第50話 まつは、母になっても相変わらず急ぐ
建保二年(1214年)、京。
「大丈夫です」
まつが言った。
季成は答えなかった。
「本当に大丈夫です」
やはり、答えない。
まつは少し腹が立った。
「季成さま」
「はい」
「聞いていますか」
「聞いています」
「では、なぜ何も言わないんです」
季成は、まつを見た。
「何を言えばよいのか考えていました」
「何をです?」
「大丈夫だと言っている人に、休んでくださいと言ってよいものかと」
まつは黙った。
その腕の中で、千寿丸が眠っている。
生まれてから、しばらく経った。
最初は抱くことさえ怖かった小さな体も、今では少し慣れた。
泣けば抱く。
腹が減っているのか考える。
濡れていないか確かめる。
それでも分からなければ、よしやかやに聞く。
少しずつ、まつと季成は父と母になっていた。
だからこそ、まつは思った。
そろそろ以前のように動ける。
「今日は、あちらの部屋まで行っただけです。それから、千寿丸の着物を見て。かや殿のところへ行って」
「はい」
「戻ってきただけです」
季成は少し考えた。
「十分動いているように聞こえます」
「前なら、このくらい」
まつはそう言って立ち上がろうとした。
片手に千寿丸を抱き、
もう片方の手を床につく。
腰を上げる。
そこで、一度止まった。
足に思ったほど力が入らない。
まつは何もなかったように、もう一度力を入れた。
今度は立てた。
季成は、その様子を黙って見ていた。
「何です?」
「いえ」
「何か言いたそうですね」
「座って話しませんか」
「どうしてです?」
「立つ必要がなさそうなので」
「立てます」
「はい。見ていました」
まつはむっとした。
「では、いいでしょう」
「立てることと、疲れていないことは同じですか」
まつは答えなかった。
座り直した。
少しだけ、
ほっとした。
それが悔しい。
「前なら、このくらい何でもありませんでした」
「前とは違います」
まつの眉が動いた。
「子どもを産んだからですか」
「はい」
即答された。
まつは少しむっとした。
「では、もう以前のようにはできないと?」
季成が止まった。
まつは千寿丸を抱いたまま、夫を見る。
「母になったから、じっとしていろと?」
「いいえ」
「では?」
季成はしばらく考えた。
「まつ殿」
「はい」
「私は、まつ殿に変わってほしいとは思っていません」
まつの勢いが止まった。
季成は続けた。
「以前のように動きたいなら、動けばよいと思います」
「では」
「ただし」
季成は千寿丸を見る。
「疲れたら休んでください」
「疲れていません」
「それを決めるのが早いのです」
「早くありません」
「早いです」
「季成さま」
「はい」
「最近、私に言い返すようになりましたね」
季成は驚いた。
「そうでしょうか」
「そうです」
「申し訳ありません」
すぐに謝られた。
まつは、かえって困った。
「そこですぐ謝らないでください」
「では、謝らない方が?」
「そういうことでもありません」
「難しいですね」
「誰のせいですか」
季成は少し考えた。
「私でしょうか」
まつはため息をついた。
その息が、
自分で思っていたより長く出た。
この人と話していると、時々、怒る場所をなくす。
千寿丸が、
「ふぇ」
と声を出した。
二人とも止まった。
まつが千寿丸を見る。
季成も見る。
「起きますかね」
「まだ分かりません」
「泣きますかね」
「それも分かりません」
二人で待った。
千寿丸は少し顔を動かした。
それだけだった。
また眠った。
「寝ましたね」
季成が小声で言う。
「寝ました」
まつも小声で答えた。
千寿丸を抱き直す。
いつもなら何でもない動きなのに、
今日は腕に重さを感じた。
まつは千寿丸の頭を支え直し、
そのまま少し腕を膝に乗せた。
季成が手を伸ばした。
「代わりますか」
「大丈夫です」
「そうですか」
季成は手を戻した。
何も言わなかった。
その何も言わないのが、
かえって気になる。
「何です?」
「何も言っていません」
「顔が言っています」
「そうでしょうか」
二人で顔を見合わせた。
まつは少し笑った。
「何をしているんでしょう、私たち」
「千寿丸を見ています」
「それは分かっています」
季成も少し笑った。
そのとき、
廊下から声がした。
「まつ殿」
かやだった。
「はい」
「入っても?」
「どうぞ」
かやが入ってきた。
まつと季成を見る。
それから千寿丸を見る。
「寝ていますね」
「やっと」
まつが答えた。
かやは、まつの前に置かれているものを見た。
布。
着物。
文。
いくつかの小物。
「何をしていたんです?」
「片づけです」
「休んでいたのでは?」
まつは季成を見た。
季成は何も言わない。
「少しだけです」
かやは、まつの顔を見た。
それから、千寿丸を抱く腕を見る。
「千寿丸をこちらへ」
「え?」
「少し抱いています」
「でも」
「私が抱きたいんです」
そう言われると断りにくい。
まつは千寿丸を渡した。
腕から重さがなくなった。
その瞬間、
肩が下がった。
まつは慌てて背筋を伸ばした。
かやは何も言わなかった。
季成も何も言わなかった。
「……何です?」
まつが二人を見る。
「何も」
かやが答えた。
「季成さまも、さっきからそればかりです」
「そうですか」
かやは千寿丸を抱いたまま笑った。
「まつ殿」
「はい」
「私も一人目のあと、同じことをしました」
まつが顔を上げる。
「かや殿も?」
「ええ」
「もう大丈夫だと思って、あれもこれも始めました」
「それで?」
「よし様に怒られました」
まつは少し安心した。
「やっぱり、みんなそうなんですね」
「みんなかどうかは知りません」
かやは答えた。
「私はそうでした」
まつはその言い方が好きだった。
自分の経験を話しても、
まつも同じだとは決めない。
「でも」
かやは続けた。
「まつ殿は、私より急ぎそうですね」
「そんなことは」
季成が横で、小さく息を吸った。
まつが振り向く。
「何です?」
「何も」
「今、何か言おうとしましたよね」
「言っていません」
「顔に出ています」
「そうでしょうか」
かやが笑いをこらえている。
まつは二人を交互に見た。
「二人とも、私を何だと思っているんです」
かやが答えた。
「まつ殿です」
「答えになっていません」
「十分だと思いますよ」
かやは千寿丸をまつへ返そうとした。
まつは両手を出した。
そのとき、
腕にまだ重さが残っているような気がした。
ほんの少し迷う。
季成が先に手を出した。
「私が」
まつは夫を見る。
「抱けますか」
「前よりは」
「落とさないでくださいね」
「それは、ずいぶん信用がありませんね」
「最初を見ていますから」
季成は慎重に千寿丸を受け取った。
かやが立ち上がる。
「では、私は戻ります」
「もうですか」
「はい。季成殿もいますから」
かやは季成を見る。
季成が頭を下げた。
「何かあれば呼んでください」
「ありがとうございます」
かやは出ていった。
二人きりになった。
正確には、
千寿丸を入れて三人だった。
まつは、目の前の布を手に取った。
季成が見る。
「何を?」
「片づけます」
「今ですか」
「今です」
「明日でもよいのでは」
「今日できます」
「まつ殿」
「大丈夫です」
また最初に戻った。
季成は黙った。
まつは布を畳む。
一枚。
二枚。
二枚目を置くとき、
少しずれた。
まつは置き直した。
三枚目。
端を合わせる。
いつもなら一度で合うのに、
少しずれた。
やり直す。
またずれた。
「……もう」
まつは小さく言った。
指先に力を入れ直す。
季成は何も言わない。
その沈黙が腹立たしい。
「何です?」
「何も」
「またそれですか」
「まつ殿が、何も言わないでほしそうなので」
「そんなことは言っていません」
「では言います」
季成はまつの手元を見る。
「少し休みませんか」
「これくらいできます」
まつは三枚目を畳んだ。
四枚目へ手を伸ばす。
その途中で、
手が止まった。
肩が重い。
背中も重い。
少し前から、
同じ姿勢で座っていることさえつらくなっている。
まつは気づかないふりをした。
四枚目に手を伸ばす。
その布を、
季成が先に取った。
「何をするんです?」
「畳みます」
「千寿丸を抱いているでしょう」
季成は千寿丸を見る。
それから布を見る。
「では、まず千寿丸を寝かせます」
「そこまでして畳まなくても」
季成が、まつを見る。
「はい」
まつは止まった。
「……何です?」
「今、まつ殿が言いました」
「何を」
「そこまでして畳まなくても、と」
まつは口を閉じた。
季成は笑わなかった。
千寿丸をそっと寝かせる。
それから布を取った。
「教えてください」
「今ですか」
「今です」
まつは夫を見る。
季成は真面目な顔をしていた。
仕方なく、まつは教えた。
「端を合わせて」
「はい」
「そこではありません」
「ここですか」
「違います」
「では、こちら」
「どうしてそうなるんです」
季成が畳んだ布は、妙な形になった。
まつは笑った。
「下手ですね」
「初めてですから」
「それを言えば何でも許されると思っていませんか」
「まつ殿も、千寿丸を抱くときに言っていました」
まつが止まった。
「覚えていたんですか」
「はい」
「そういうことだけ、よく覚えていますね」
「まつ殿のことですから」
まつの顔が熱くなった。
季成は気づかず、布をもう一度広げた。
「もう一度お願いします」
「……季成さま」
「はい」
「そういうことを」
まつは言いかけて止めた。
季成が顔を上げる。
「何でしょう」
「なんでもありません」
「そうですか」
「はい」
まつは少し強い声で言った。
「それより、そこが違います!」
「ここですか」
「もっと右です」
「こう?」
「行きすぎです!」
季成は布を見る。
「難しいですね」
「どうして布一枚でそんなに苦労するんです」
「まつ殿が上手なのです」
まただ。
まつは口を閉じた。
季成が不思議そうに見る。
「どうしました?」
「何でもありません」
「顔が赤いですが」
「赤くありません!」
声が大きくなった。
千寿丸が、
「ふぇっ」
と声を上げた。
二人とも固まった。
「起こしました」
季成が言った。
「季成さまのせいです」
「私ですか?」
「そうです」
「まつ殿の声だったような」
「何か言いました?」
「いいえ」
千寿丸の顔がくしゃりと歪む。
そして、泣いた。
「ああ」
まつがすぐに手を伸ばした。
けれど、
立ち上がろうとしたところで体が止まった。
足に力が入るまで、
ほんの一瞬かかった。
季成の方が先に千寿丸を抱き上げた。
まつは何も言わなかった。
「千寿丸、どうしたんでしょう」
季成が抱きながら聞く。
まつは座り直した。
「お腹でしょうか」
「さっき飲みました」
「では、濡れた?」
「見てください」
「はい」
季成が確かめる。
「違います」
「では何です?」
「分かりません」
二人で顔を見合わせた。
千寿丸は泣いている。
「よし殿を呼びますか」
季成が聞いた。
まつは少し迷った。
いつもなら、
もう少し自分で、と言ったかもしれない。
けれど今日は、
千寿丸を抱いている季成の腕を見た。
自分の重い腕も見た。
「……もう少しだけ、お願いします」
「はい」
季成はそれ以上何も言わなかった。
千寿丸を揺らす。
まつも座ったまま声をかけた。
しばらくすると、泣き声が少しずつ小さくなった。
やがて、千寿丸はまた目を閉じた。
二人は動かなかった。
少し待つ。
完全に眠った。
季成が小声で言った。
「今度こそ寝ましたね」
「たぶん」
「布は?」
まつは布を見る。
まだ残っている。
手を伸ばしかけた。
やめた。
「明日にします」
季成が、ほんの少し笑った。
まつは見逃さなかった。
「何です?」
「何も」
「笑いましたよね」
「笑っていません」
「笑いました」
季成は少し困った顔をした。
「うれしかっただけです」
「何がです?」
「まつ殿が、明日にすると言ったので」
まつは夫を見る。
「そんなに私に休んでほしいんですか」
「はい」
また即答だった。
まつの頬が熱くなる。
「なぜです」
聞かなければよかった、と、
言った直後に思った。
季成は普通に答えた。
「元気なまつ殿が好きですから」
まつは固まった。
季成は千寿丸を見ている。
気づいていない。
「……季成さま」
「はい」
「そういうことを急に言わないでください!」
季成が驚いた。
「何か変なことを言いましたか」
「言いました!」
「どこが?」
「自分で考えてください!」
「分かりません」
「考えてください!」
千寿丸が、
また少し動いた。
二人とも黙った。
千寿丸は眠ったままだった。
まつは小さく息を吐いた。
今度は、
そのまま壁に少し背を預けた。
季成はそれを見た。
けれど、
何も言わなかった。
まつの方から言った。
「……少しだけ休みます」
「はい」
「少しだけです」
「はい」
「うれしそうな顔をしないでください」
「していましたか」
「していました」
季成はますます困った。
まつはそんな夫を見て、
結局、笑ってしまった。
母になっても、
まつはまつだった。
急ぐ。
言いたいことは言う。
できると思えば、自分でやる。
疲れていても、
まだできると思えば手を伸ばす。
季成は、それをやめさせようとはしなかった。
ただ、
まつが立つのに時間がかかれば待ち、
千寿丸を抱く腕が重くなれば代わり、
布を畳む手が止まれば自分でやってみた。
そして、
まつ自身が「休む」と言うまで、
隣にいた。
その夜。
まつは鎌倉へ送る次の文のことを考えていた。
あやには、
季成との話はあまり詳しく書かない方がいい。
絶対にそうしよう。
そう決めた。
少し考えて、
まつは眉を寄せた。
前の文に、
もう十分書いてしまっている。
鎌倉で、
あやがにこにこしている顔が浮かんだ。
何か言いたそうな顔で。
「……次に会ったら、絶対に何か言われる」
「何がです?」
隣から季成が聞いた。
「何でもありません」
「そうですか」
まつは千寿丸を見る。
それから、
季成を見る。
また鎌倉へ帰る日には、
この人も一緒だ。
あやもいる。
兄たちもいる。
母もいる。
きっと、
にぎやかになる。
まつは少しだけ楽しみになった。
ただし。
あやに何を言われても、
絶対に顔を赤くしない。
それだけは、
今のうちに決めておこうと思った。




