」
「できるところまで」
ちよは娘の手を見た。
「その前に、頼んだ塩を買ってきてくださいね」
「塩から始める」
「買い物を終える前に、次へ行かないでください」
「分かってるよ」
あやは銭を布へ戻した。
結び目を作ろうとして、もう一度ほどく。すぐ使うのだから、包まなくてもよい気がした。
そのとき、門の方から声がした。
*
小太郎が来ていた。
宗直へ届ける文が一通と、返事を受け取る用があるという。
あやが顔を出したときには、用向きの説明はもう終わっていた。宗直が文に目を通す間、小太郎は静かに待っている。
「あや」
こちらを見て、小太郎が言った。
「今日は、使うの?」
あやは手元の銭を見た。
「まだ何も言ってないよ」
「昨日から、それを持ってるでしょう」
「今日は塩を買う」
「それなら、すぐ済みそうだね」
「そのあと、銭を追う」
小太郎の目が、銭からあやへ戻った。
「そちらは、すぐ済まなさそう」
「できるところまで」
「どうやって見分けるの?」
「何を?」
「渡した銭と、ほかの銭」
あやは銭を裏返した。
四角い穴がある。昨日もあった。ほかの銭にもある。
少し汚れているが、似た汚れの銭はほかにもありそうだった。
「……聞く」
「では、今日は何を買ったか、ではなく、次に何を買うか聞くんだ」
「そう。それでもいいでしょう」
「うん。聞いてみたら?」
小太郎は笑っていた。
あやがその顔を見ていると、宗直が文を置いた。
「返事を書く。少し待っていてくれ」
「はい」
小太郎はすぐに姿勢を正した。
あやは戸口へ向き直った。
「では、行ってくる」
「一人か?」
宗直に尋ねられ、あやは振り返った。
「塩を買うところは、知ってるよ」
「そのあと、どこまで行くかは決めていないだろう」
返事ができなかった。
小太郎が立った。
「私も出てきてよろしいですか。あの辺りで、確かめたい荷があります」
宗直はうなずいた。
「光成も出るところだ。一緒に行けばいい」
あやは小太郎を見た。
「昨日言っていた用?」
「うん」
「もう決まったの?」
「決まった」
返事は早かった。
何の用か聞く前に、光成が庭から顔を出した。
「まだ支度ができていないのか」
「できてる」
あやが答える。
光成は、その手元を見た。
「塩を持ち帰る物は?」
あやは空の手を見た。
小太郎が横を向いた。
「今、笑ったでしょう」
「まだ出ていないのに、銭の先へ行ってるから」
あやは、台所へ袋を取りに戻った。
*
塩を売る女へ銭を渡し、あやは袋を差し出した。
頼まれた分を受け取ると、袋の口を確かめる。
これで買い物は済んだ。
だが、あやは帰らなかった。
「まだ何かいるの?」
女に聞かれ、あやはその手にある銭を指した。
「次、それで何を買いますか」
「この銭で?」
「はい」
女はあやを見て、それから隣の小太郎を見た。
「何か足りなかったかい」
「買い物は済んでいます」
小太郎が答えた。
「この先、銭がどこへ行くのか知りたいそうです」
「へえ」
女は笑った。
「今日は油を買うかもしれないね。家の分が少なくなっていたから」
「灯りの?」
「そう」
あやは少し先を見た。
油を扱う男がいる。
「そこで買うんですか」
「たぶんね。ただ、これを使うかは分からないよ」
女は銭を、ほかの銭と一緒にしまった。
あやは、その手元を見届けた。
もう、どれが自分の渡した一枚か分からない。
「混ざった」
小太郎が言った。
「見てたよ」
「追えそう?」
「一枚は、難しい」
あやは少し唇を尖らせた。
「でも、油を買うかもしれないって分かった」
「うん」
「今度は、油を売る人に聞く」
小太郎は、先ほどより楽しそうな顔をした。
あやはそれを見てから、油を扱う男の方へ歩いた。
*
「油を売った銭で、何を買いますか」
男は、あやの後ろへ目を向けた。
光成が軽く頭を下げる。
「妹です。変なことを聞きますが」
「次郎兄上」
「まだ聞いていないとは言えんだろう」
男が笑った。
「飯も買うし、薪も買う。壺が割れれば、壺もいるな」
「油を仕入れるためにも?」
「そちらにも要る」
あやは男のそばに置かれた壺を見た。
売った銭を全部、自分の食べ物に使うわけにはいかない。次に売る油も用意しなければならない。
「では、分かれるんだ」
「何が?」
「銭の行くところ」
あやは指を折った。
「食べる分。家で使う分。次の油を買う分」
男はうなずいた。
「そういうことになるな」
別の客が来たので、三人は場所を空けた。
あやは歩きながら考えた。
塩から油。油から米。
一本の道のように追えると思っていた。だが、一人に聞いただけで、行き先がいくつも出てきた。
「増えた」
あやが言うと、小太郎が答えた。
「どちらへ行く?」
「まだ決めてない」
「私の用は、米を扱うところの近くだよ」
「では、そちら」
あやが歩き出すと、光成が小太郎を見た。
「ちょうどいい場所に用があるな」
「そうですね」
小太郎は落ち着いて答えた。
光成は何か言いかけ、結局、笑っただけだった。
*
米を扱う男にも、同じことを尋ねた。
「米を売った銭で、何を買いますか」
「何だ、お前は」
「あやです」
「名前じゃなくてな」
光成が吹き出した。
あやも少し笑ったが、すぐに言い直した。
「銭をもらった人が、次に何を買うのか聞いています」
「それなら、最初からそう言ってくれ」
男は、道具も布も塩も買うと答えた。
「塩も?」
「そりゃ、飯には要るだろう」
あやは振り返った。
今、自分の袋に入っている塩。朝、母に頼まれた物。それがここで、また話に出てきた。
「戻った」
「塩のところへ?」
小太郎に聞かれ、あやはうなずいた。
「私が塩を買って、塩を売った人が油を買って、油を売った人が米を買って、米を売った人が塩を買ったら」
「一回りだね」
「そう」
あやは嬉しくなった。
銭が一度使われても、そこで話が終わるわけではない。
受け取った人には、その人の買い物がある。
「本当に、その順に渡ったかは分からないよ」
小太郎が言った。
「分かってる。皆に聞いたことをつないだの」
「では、一枚の行方は?」
「見失った」
あやは認めた。
「でも、次に使うところは、皆にあった」
小太郎は、あやの顔を見ていた。
「何?」
「今日は、見失っても嬉しそうだね」
「別のことが分かったから」
「うん」
「小太郎は知ってた?」
「銭を受け取った人も買い物をすることはね」
「では、退屈でしょう」
「塩へ戻って、そんな顔をする人は初めて見た」
あやは頬へ手を当てた。
「どんな顔?」
小太郎は答える前に笑った。
「今みたいな顔」
「それでは分からないよ」
光成が二人の間へ声を入れた。
「そろそろ、俺の用を済ませてもいいか」
*
光成の用が終わると、小太郎は荷を扱う男のところへ向かった。
届いた荷の数と、残りが来る日を確かめる。相手が途中で言い直すと、もう一度、数を分けて聞いた。
あやは少し離れて待った。
小太郎は、こういうときに迷わない。
何を先に聞くか決まっているし、聞き終わったことを、また初めから尋ねたりしない。
あやなら、途中で箱の中が気になってしまう。
実際、今も気になっていた。
男が木の箱へ手を置いたので、あやは一歩近づいた。
「それには、何が入っているんですか」
「器だよ」
「宋から来たもの?」
「そう聞いている」
箱の蓋が少し開いた。
器の間に詰め物がある。昨日、店先に並んでいたものとは違い、重ねられた器の縁だけが見えた。
「これで、割れないの?」
「割れにくくするんだ。何があっても割れないとは言えん」
あやは、箱の中へ顔を寄せかけた。
小太郎が隣から言う。
「触るなら、聞いてから」
「見るだけ」
「それなら、もう少し離れても見えるよ」
あやは半歩下がった。
男は箱を閉め、次の仕事へ戻った。
「昨日は、割れたら誰が困るか聞いたね」
あやが言うと、小太郎はうなずいた。
「今日は、割れないようにするところ?」
「うん。店に並ぶ前に、こんなふうにしていたんだ」
あやは箱の周りを見た。
紐を締める人。荷を持ち上げる人。置き場所を指す人。
器を見ているつもりで、いつの間にか、その周りの人を見ていた。
運ぶにも、売るにも、仕事がある。
「小太郎も、あの数を確かめるのが仕事?」
「家から頼まれてる」
「数が違ったら?」
「届いていない分を、届いたと思ってしまう」
「昨日、太郎兄上に話していたのも、それ?」
「よく聞いてたね」
あやは小太郎を見上げた。
褒められた気がして、少し嬉しかった。
「何をしているか、気になったから」
「私の?」
「荷の話」
答えてから、あやは付け足した。
「小太郎のも」
小太郎は、一度あやを見た。
何か言うかと思ったが、先に光成が口を開いた。
「話の途中で悪いが、昼だぞ」
あやは空を見た。
朝、家を出たときより、日がずいぶん高くなっていた。
*
食事の間も、あやは銭を受け取る人の手元を見ていた。
「あや」
光成に呼ばれ、顔を戻す。
「今は食べろ」
「食べてるよ」
「手が止まってる」
あやは急いで口へ運んだ。
小太郎が隣で笑う。
「銭より、あやを見ていた方が忙しいね」
「見なくていいよ」
「では、食べ終わるまで待とうか」
「そういうことではないの」
小太郎は楽しそうだった。
あやは少しむっとしてから、ふと思い出した。
「小太郎の用、もう済んだ?」
「済んだよ」
「では、帰らなくていいの?」
「宗直殿の返事を受け取る」
「もう、できているかもしれない」
「そうかもしれないね」
あやは小太郎を見た。
いつもなら、用が終わるとすぐ帰る。今日も、荷を確かめるのは早かった。
「まだ、ここにいていいの?」
小太郎は少し黙った。
「午後にも見たいところがあるんでしょう」
「ある」
「では、帰りはそのあとでいい」
光成が、食べながら下を向いた。
肩が少し動いていた。
「次郎兄上」
「俺は、まだ何も言ってない」
*
帰り道、あやは銭を紐に通して持つ人を見た。
歩くたびに、腰の辺りで銭が揺れている。
「あれ、重そう」
「まとまれば重いよ」
小太郎が答えた。
「物を買うためなのに、銭も運ぶんだね」
「家の用で持って歩くこともある」
「小太郎が?」
「うん」
あやは、小太郎の手を見た。
今日は文と、荷について書き留めたものを持っている。昨日は別の文だった。
「いろいろ運ぶんだ」
「私も?」
「銭だけ見ていたから、気づかなかった」
小太郎はあやを見た。
「今日は、そちらも追うの?」
「誰が何を運んでいるか、知りたい」
「では、次は荷が届くときに見てみる?」
あやの顔が上がった。
「見られるの?」
「家の者に聞いてみる。皆の邪魔にならないところなら」
「いつ?」
「確かめてから伝えるよ」
あやはうなずいた。
それから、少し考えた。
「小太郎もいる?」
「いる日にする」
返事は早かった。
あやは道へ目を戻した。
荷を見るのが楽しみだった。
小太郎もいると聞いて、もっと楽しみになった。
*
夕方、あやは行嗣の前へ紙を置いた。
「三郎兄上」
「今日は何です?」
「銭の道」
行嗣が顔を上げた。
あやは、塩、油、米と書いてもらい、その間に線を引いた。
「米を売る人も、塩を買うって」
「では、こちらへつながりますね」
行嗣が米から塩へ線を引く。
あやはその横に、もう一本、線を引いた。
「でも、油を売る人は薪も買う。壺も買う」
「行き先は一つではないんですね」
「そう。紙が足りなくなりそう」
行嗣は笑った。
「全部、今日、実際に買っていたんですか」
「買うことがあるって聞いたの」
「では、それも書いておきましょう」
あやはうなずいた。
一枚の銭を本当に追ったように書いたら、今日見たことと違ってしまう。
見たこと。聞いたこと。自分でつないで考えたこと。
並べてみると、その違いも分かった。
*
夕食では、宗直が紙を眺めていた。
「塩を買って、ずいぶん遠くまで行ったな」
「塩はちゃんと買ったよ」
「知っている。母上が使っていた」
ちよがうなずいた。
あやは安心して、今日のことを話した。
「銭を受け取った人が、また使うでしょう。そのたびに、別の物を買うの」
「途中で、しまっておく人もいるだろう」
宗直が言った。
あやの箸が止まった。
「……そうか」
「皆がその日に使うとは限らん」
行嗣もうなずく。
「次の仕入れまで取っておくこともあるでしょうね」
あやは紙へ目を向けた。
動くところばかり見ていた。止まるところもあるらしい。
「また増えた」
「何が?」
ちよに尋ねられ、あやは答えた。
「聞きたいこと」
光成が笑った。
「小太郎が次も付き合うそうだ」
あやは兄を見た。
「荷を見せてもらうの」
「それで、あいつがいる日にするんだろう」
「そう言ってた」
ふみがあやへ顔を向けた。
「楽しみね」
「うん」
返事をしてから、あやは紙を手元へ寄せた。
ふみは笑っていた。
母も、なぜかこちらを見ている。
「母上、何?」
「まだ、食事の途中ですよ」
あやは箸を持ち直した。
今夜は、紙へ書き足す前に食べ終えた。
*
夜、あやは今日の紙をもう一度開いた。
塩から油へ、油から米へ。
ほかのところへ伸びた線もある。
誰かが買い物をすれば、相手に銭が渡る。その人がまた使えば、別の品物が売れる。
鎌倉には、いろいろなところから物が届く。
届いた物を運ぶ人がいて、売る人がいて、買う人がいる。
実朝が海の向こうへ船を出したいという話も、あやには少し違って感じられた。
船が着いたあとにも、仕事は続くのだ。
誰が荷を受け取るのか。どこへ運ぶのか。誰に売るのか。
次に小太郎と会ったら、それを聞いてみたい。
あやは紙を畳みかけて、手を止めた。
今日、小太郎の用はすぐに済んだ。
そのあとも、ずっと一緒にいた。
宗直の返事を待つだけなら、家で待てたはずだ。
あやはしばらく考えた。
昼、小太郎に尋ねたとき、光成は笑っていた。
夕食では、ふみも笑った。
自分だけ、何か見落としている気がした。
紙の端へ、もう一つ書こうかと思った。
けれど、それは塩や油と線でつなぐ話ではなかった。
あやは筆を置いた。
次に会ったら聞こう。
今日はどうして、帰らずに付き合ってくれたのか。
そう考えてから、あやは一人で首を振った。
荷を見に行く約束までしてくれたのに、わざわざ尋ねるのも変だろうか。
変なことなら、今日もたくさん聞いた。
それでも、その問いだけは、口に出すところを思い浮かべると、少し落ち着かなかった。
紙を畳む。
塩も、油も、米も、聞けばよかった。
小太郎のことになると、聞く前に考えることが増えた。
明日、何時に来るだろう。
そう思ったところで、あやは自分の間違いに気づいた。
次に来るのは明日とは、まだ聞いていなかった。
あやは畳んだ紙を枕元へ置いた。
荷の届く日を確かめたら、早く知らせてほしかった。
【本作の人物について】
■ 北条小太郎
義時と結びつきの深い北条傍流の家に生まれた、本作独自の架空の人物。あやより少し年下で、直成の存命中に両家の間で縁談が整えられた。本話の時点では未婚。「小太郎」は幼いころからの呼び名である。
港や船で運ばれる荷、商人との取引に関わる家に育つ。理解と判断が早く、家の用を手際よくこなす。あやとは軽いからかいや言い合いもする。
身近な物に驚き、問いを広げていくあやを見ていると、普段の用事も面白く感じる。あやの話を覚え、自分から次に会う機会を作るようになっている。




