幕間18 源頼朝は、平清盛が先に歩いた道を見る
建久三年(1192年)、鎌倉。
源頼朝が征夷大将軍になってから、
少し経ったころだった。
肩書は変わった。
だが、
朝からやっていることは、
それほど変わらない。
土地の訴え。
恩賞の確認。
御家人同士の揉め事。
京から届いた知らせ。
寺社との調整。
誰がどの土地を治めるのか。
誰の言い分をどこまで認めるのか。
頼朝は、目の前に積まれた文書を見た。
しばらく見た。
それから、
言った。
「地味だな」
大江広元が、顔を上げた。
直成も、手を止めた。
「何がです?」
直成が聞いた。
「私の仕事だ」
「昨日、征夷大将軍になられた方の言葉とは思えませんね」
「昨日ではない」
「では、少し前です」
「そういう話ではない」
頼朝は、文書を一枚持ち上げた。
「見ろ」
直成が見る。
土地の境についての訴えだった。
「見ています」
「征夷大将軍だぞ」
「はい」
「もう少し」
頼朝は少し考えた。
「こう……あるだろう」
「何がです?」
「大きな仕事が」
広元が言った。
「こちらも十分、大きな仕事でございます」
「分かっておる」
頼朝は答えた。
「分かっておるからやっておる」
そして、
もう一度文書を見る。
「だが、地味だ」
直成は、笑いをこらえた。
頼朝がすぐ気づいた。
「笑ったな」
「笑っておりません」
「顔が笑っておる」
「顔までは管理できません」
「お前は前にも同じことを言ったな」
「便利なので」
広元が、今度は明らかに笑った。
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少しして、
京から来た品についての話になった。
宋から渡ってきたという器だった。
頼朝は、それを見て言った。
「こういうものを見ると、清盛を思い出す」
直成が、頼朝を見る。
平清盛。
平氏の棟梁。
頼朝の父・義朝を破った側の中心人物。
頼朝自身を捕らえ、
伊豆へ流すことになった時代を作った男。
頼朝の父は死んだ。
兄たちも失った。
少年だった頼朝の人生は、
大きく変わった。
その中心に、
清盛がいた。
直成は、少し慎重に聞いた。
「平相国を、ですか」
「ああ」
頼朝は、宋の器を見た。
「大きな男だった」
直成は黙った。
広元も何も言わない。
「意外ですか」
直成が聞いた。
頼朝が見る。
「何がだ」
「鎌倉殿のお口から、そういう言葉が出るのが」
「父を失い、兄たちも失った。私は伊豆へ流された」
「はい」
頼朝は、少し眉を寄せる。
「好きなわけがない」
「でしょうね」
「だが」
頼朝は言った。
「嫌いだからといって、小さな男だったことにはならぬ」
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頼朝は、器に目を戻した。
「清盛は、先に行った」
「どこへです?」
直成が聞く。
「武士が政治を動かすところまでだ」
直成は、黙って聞いた。
頼朝は続ける。
「武士は長い間、戦えと言われれば戦い、土地を守れと言われれば守り、年貢を集めろと言われれば集めた。争いが起これば、現地で動いた」
頼朝は、机の上の文書を指で叩く。
「だが、最後に決めるのは、別のところにいる者だった」
朝廷。
貴族。
寺社。
荘園領主。
地方の土地を直接見たことがなくても、
その土地について最後の権利を持つ者がいる。
その間で、
武士は働いてきた。
戦う。
守る。
集める。
運ぶ。
仲裁する。
そして、
命令を待つ。
「中にいるのに」
直成が言った。
「決める側ではない」
「そうだ」
頼朝は答えた。
「清盛は」
少し間を置く。
「そこから出た」
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清盛は、
朝廷の中へ入った。
官位を上げた。
太政大臣にまでなった。
娘を天皇家へ嫁がせた。
一門を朝廷政治の中心へ押し上げた。
西国へ力を広げた。
海を使った。
宋との交易にも関わった。
「武士でも」
頼朝が言う。
「そこまで行けると見せた」
「先駆けですね」
直成が言った。
頼朝は、その言葉を少し考えた。
「そうだな」
珍しく、
素直に認めた。
「最初にやった。誰も、うまくいくか分からぬことをな」
直成が聞く。
「尊敬している?」
頼朝は、嫌そうな顔をした。
「言い方が気に入らぬ」
「では、違います?」
頼朝は、しばらく黙った。
そして、
ため息をつく。
「……先に歩いた者への敬意はある」
直成は、それ以上からかわなかった。
「清盛は」
頼朝が続ける。
「成功した。大きく成功したからこそ、失敗も、大きく残した」
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直成が、少し姿勢を変えた。
「どこが失敗だったと?」
頼朝は、すぐには答えなかった。
「一つではない。何か一つのせいで平家が滅びた、と言うつもりもない」
頼朝は、考えながら話す。
「だが、清盛は、大きすぎた」
「清盛殿自身が?」
「そうだ」
頼朝は言った。
「清盛がいる間は、まとまる。清盛が決め、人を動かし、朝廷と渡り合い、海を見る」
「はい」
頼朝は、少し黙った。
「では、清盛がいなくなったらどうする」
直成は、答えなかった。
頼朝も、答えを求めてはいなかった。
平清盛は、
治承五年(1181年)に亡くなった。
その四年後、
平氏は壇ノ浦で滅びた。
もちろん、
清盛の死だけで平氏が滅びたわけではない。
いくつもの戦があった。
飢饉もあった。
反平氏勢力もいた。
さまざまな事情が重なった。
それでも頼朝には、
一つ見えていた。
「一人の大きな人間に寄りすぎたものは、その一人がいなくなったときに困る」
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頼朝は、目の前の文書の山を見た。
そして、
急に言った。
「だから地味になる」
直成が、一瞬分からなかった。
「何がです?」
「私の仕事だ」
頼朝は、少し不満そうだった。
「清盛は海を見て、宋と商い、福原へ都を移そうとした。娘を入内させ、太政大臣にまでなった」
「はい」
頼朝は、目の前の紙を一枚持ち上げた。
「私は」
土地の訴えだった。
「この畑の境がどこかを決めておる」
直成は、とうとう笑った。
「大切ですよ」
「知っておる!」
頼朝が言った。
「大切だからやっておる!」
広元が、顔を伏せた。
肩が少し動いている。
「広元」
「はい」
「笑ったな」
「いいえ」
「お前まで直成の真似をするな」
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頼朝は、少しふてくされたように文書を置いた。
「だが、私は、それでよいと思っておる」
さっきまでとは違う声だった。
「清盛と同じことをする必要はない。清盛は、武士が政治を動かせることを見せた」
頼朝は、少し間を置いた。
「なら、次に必要なのは、それを一人の才能だけに頼らず続けることだ」
直成は、頼朝を見る。
「続く形にする? 誰が何をするかを決め、誰が土地を治めるかを残す。訴えを聞き、記録を残して、誰の命令を聞くのか、分かるようにする」
「そうだ」
「そうだ」
頼朝は、また文書の山を見る。
「地味だろう」
「ええ」
直成は答えた。
頼朝が睨んだ。
「そこで同意するな」
「先ほど鎌倉殿ご自身が」
「私が言うのはよい」
「難しいですね」
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少しして、
直成が尋ねた。
「鎌倉殿は」
「何だ」
「ご自分が、清盛殿の次にいると思っておられるのですか」
頼朝は、すぐには答えなかった。
冗談にするかと思ったが、
しなかった。
「次かどうかは知らぬ。だが、清盛より前には戻れぬ」
頼朝は言った。
直成が、少し眉を上げた。
「戻れない?」
「一度、武士が政治を動かせると分かってしまった。そのあとに生きる者は、それを知らなかった時代には戻れぬ」
頼朝は言う。
直成は、静かに聞いた。
「平家を滅ぼして、朝廷から褒美をもらって、また昔のように、武士が使われるだけの立場へ戻る」
頼朝は、首を振った。
「それでは、何のためにここまで来たのか分からぬ」
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直成は、少し考えた。
「では」
「うむ」
「今は、そういう時代なのですか」
頼朝が見る。
「どういう時代だ」
「誰かが」
直成は言った。
「武士が続けて政治を担える形を作らなければならない時代」
頼朝は、しばらく黙った。
そして、
小さくうなずいた。
「そう思っておる」
そこには、
自慢するような響きはなかった。
「私でなければならぬ、とまでは言わぬ」
「はい」
「だが」
少し笑う。
「私がやることになった」
直成も、少し笑った。
「ずいぶん大きな仕事ですね」
「だから」
頼朝は、また文書を持ち上げた。
「もう少し見栄えがよくてもよいと思わぬか」
「まだ言いますか」
「言う」
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広元が聞いた。
「鎌倉殿は、ご自分の代で完成させるおつもりですか」
頼朝は、今度はすぐに首を振った。
「無理だ」
直成が、少し驚く。
「ずいぶんあっさり」
「当たり前だ」
頼朝は言った。
「清盛が何年かけたと思っておる。朝廷も、何百年も続いておる」
頼朝は、鎌倉の外を見る。
「私一人の生きている間に、武士の世の形が全部決まると思うほど、私は馬鹿ではない」
直成は、その言葉を聞いた。
「では」
「うむ」
「次へ渡す?」
頼朝は、少し考えた。
「渡せるところまで作る」
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広元が言う。
「頼家殿へ?」
頼朝の表情が、
少し変わった。
父親の顔が、
一瞬だけ出た。
「もちろん」
答えは早かった。
「頼家には、できるだけ多く残してやりたい」
直成は、その速さに少し笑った。
頼朝が気づく。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「急に父上の顔になったので」
「うるさい」
「はい」
頼朝は、少し咳払いをした。
「頼家だけではない。実朝にもだ。二人が困らぬようにはしてやりたい」
直成は、今度は何も言わなかった。
頼朝も、自分で言ってから少し気まずそうだった。
「だが」
すぐに公人の顔へ戻る。
「子であることと、私と同じことを考えることは別だ」
直成がうなずく。
「同じ必要もない?」
「ない」
頼朝は即答した。
「時代が変われば、答えも変わる。私のやり方を、そのまま真似して失敗されたら困る」
「では何を残すのです?」
頼朝は、少し考えた。
「なぜ、ここを作ったのか」
直成が、黙って聞く。
「それだけは」
頼朝は言った。
「分かるようにしておきたい」
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夕方になった。
仕事はまだ残っている。
頼朝が、また文書を手に取る。
「清盛は」
ぽつりと言った。
「よいものを残した」
直成が、少し驚く。
「何をです?」
「成功と失敗だ」
頼朝は答えた。
「両方見せてくれた」
「なるほど」
「先に歩いた者がいると」
頼朝は、文書をめくりながら言った。
「後から歩く者は、少し得をする」
直成は、笑った。
「ご本人に聞かれたら怒られそうですね」
「もう聞かれぬ」
その言葉だけ、
少し静かだった。
頼朝は、清盛を好きではない。
許したわけでもない。
父と兄を失ったことも、
伊豆へ流された年月も、
なくなったわけではない。
それでも、
その男が自分より先に時代の扉を開いたことは認めていた。
そして頼朝は、
その先を歩いている。
清盛が、
武士でも政治の中心へ進めることを示した。
頼朝は、
それを一人の力ではなく、
続く仕組みに変えようとしていた。
華やかではない。
宋の船もない。
都を移す話もない。
あるのは、
土地の記録。
訴え。
恩賞。
命令。
人の名前。
一枚一枚の文書。
「……やはり地味だな」
頼朝が言った。
直成が答えた。
「まだ言います?」
「言うくらいは許せ」
広元が笑った。
頼朝も、今度は少し笑った。
自分の立っている場所は、
分かっている。
今の時代に、
何が必要なのかも分かっている。
だからこそ、
頼朝は、その地味な仕事をやめなかった。
## 人物紹介
**源頼朝**
源義朝の子。平治元年(1159年)の平治の乱で父方が敗れ、自身は伊豆へ流された。治承四年(1180年)に挙兵し、東国武士をまとめながら鎌倉を政治の拠点としていく。建久三年(1192年)に征夷大将軍となった。本作では、自分が「武士が継続して政治を担う仕組み」を作る時代に立っていることを自覚しながら、その仕事の多くが土地・訴訟・記録といった地味な実務であることには、ときどきぼやく人物として描く。
**平清盛**
平安時代末期の武将。武士として太政大臣にまで昇り、平氏一門を朝廷政治の中心へ進出させた。西国や瀬戸内海との結びつきを強め、宋との交易にも関わった。治承五年(1181年)に死去し、平氏は元暦二年(1185年)の壇ノ浦の戦いで滅亡した。本作では、頼朝にとって父や兄を失う原因となった敵である一方、「武士が政治の中心に立てる」と最初に大きな形で示し、その成功と失敗の両方を後世へ残した先駆者として描く。
**大江広元**
朝廷の実務に通じ、頼朝の政務を支えた人物。文書や行政実務に関わり、鎌倉の政治を一人の力量だけに頼らず動かしていくための仕組みを支えた。




