第52話 あやは、一枚の銭と小太郎の笑顔を追う
――建保四年(1216年)、鎌倉。
朝、あやは銭を一枚見ていた。
丸い銭だった。真ん中に四角い穴が開いている。表と裏を返しても、鎌倉で作られたものにはならない。
「母上」
「何?」
「これ、宋のお金なんでしょう?」
ちよは朝の支度をしながら振り返った。
「そういう銭も多いですね」
「なんで鎌倉で使えるの?」
「皆が受け取るからでしょう」
「どうして受け取るの?」
ちよの手が止まった。
「三郎に聞いてみてください」
「母上、分からないの?」
「ええ」
返事がはっきりしていたので、あやはそれ以上聞けなかった。
*
行嗣は文書を読んでいた。
あやは、その前へ銭を置いた。
「三郎兄上」
「何です?」
「どうして宋の銭が、鎌倉で使えるの?」
行嗣は銭を手に取り、少し考えた。
「受け取った人が、次の買い物でも使えるからでしょうか」
「では、次の人はどうして受け取るの?」
「その人も、また使えると思うからでしょう」
「ずっと?」
行嗣は黙った。
あやは兄の顔をのぞいた。
「三郎兄上も、分からない?」
「少し、考えさせてください」
「どれくらい?」
「今、読みかけているものが終わるまで」
あやは文書を見た。
長かった。
「では、先に見てくる」
「何を?」
「銭を使うところ」
行嗣は、妹へ銭を返した。
「一人では行かないでくださいね」
*
昼前、小太郎が二階堂家へ来た。
義時と結びつきの深い北条一門の家の息子で、あやより少し年下だった。幼いころに両家の間で縁談が整えられてから、家の用事や訪問で何度も顔を合わせている。
近ごろは父に代わって用向きを伝えに来ることも増えた。
小太郎は宗直へ文を渡し、返事が必要なことを順に伝えた。宗直が途中で尋ねても、すぐに答える。聞いていないことには、確かめてから伝えると言った。
あやは廊下で待っていた。
小太郎は、何でも早い。
用事を聞くのも、覚えるのも、済ませるのも。
ただ、面白かったのか、つまらなかったのかは、顔を見ても分かりにくい。
宗直との話が終わると、あやは戸口から顔を出した。
「小太郎」
「何?」
「まだ用がある?」
「父上へ返事をする」
「その前は?」
「帰る」
「その前」
小太郎があやを見た。
「ここから出る」
「そういうことではないの」
宗直が笑った。
小太郎は、あやの手にある銭へ目を落とした。
「何か買いに行くの?」
「使うところを見たい」
「銭を?」
「うん。宋の銭なのに、鎌倉でも使えるでしょう。どうしてか、見てくる」
小太郎は、銭を一度見ただけだった。
「使えるなら、困らないだろう」
「困ってはいないよ」
「では、何を知りたいの?」
「だから、どうして使えるのか」
二人はしばらく顔を見合わせた。
小太郎は小さく息を吐いた。
「また、難しいことを考えてる」
「またって何」
「前は、器を誰が作ったのか聞いてた」
「まだ、分からないよ」
「覚えてるの?」
「小太郎だって、覚えてるでしょう」
小太郎は口を閉じた。
宗直が、もう一度笑った。
*
光成は、その日も外へ用があった。
あやがついていくと言い、小太郎も一緒に出ることになった。
「お前はいいのか」
光成が小太郎へ尋ねた。
「夕方までに戻れば」
「長くなるぞ」
「次郎兄上」
あやが口を挟んだ。
「まだ何も聞いていないでしょう」
「家で、もう聞いていた」
小太郎が横を向いた。
あやは、その顔を見ようとした。
「今、笑った?」
「笑ってない」
「笑ったでしょう」
「前を見て歩いた方がいい」
光成がうなずいた。
「それは、その通りだ」
あやは前を向いた。
少しして、また小太郎を見た。
今度は、向こうが先に気づいた。
「まだ見てる」
「確かめただけ」
「何を」
「笑ってないか」
小太郎の口元が、少しだけ動いた。
*
魚を売る人がいた。
買いに来た人が銭を渡し、魚を受け取った。
その隣では布が売られている。こちらでも、銭と品物が取り替えられていた。
あやは立ち止まった。
「魚と布って、全然違う物でしょう」
「うん」
小太郎が答えた。
「でも、どちらも銭で買える」
「そうだね」
「魚を持って、布を買いに行かなくていいんだ」
小太郎が、あやへ顔を向けた。
「どういうこと?」
「魚と布を取り替えるなら、魚が欲しい人を探すでしょう。その人が布を持っていなかったら、取り替えられない。でも、魚を売って銭にすれば、その銭で布を買える」
あやは二人の売り手を交互に見た。
「布を売る人が、魚を欲しくなくてもいい」
小太郎も、同じ方を見た。
「……そうか」
あやは振り向いた。
「今のは、分かった?」
「分かった」
「面白いでしょう」
小太郎は、すぐには答えなかった。
魚を買った人が、残った銭を懐へ入れて歩いていく。
「あの人、次は何を買うんだろう」
小太郎が言った。
あやの顔が明るくなった。
「見てみる?」
「ついていくのは駄目だろう」
「聞く?」
「知らない人を、呼び止めるの?」
あやは少し考えた。
「では、私たちが買うときに見る」
「その方がいい」
光成が後ろから言った。
「まず、俺の用を済ませてくれ」
二人は振り返った。
光成は、少し先まで進んでから戻ってきていた。
*
光成の用を済ませると、あやは器を売るところで足を止めた。
青みのある器が並んでいた。
「小太郎の家にあったものに、似てる」
「家のは、もっと小さい」
「白いのもあったね」
「そちらは、まだあるよ」
あやは小太郎を見た。
「緑のは?」
「欠けた」
「落としたの?」
「兄弟が」
小太郎の返事が少し遅れた。
あやは目を細めた。
「小太郎でしょう」
「どうして」
「急に、声が小さくなった」
光成が笑った。
小太郎は、並んだ器へ顔を向けた。
「昔の話だよ」
「では、やっぱり」
「器を見るんじゃなかったの?」
「見るよ」
あやは笑いながら、売り手へ尋ねた。
「これ、宋から来たもの?」
「そう聞いているよ」
「いくら?」
値を聞いて、あやは手元の銭を見た。
「これでは、買えないね」
「一枚ではな」
男は笑った。
あやは器へ目を戻した。
「海を渡ってくるから、高いの?」
「船に乗せる者も、ここまで運ぶ者もいるからね」
「その人たちも銭をもらう?」
「仕事だからな」
あやは器の縁を目で追った。
作る人。船へ積む人。海を渡る人。降ろす人。また運ぶ人。
自分が見ているのは、ここへ届いた最後のところだけだった。
「途中で割れたら?」
「売り物にならないものも出る」
「それでも、運んだ人へ払うの?」
男は、取引の約束によると答えた。
あやが次の問いを口にしかけると、横から別の客が器を指した。
小太郎が、そっとあやの袖へ触れた。
「こちらへ寄ろう」
二人で場所を空けた。男は客へ向き直り、器を取り上げた。
あやは小太郎を見た。
「聞きすぎた?」
「まだ聞きたいことがありそうだけど」
「ある」
「では、あの人の買い物が終わってから」
「待っていてくれる?」
「うん」
返事が早かった。
あやは少し黙った。
兄たちなら、まだあるのか、と言うところだった。
小太郎は売り手の手元を見ている。あやを急かす様子はなかった。
「退屈ではない?」
あやが尋ねた。
小太郎は顔を戻した。
「さっきまでは、器の値段だけ聞けば済むと思ってた」
「今は?」
「割れた分を、誰が困るのかは考えたことがなかった」
あやは、小太郎の隣へ並び直した。
「では、二人で聞こう」
「先に、何を聞くか決めて」
「多いから?」
「途中で忘れそうだから」
「小太郎でも?」
「全部は、覚えられないよ」
あやは笑った。
小太郎も、今度は隠さず笑った。
*
帰り道、小太郎が先に尋ねた。
「結局、その銭は使わないの?」
あやは手を開いた。
「今日は、使うところを見ただけ」
「ずっと持ってる」
「明日でも使えるでしょう」
「多分ね」
「魚は、明日まで持っていたら悪くなるかもしれない。でも、魚を売って銭にすれば、明日、違う物を買える」
小太郎は歩きながら聞いていた。
「後で使う分を、取っておけるんだね」
あやが言った。
「そうだね。でも、値段が変わったら、同じだけは買えないかも」
「あ」
あやは銭を見つめた。
小太郎が歩く速さを落とした。
「どうしたの?」
「銭は同じなのに、買える物は変わるんだ」
「米の値だって、いつも同じではないよ」
「また分からないことが増えた」
小太郎が笑った。
あやは、その顔を見た。
「何?」
「困った顔をしていないから」
「分からないのは、困るよ」
「でも、嬉しそう」
あやは頬に手を当てた。
「そんな顔をしてる?」
「してる」
少し先を歩いていた光成が振り返った。
「昔からだ」
「次郎兄上には聞いてない」
光成は笑って前を向いた。
あやは、もう一度小太郎を見た。
「変?」
「何が?」
「分からないことが増えて、嬉しいの」
小太郎は少し考えた。
「私は、用が増えたと思う」
「そうでしょうね」
「でも、あやはすぐ、次を見に行くでしょう」
「見たいから」
「それを見てると、私も確かめたくなる」
あやは返事をしなかった。
銭を握り直した。
器のことでも、魚のことでもなかった。小太郎が、自分のことを話していた。
何か返した方がよい気がしたのに、こういうときに限って、言葉が出てこない。
「……また、一緒に行く?」
「うん」
小太郎は答えたあと、少し付け足した。
「用を済ませてからね」
あやは笑った。
「そこは、忘れないんだ」
「忘れたら、次に出られなくなる」
*
二階堂家の門の前で、小太郎は父への返事を思い出した。
「今日は、ここまで」
あやはうなずいた。
「次に来たら、今日の続きを話していい?」
「いいよ」
「また長くなるかもしれない」
「今日も、短くはなかった」
「嫌だった?」
小太郎は、あやを見た。
「嫌なら、器のところで帰ってる」
あやは目を丸くした。
「帰るつもりだったの?」
「そういう話じゃない」
小太郎は少し困った顔をした。
あやが笑うと、小太郎も笑った。
「では、また」
「うん。また」
小太郎が歩き出すと、あやは門の内側から見送った。
数歩先で、小太郎が振り返った。
「次は、私の用にも付き合ってよ」
「何の用?」
「まだ、決まってない」
「では、決まったら教えて」
小太郎はうなずいた。
あやも、もう一度うなずいた。
*
夕食のとき、宗直が尋ねた。
「今日、何か買ったのか」
「買ってない」
「では、何をしてきた」
「見た。聞いた。考えた」
光成が添えた。
「小太郎まで、最後は売り手に尋ねていたぞ」
宗直が顔を上げた。
「あの小太郎が?」
「器が割れたら、誰の損になるのかと」
行嗣があやを見た。
「銭の話から、そこまで行ったんですか」
「値段を聞いたら、運ぶ人の話になったの」
ふみが笑った。
「小太郎殿も、帰るころには問いが増えたのね」
「うん」
「また、一緒に見に行く」
ちよが、あやの顔を見た。
「楽しかった?」
「楽しかった」
「銭のことが?」
あやは答えかけて、止まった。
小太郎が笑ったところを思い出した。
兄たちの前では、用向きを伝えてすぐ帰る。その小太郎が、今日は器の前で待ってくれた。あやの話を聞くだけではなく、自分から尋ねた。
「……いろいろ」
ちよは、それ以上聞かなかった。
ふみが宗直へ何か言いかけたので、あやは先に行嗣へ向き直った。
「三郎兄上、朝の続きは?」
「銭の話ですね」
「受け取った人が、次にも使えると思うから受け取るのでしょう」
「そう考えました」
「では、次の人も?」
「ええ」
あやは、膳のそばに置いた銭を見た。
宋から来た銭を、鎌倉の人が受け取る。その人が、また誰かへ渡す。
「銭って、約束みたい」
宗直が尋ねた。
「約束?」
「次にも、これで何か買えると思って受け取るから」
行嗣は少し考えた。
「そういう見方もできますね」
あやは銭を手元へ寄せた。
次に小太郎へ話すことが、一つ増えた。
*
夜、あやは銭を小さな布で包んだ。
幼いころは、器を包むだけでも手伝ってもらった。今は、自分で結べる。
けれど、分からないことは減らなかった。
銭は、違う物の値段を比べられる。物と物を直接取り替えなくても、買い物ができる。今日使わず、後で使うこともできる。
その小さな物が、海を渡って来ている。
実朝が作ろうとしている大きな船より先に、宋の品物も銭も、鎌倉へ届いていた。
明日は、その続きを考えたい。
あやは布の結び目を確かめた。
小太郎は、初めは銭を見ても、使えるなら困らないと言った。
帰るころには、自分から尋ねていた。
それが、銭のことが少し分かったのと同じくらい嬉しかった。
次に会ったら、何から話そう。
小太郎の用にも付き合う約束をしたから、まず、その話を聞こう。
どんなものを見て、どんなことを面白いと思うのか。
今まで、あやばかり話していた気がした。
布団へ入ってから、あやはもう一つ思い出した。
緑の器を落としたのは、きっと小太郎だ。
それも、いつか聞いてみよう。
急いで答えてもらわなくてもよかった。
また会って、話せるのだから。
【本作の人物について】
■ 北条小太郎
義時と結びつきの深い北条傍流の家に生まれた、本作独自の架空の人物。あやより少し年下で、直成の存命中にあやとの縁談が整えられた。本話の時点では未婚。「小太郎」は幼いころからの呼び名である。
物覚えがよく、家の用事を手際よくこなす。普段は冷静で、周囲が騒いでも一歩引いて見ている。ただし、あやとは言い合いもするし、失敗を見抜かれると隠そうとする。
港や船、商人との取引に関わる家に育つ。使えて当然だと思っていた物にも疑問を持つあやを面白く感じ、その好奇心に付き合ううち、自分も尋ねることが増えていく。




