第51話 源実朝は、海の向こうへ行きたいと言う
建保四年(1216年)、鎌倉。
源実朝が、
「宋へ行きたい」
と言った。
最初に聞いた宗直は、
自分が聞き間違えたのだと思った。
「……宋、ですか」
「そうだ」
実朝は普通の顔をしている。
隣に座る大江広元は、
普通の顔をしていなかった。
目を閉じている。
少し頭が痛そうにも見える。
宗直は、もう一度聞いた。
「海の向こうの、宋でございますか」
実朝が宗直を見る。
「鎌倉に、ほかの宋があるのか」
「ありません」
「なら、その宋だ」
「そうですか」
宗直は黙った。
どうやら、
聞き間違いではないらしい。
御所の一室には、
宗直のほかに光成と行嗣も呼ばれていた。
三人とも、
何の話なのか聞かされていなかった。
大江広元から、
「鎌倉殿がお呼びだ」
と言われただけである。
宗直は、てっきり土地か文書の話だと思っていた。
父・直成がいたころから、
二階堂家はそういう仕事と縁が深い。
ところが、
出てきた言葉は宋だった。
宋は、
海の向こうにある大国である。
日本には宋から、
書物、陶磁器、薬、銭など、
さまざまなものが運ばれてきている。
京だけではない。
鎌倉にも、
海を越えてきた品は入っていた。
しかし、
物が来ることと、
自分が向こうへ行くことは別である。
宗直は、いちばん気になったことを先に聞いた。
「鎌倉殿」
「何だ」
「なぜ、宋へ行きたいのですか」
実朝は、少し黙った。
それから、
広元を見る。
「陳和卿が、妙なことを申した」
宗直が聞く。
「陳和卿殿が?」
「私は前の世で、宋の医王山にいたのだそうだ」
光成が、少し目を丸くした。
行嗣も黙る。
宗直は、どう答えればよいか迷った。
「……信じておられるのですか」
実朝は、すぐには答えなかった。
「分からぬ」
「分からない?」
「夢で似たものを見たこともある」
「では」
宗直が聞いた。
「それを確かめに?」
実朝は、また少し考えた。
「それもある」
「それも?」
「それだけなら」
実朝は言った。
「人を遣ればよい」
宗直は顔を上げた。
実朝は、窓の外へ目を向ける。
「私は、自分で見たい」
「何をです?」
「向こうをだ」
宋から来た器。
書。
薬。
銭。
仏の教え。
人。
鎌倉には、
海の向こうから来たものが、
すでにたくさんあった。
実朝は言った。
「こちらへ来たものばかり見ていると、その先が気になる」
行嗣が聞いた。
「どんなところか、ですか」
「そうだ」
「町も?」
「町も」
「寺も?」
「寺も」
「人も?」
「人も」
実朝は少し笑った。
「本を読め、と皆は言う」
行嗣が言った。
「本も大切です」
「分かっておる。だが、本を読めば読むほど、見たくなることもある」
行嗣は、
今度は何も言わなかった。
少し分かるところがあった。
宗直は、そこで終わらなかった。
「それなら」
実朝を見る。
「鎌倉殿がご自身で行かなくてもよいのではありませんか」
広元が、わずかに宗直を見る。
実朝は笑った。
「それも、何度も言われた」
広元が答える。
「これからも申し上げます」
「そうだろうな」
実朝は、嫌そうではなかった。
止められることも、
最初から分かっていたらしい。
宗直がもう一度聞く。
「では、なぜご自身で」
実朝は、少し長く黙った。
そして、
今度はさっきまでとは違う顔をした。
夢を見る若者ではなく、
鎌倉殿の顔だった。
「宗直」
「はい」
「宋から品は来るな。銭も、器も、薬も、書も来る。だが、鎌倉は、来たものを受け取っているだけだ」
実朝は言った。
宗直が、わずかに眉を動かした。
「どういう意味です?」
「宋へ行く船はある。宋から来る船もある。だが、それを鎌倉が出しているわけではない」
宗直は、ようやく実朝が何を考えているのか見え始めた。
「鎌倉から」
ゆっくり言う。
「船を出したいのですか」
「できぬのかと思っている」
部屋が、
少し静かになった。
広元は、実朝を止めなかった。
もう知っている話らしい。
光成が聞いた。
「宋まで?」
「宋までだ」
宗直は、もう一つ聞いた。
「鎌倉を、港にするということですか」
実朝は首を振った。
「港だけではない」
「では?」
「宋から来た者が鎌倉へ来る」
実朝は言った。
「鎌倉の者が、海の向こうへ行く。品も、銭も、書も来る」
少し間を置く。
「人が来れば、考え方も来る」
行嗣が顔を上げた。
実朝は続ける。
「今は、鎌倉に来るものを待っている」
実朝は、海のある方を見るようにした。
「だが、鎌倉から、海へ出てもよいだろう」
宗直は、しばらく何も言えなかった。
これは、
単に宋を見たいという話ではない。
もっと大きい。
実朝は、
父・頼朝が作った鎌倉を、
海の向こうへつなごうとしている。
そんな話だった。
「父上は」
実朝が言った。
「ここに武士の集まる場所を作った」
宗直はうなずく。
「はい」
「東国の武士が、ここへ来る。訴えも来る。人が来れば、物も集まる」
宗直は、少し考えてからうなずいた。
「そうですね」
「ならば」
実朝は言った。
「海からも、人や物が集まる場所にできぬのか」
広元が、そこで初めて口を挟んだ。
「簡単ではありません」
「分かっておる」
「船を造れば済む話でもありません」
「それも分かっておる」
「港も要ります」
「考える」
「船を扱う者も」
「集める」
「宋までの航路を知る者も」
「聞く」
広元は、少しだけため息をついた。
「だから、一つずつなのです」
実朝が笑った。
「直成のようなことを申すな」
「長く一緒に仕事をしておりましたので」
宗直たちは、
思わず少し笑った。
実朝は、宗直たちを見る。
「お前たちの父も、分からぬことを、すぐ分かったことにしなかった」
宗直は黙った。
「それで何度も仕事が遅くなった」
広元が言った。
「その代わり、後で揉めることが減りました」
「分かっておる」
実朝は言った。
「だから、お前たちも呼んだ」
宗直が聞く。
「私たちを?」
「そうだ」
「なぜです?」
「夢の話だけなら」
実朝は言った。
「私一人でできる。だが、船を造るとなれば、一人ではできぬ」
光成が聞いた。
「船は、誰が造るんです」
「陳和卿という者がいる」
広元が補った。
「宋から来た工人だ。寺の造営にも関わった男で、大きな船を造れると申している」
行嗣が聞く。
「宋の船も知っているのですか」
「知っている、と申している」
広元の言い方には、
少し慎重さがあった。
行嗣が気づく。
「まだ、確かめているところですか」
広元が行嗣を見る。
「お前は、そういうところが父親に似てきたな」
行嗣は少し困った。
「父上なら、もっと細かく聞いたと思います」
宗直が言った。
「やめろ。父上ならどうした、はこの前やめたばかりだ」
「そうでした」
実朝が笑う。
「直成なら、たしかに面倒であったな」
広元が言った。
「鎌倉殿もそう思われますか」
「何を聞いても、すぐには決めぬ。分からぬ、確かめる、もう一度聞く」
実朝は指を折った。
「子どものころは、なぜすぐ答えぬのかと思っていた」
宗直たちは黙った。
実朝は、少しだけ懐かしそうな顔をした。
だが、
そこで話を止めなかった。
「それで、光成」
「はい」
「大きな船なら、宋まで行けると思うか」
光成は少し考えた。
「大きいだけでは分かりません」
実朝が止まった。
「何が要る」
「まず、何人乗るかです」
「まだ決めておらぬ」
「では、先にそこを決めないと」
実朝が広元を見る。
広元は何も言わない。
光成は続ける。
「人が増えれば、食べ物も水も増えます」
行嗣が言った。
「誰が乗るのかも記録しておいた方がいいですね」
「まだ何も決まっておらぬぞ」
実朝が言う。
行嗣は平然としていた。
「だから、決まったものから残します」
実朝は、少し考えた。
「お前たちは」
三人を見る。
「ずいぶん細かいな」
光成が答える。
「船にするなら、細かくなります」
「まだ船になっておらぬ」
「なるんでしょう?」
実朝は黙った。
「……なる」
光成はうなずいた。
「なら必要です」
宗直が、ふと聞いた。
「鎌倉殿」
「何だ」
「宋へ行かれたあと」
「うむ」
「帰ってくるのですか」
実朝は、すぐに答えた。
「帰る」
「必ず?」
「そのつもりだ」
実朝は言った。
「宋に住みに行くわけではない。見て、話して、持ち帰る」
「何をです?」
実朝は少し笑った。
「それを見に行くのだ」
宗直も、少し笑った。
だが、
実朝は続けた。
「ただ、船が一度行って終わりでは、意味がない」
宗直の表情が変わった。
「一度だけではない?」
「そうだ」
「その後も?」
「できるなら」
実朝は言った。
「鎌倉と海の向こうを、行き来できるようにしたい」
広元が、静かに目を閉じた。
宗直は、ようやく分かった。
実朝が欲しいのは、
一艘の船ではない。
道だった。
海の上に、
鎌倉から宋へ続く道を作りたい。
そういうことなのだ。
光成が聞いた。
「船を造る場所は、海の近くですよね」
「そうなるだろう」
「できたあと、どうやって海へ出します?」
実朝が止まった。
広元も、ゆっくり光成を見る。
宗直も見る。
行嗣も見る。
光成だけが、
なぜ皆がこちらを見るのか分からない顔だった。
「船は」
光成が続ける。
「造った場所から海まで動かさないといけませんよね」
実朝が、ゆっくり答えた。
「……そうだな」
「大きければ大きいほど、大変です」
広元が小さく息を吐いた。
「それは、後で現場を見よう」
光成はうなずいた。
「はい」
実朝が言った。
「まだ造ると決めたばかりなのに、もう船が海へ出ぬ話をするな」
「出ないとは言っていません」
「言いそうな顔をしておる」
「まだ見ていませんから、分かりません」
実朝が広元を見る。
「やはり直成の子だ」
「そういうことにしておきましょう」
そのときだった。
廊下の向こうが、
少し騒がしくなった。
「どうした」
広元が聞く。
外から声がした。
「二階堂殿の妹君が――」
宗直が顔を上げた。
「妹?」
嫌な予感がした。
「何をしている」
「兄上!」
声の方が先に来た。
あやだった。
宗直が額に手を当てた。
「なぜお前がここにいる」
「大江殿のところへ届け物です」
あやは、手に包みを持っていた。
「それで、兄上たちがいると聞いたので」
「だからといって入ってくるな」
「まだ入ってません」
「あや」
「はい」
「顔が入っている」
戸口から、
顔だけ出していた。
実朝が笑った。
「入れ」
宗直が止める前に、
決まった。
「あや」
「鎌倉殿がおっしゃいました」
「そういうときだけ聞き分けがいいな」
あやは入ってきて、
きちんと頭を下げた。
「失礼いたします」
「何を持ってきた」
広元が聞く。
「母からです」
包みを広元へ渡す。
用事は、
それで終わりだった。
だが、
あやは帰らない。
宗直には分かった。
何か聞きたい顔である。
実朝も気づいたらしい。
「何だ」
「いえ」
「言ってみよ」
あやは宗直を見る。
宗直は首を横に振った。
あやは実朝を見る。
「海の向こうへ行かれるんですか」
宗直は目を閉じた。
実朝は、なぜか嬉しそうだった。
「そのつもりだ」
「宋へ?」
「そうだ」
あやは少し考えた。
「何日かかるんです?」
実朝が止まった。
「まだ分からぬ」
「何人で行くんです?」
「まだ決めておらぬ」
「食べ物は?」
「これからだ」
「水は?」
実朝が広元を見る。
広元が、ほんの少し笑っている。
「あや」
宗直が止めようとした。
しかし、
実朝が手を上げた。
「よい」
あやは続ける。
「宋から、何を持って帰るんです?」
今度は、
実朝が少し笑った。
「それも見て決めたい」
「じゃあ」
あやは言った。
「帰りに積む場所も空けておかないといけませんね」
部屋が、
一瞬静かになった。
宗直が妹を見る。
光成も見る。
行嗣も見る。
実朝は、少し嬉しそうに笑った。
「そうだな」
あやは、なぜ皆が自分を見るのか分からなかった。
「何?」
宗直が言う。
「いや」
「変なこと言った?」
「言ってない」
「じゃあいいでしょう」
実朝があやを見る。
「宋から物が鎌倉へ来るようになったら、どう思う」
あやは考えた。
「今も来てるでしょう?」
実朝が少し驚く。
「そうだな」
「銭だって宋のものがあるし」
行嗣が、
妹を見る。
実朝は少し笑った。
「よく知っているな」
「使ってるから」
あやにとっては、
それだけだった。
実朝が聞く。
「もっと人や物が来るようになったら?」
「じゃあ」
あやは言った。
「置く場所が要りますね」
「置く場所?」
「船から降ろした物、どこに置くんです?」
広元が、ゆっくり顔を伏せた。
笑っているようにも見えた。
実朝は、少しだけ目を細めた。
「面白いな」
「何が?」
「船を造る前から、その先を考えておる」
「だって、持ってくるんでしょう?」
「そうだ」
「じゃあ要るよ」
実朝は、しばらくあやを見ていた。
「そうだな」
その声は、
先ほどより少し真剣だった。
宋へ行く。
宋から帰る。
人が来る。
物が来る。
銭が来る。
それを受け取る場所がいる。
実朝の頭の中にあったものが、
少しずつ、
形を持ち始めていた。
---
家へ戻ると、
ちよが待っていた。
「どうでした?」
宗直は答えた。
「思っていたより、大きな話でした」
「何が?」
そのあやが、
後ろから入ってくる。
「母上、鎌倉殿が宋へ行くんです」
「まだ行かない」
宗直が訂正した。
ちよは、しばらく四人を見た。
「なぜ行くんです?」
宗直は、少し考えてから答えた。
「見たいから」
「何を?」
「宋を」
それから、
もう一つ付け加える。
「それと」
「何?」
「鎌倉を、海の向こうと直接つなぎたいそうです」
ちよは、少し黙った。
「直接?」
「鎌倉から船を出す」
宗直は言った。
「宋から人や物が来る」
「はい」
「鎌倉からも、人が行く」
ちよは、もう一度黙った。
「ずいぶん大きなことを考える人ですね」
光成が言う。
「だから大きい船が要るらしい」
行嗣が言った。
「まだ決まっていないことばかりです」
あやは、何も言わずに考えていた。
ちよが気づく。
「あや?」
「母上」
「何?」
「宋のお金って」
突然、
話が変わった。
「何?」
「なんで鎌倉で使えるの?」
宗直が妹を見る。
「急に何だ」
「だって」
あやは言った。
「鎌倉殿が、宋から銭も来るって言ったでしょう」
「言ったな」
「でも、もう来てるよね」
誰も、
すぐには答えなかった。
あやは、自分の手のひらを見た。
そこに銭はなかった。
それでも、
見慣れた丸い銭を思い浮かべることはできた。
海の向こうで作られたものが、
鎌倉で、
普通に物を買うために使われている。
船よりも、
少し小さな疑問が、
あやの中に残った。
## 人物紹介
**源実朝**
源頼朝と北条政子の子で、鎌倉幕府の第三代将軍。和歌にも深く親しんだ。建保四年(1216年)には、宋へ渡るための大船を造る計画を進めたと『吾妻鏡』に記されている。
**大江広元**
頼朝以来、鎌倉の政治を実務面から支えた人物。実朝の時代にも幕府の重要人物として活動している。
**陳和卿**
宋から日本へ来た工人。寺院の造営などに関わり、実朝の命を受けて宋へ渡るための大船の建造にも関わったとされる。




