幕間14 ちよは、二人目の子どもで「同じではない」と知る
文治五年(1189年)、鎌倉。
太郎が生まれてから、しばらく後。
ちよは、二人目の子を産んだ。
男の子だった。
幼名は、次郎。
二人目だから、今度は少し分かると思っていた。
赤子の抱き方も知っている。
泣いたときに確かめることも知っている。
布の替え方も知っている。
夜中に何度も起こされることも知っている。
最初の太郎のときのように、何をするにも怖い、ということはない。
だから、今度はもう少し上手にできる。
ちよは、そう思っていた。
その日の夜までは。
◇
「また泣き始めましたね」
直成さんが言った。
「聞こえています」
「そうですよね」
「ええ。よく聞こえています」
次郎は、ちよの腕の中で大きな声を上げていた。
さっき乳を飲ませた。
布も替えた。
暑くない。
寒くもない。
抱いている。
それでも泣く。
「太郎のときは」
直成さんが言った。
ちよが振り向いた。
「何です?」
「こういうとき、抱いて歩くと寝ませんでしたか」
「寝ました」
「では、代わります」
直成さんが手を出した。
ちよは次郎を渡した。
直成さんは赤子を抱き、部屋の中をゆっくり歩き始めた。
太郎が赤子だったころ、何度もやったことだった。
右へ行く。
戻る。
また右へ行く。
次郎は泣いている。
「……寝ませんね」
「寝ませんね」
直成さんはもう一往復した。
次郎の声が、さらに大きくなった。
「むしろ、怒っていませんか」
ちよが言った。
「そんな気がします」
「太郎は寝たのに」
「ええ」
そのときだった。
廊下から、小さな足音がした。
二人が振り向く。
太郎が立っていた。
眠そうな顔をしている。
「太郎」
ちよが声を落とした。
「起きたの?」
太郎はうなずいた。
「次郎、泣いてる」
「そうね」
太郎はすぐに直成さんのところへ来た。
眠そうだった目が、次郎を見ると少し開いた。
「次郎」
弟の顔をのぞき込む。
「どうしたの?」
次郎は答えず、大きな声で泣いた。
太郎の眉が下がった。
「痛い?」
「どこか痛いのかは、まだ分からないんだ」
直成さんが答えた。
「お腹?」
「乳は飲んだよ」
「おしっこ?」
「布も替えたんだけれどね」
太郎はしばらく考えた。
「なんで?」
直成さんとちよが顔を見合わせた。
「それが分からないの」
ちよが答えた。
太郎は驚いた。
「母上も?」
「分からないの」
「父上も?」
直成さんもうなずいた。
「うん。まだ分からない」
太郎は二人を交互に見た。
それから、もう一度次郎を見る。
「次郎も?」
ちよは笑った。
「次郎も、何と言えばいいか分からないんじゃない?」
太郎は少し困った顔をした。
そして、急に部屋を出ていった。
「太郎?」
返事はない。
直成さんとちよが顔を見合わせる。
すぐに、ぱたぱたと足音が戻ってきた。
太郎の手には、小さな布の包みがあった。
◇
「何を持ってきたの?」
ちよが聞いた。
太郎は包みを開いた。
中に入っていたのは、太郎が普段から大事にしている小さな木の駒だった。
「これ、貸す」
「次郎は、まだ遊べないよ」
直成さんが言った。
「見るの」
太郎は駒を次郎の前へ持っていった。
「ほら」
次郎は泣いている。
「これ、ぼくの」
泣いている。
「貸すよ」
やはり泣いている。
太郎は困った。
「いらない?」
「まだ、よく見えないのかもしれないわね」
ちよが言った。
太郎は駒を見る。
次郎を見る。
もう一度駒を見る。
「じゃあ、あとで」
そう言って、大事そうに包み直した。
ちよは思わず笑った。
「あげるんじゃないの?」
「貸すの」
そこは譲らないらしい。
直成さんも笑った。
次郎はまだ泣いている。
太郎は直成さんの着物の裾を引いた。
「父上」
「何?」
「貸して」
「何を?」
「次郎」
直成さんとちよが同時に太郎を見た。
「まだ、一人では抱けません」
ちよが言った。
「ちょっと」
「落としてしまったら、次郎が痛いでしょう」
「座る」
「座っても、支えていないと難しいの」
太郎が次郎を見る。
「落とさないよ」
「そうしたいのは分かっています。でも、まだ小さいから」
「次郎?」
「あなたもです」
太郎が黙った。
直成さんが口を開く。
「座って、僕も支えれば――」
ちよは夫を見た。
「直成さん。今は、こんなに泣いています」
「……落ち着いてからにしましょうか」
太郎は父を見る。
「だめ?」
「今夜は、手に触るだけにしよう」
太郎はまだ諦めきれない顔をしていた。
次郎の小さな手を見る。
「手?」
「そっとなら、いいですよ」
ちよが言うと、太郎は急に真剣な顔になった。
さっきまで次郎を抱きたいと言っていた子とは思えないほど、ゆっくり手を伸ばす。
指先で、次郎の手に触れた。
次郎の小さな指が動いた。
太郎の指を握る。
太郎の目が丸くなった。
「母上」
「何?」
「つかんだ」
「つかみましたね」
「ぼくの」
太郎は動かなくなった。
「離さない」
少しうれしそうだった。
次郎は泣いている。
それでも太郎は、握られた指をじっと見ている。
「ぼく、好き?」
ちよは答えようとして、やめた。
代わりに言った。
「どうでしょうね」
「好き」
太郎は自分で決めた。
直成さんが笑う。
「そう思う?」
「ぎゅって」
太郎は握られた指を見せた。
「父上も?」
「父上の指も、握ってくれたよ」
「母上?」
「母上の指も」
太郎は満足そうだった。
やがて、次郎の手が開いた。
太郎の指が自由になる。
太郎は少し寂しそうな顔をした。
「離した」
「ずっと握っていると、次郎も疲れるでしょう」
ちよが言うと、太郎は弟の手を見た。
「またね」
次郎は答えず、泣いていた。
◇
「早く話せばいいのに」
太郎が言った。
「もう少しかかるよ」
直成さんが答えた。
「いつ?」
「大きくなったら、少しずつ」
「いつ?」
直成さんがちよを見る。
ちよは少し笑った。
「次郎に聞いてください」
「まだ、聞けませんね」
太郎が不思議そうな顔をした。
「父上も、知らない?」
「いつ話し始めるかまでは、分からないんだ」
太郎は次郎を見る。
待っていても返事はなかった。
ちよは息子の肩へ手を置いた。
「太郎、もう寝ましょう」
「次郎は?」
「父上と母上が、抱いています」
「寝ない?」
「寝てほしいんですけどね」
ちよは次郎を見た。
「太郎のときは、歩くと寝たのに」
何気なく言うと、太郎が振り向いた。
「ぼく?」
「そう。太郎が赤ちゃんだったとき」
太郎は驚いた。
「ぼくも泣いた?」
「泣きましたよ」
「こんな?」
直成さんが次郎を見た。
「もう少し静かだったような気もしますが」
ちよは夫を見る。
「そうでした?」
「僕は、そう覚えています」
「夜中はかなり泣きましたよ」
「では、僕の覚え方が都合よくなっていますね」
太郎が直成さんを見上げた。
「忘れた?」
「忘れたことも、あるよ」
太郎はまた驚いた。
今夜は、父と母も知らないことがあると、何度も聞かされている。
◇
「同じ赤子なのに」
ちよが次郎を見ながら言った。
直成さんが足を止めた。
「同じではないのでしょうね」
「何がです?」
「太郎と次郎です」
太郎がすぐに言った。
「違うよ」
ちよと直成さんが息子を見る。
「どこが?」
ちよが聞いた。
太郎は弟を見た。
「小さい」
「そうね」
「手も」
太郎は、さっき握られた指を見た。
「でも、ぎゅってした」
うれしそうに、自分の指を握って見せる。
ちよは笑った。
「そうね」
太郎にとっては、見れば分かる違いなのだろう。
太郎と次郎は、違う。
親の方が、「二人目だから」という言葉に引っ張られていた。
「僕も、分かっていたつもりでした」
直成さんは次郎を抱いたまま言った。
「でも、太郎のときにうまくいったから、次郎にも同じことをしました」
「私もです」
「では、二人とも同じですね」
「そこは同じでなくてもいいです」
直成さんは少し笑った。
太郎も笑った。
次郎だけが泣いている。
「次は?」
太郎が聞いた。
ちよが止まった。
「何が?」
「次郎の次」
「太郎。まだ次郎が生まれたばかりです」
直成さんが口元を押さえた。
ちよは夫を見る。
「笑わないでください」
「すみません」
太郎は二人を見比べてから、また弟を見た。
「次郎、小さいね」
「ええ。生まれたばかりですから」
ちよは息子の背に手を添えた。
「今夜は、もう寝ましょう」
「次郎は?」
「父上と母上で何とかします」
「分かる?」
「まだ、分かりません」
ちよが答える。
太郎は少し笑った。
「また?」
「そうです」
「ぼくも、いる」
「明日、手伝ってください」
「何する?」
「それは明日考えます」
太郎は少し考え、ようやくうなずいた。
◇
数歩歩いて、太郎がまた戻ってきた。
「母上」
「何?」
「次郎、かわいいね」
ちよは目を瞬いた。
「急にどうしたの?」
「手、小さいから」
太郎は少し考えて、付け加えた。
「ぎゅってした」
「そう」
「明日も、いい?」
「手に触るの?」
「うん」
「そっとならね」
太郎は次郎に向かって、小さく手を振った。
「おやすみ、次郎」
次郎は泣いている。
太郎は少し待っていたが、今度こそ部屋を出ていった。
ちよは、しばらくその背中を見ていた。
足音が遠ざかる。
直成さんが言った。
「ずいぶん気に入ったようですね」
「弟ですもの」
「兄になったんですね」
「まだ小さいですけどね」
「小さくても、兄です」
ちよは少し笑った。
「そうですね」
次郎がまた大きな声で泣いた。
ちよは振り返った。
◇
「さて」
直成さんが言った。
「どうしましょう」
「何か、気づいたことはあります?」
「歩いても、寝ないことくらいです」
「私も、分かりません」
ちよは少し強く言った。
直成さんがこちらを見る。
ちよ自身も、言ってから止まった。
太郎のときなら、「分からない」と言うことに、もう少しためらいがあった。
母なのだから。
自分の子なのだから。
分からなければいけないような気がしていた。
けれど、今は本当に分からない。
「……分かりません」
ちよはもう一度言った。
今度は、さっきより小さな声だった。
直成さんはうなずいた。
「僕もです」
次郎が泣いている。
二人とも分からない。
けれど、さっきは太郎まで、不思議そうに次郎を見ていた。
なぜか、少しだけ気持ちが楽になった。
「では」
直成さんが言った。
「最初から見ましょう」
「最初から?」
「何をしたか、順番に」
直成さんは次郎をちよへ戻した。
ちよは少し呆れた。
「仕事みたいですね」
「そういうつもりでは」
「直成さん」
「はい」
「顔が仕事の顔です」
直成さんは困った。
「……では、やめますか」
「いいえ」
ちよは次郎を抱き直した。
「やってみましょう」
◇
二人で考えた。
乳は飲んだ。
布は濡れていない。
身体は熱くない。
手も冷たくない。
「眠い?」
ちよが次郎に聞いた。
当然、答えない。
「答えてくれたら、助かるんですけれど」
直成さんが言った。
「ええ。本当に」
次郎がまた泣く。
ちよは抱き方を少し変えた。
泣く。
元へ戻した。
泣く。
直成さんが手を出す。
「もう一度、僕が」
「今度は、座ってみてください」
「そうします」
直成さんはその場に座って次郎を抱いた。
泣き声が、少し小さくなった。
二人とも止まった。
直成さんも動かない。
次郎がまた声を上げる。
「違いましたね」
「違いました」
しばらくして、ちよはふと気づいた。
「直成さん」
「うん?」
「少し暗くしてみませんか」
「暗く?」
「太郎は明るくても寝ましたけど」
そこまで言って、ちよは自分で気づいた。
「……また太郎と比べていますね」
直成さんも気づいた。
「僕たち、さっきからそればかりですね」
「二人目だから、分かると思っていたんです」
ちよは言った。
「太郎を育てたから」
「僕もです」
直成さんが答えた。
「一度やったことですから、前より上手にできると思っていました」
「でも、布の替え方は前より上手ですよ」
「それは、慣れました」
「抱くのも」
「最初ほど、怖がらなくなりましたね」
「最初は、見ている私も怖かったです」
二人で少し笑った。
太郎を育てた時間が、何の役にも立たないわけではない。
知っていることは増えた。
できることも増えた。
怖がらなくなったこともある。
ただ、太郎を知っていることと、次郎を知っていることは、同じではなかった。
◇
ちよは部屋を少し暗くした。
直成さんは次郎を抱いたまま座っている。
しばらくすると、泣き声が弱くなった。
「……静かになりました」
直成さんが小声で言った。
「まだです」
「ええ」
二人とも動かなかった。
次郎の声が止まる。
目が閉じる。
直成さんはじっとしている。
ちよも息をひそめた。
少しして、次郎がまた目を開いた。
「起きました」
「起きましたね」
けれど、今度は泣かなかった。
直成さんの腕の中で、ぼんやりと天井を見ている。
「暗い方が、落ち着くのでしょうか」
直成さんが聞いた。
「今日は、そうなのかもしれませんね」
ちよが言った。
直成さんは少しうなずいた。
「覚えておきます」
「書くんですか」
「忘れそうなら」
「赤子のことまで?」
「また困ったときに、試せるでしょう」
ちよは夫を見る。
「でも、次も同じとは限りませんよ」
「ええ。だから、今日こうだった、ということだけ」
直成さんは次郎を見た。
ちよは、その言葉を考えた。
太郎のときの経験も、同じなのだろう。
役に立つ。
試すこともできる。
けれど、そのまま次郎にも通じるとは限らない。
目の前にいる子を見る。
違えば、やり方も変える。
「二人目って」
ちよが言った。
「もっと楽になると思っていました」
「少しは、慣れたこともあるでしょう」
「布を替えることですか」
「抱くことも」
「ほかは?」
直成さんは考えた。
「分からないときに、前より早く、分からないと言えるようになりました」
ちよは夫を見る。
「それは、上手になったと言うんですか」
「僕は、大事なことだと思います」
ちよは少し考えた。
「では、直成さんも言ってください」
「何をです?」
「分からないときは、分からないと」
「そうします」
「知っているふりをしたら?」
「困らせてしまいますね」
「そうです」
次郎が、直成さんの腕の中で小さく動いた。
二人ともすぐに黙る。
次郎は目を閉じた。
今度こそ、眠ったらしい。
◇
直成さんは小声で言った。
「寝ました」
「たぶん」
「置きましょうか」
ちよは考えた。
「もう少し待ちましょう」
「ええ」
二人は待った。
太郎のときにも、こうして二人で赤子が眠るのを待った。
けれど、同じ夜ではない。
腕の中にいる子も違う。
困っていることも違う。
ちよ自身も、あのころのちよとは少し違っていた。
しばらくして、直成さんが次郎を寝かせた。
次郎は起きなかった。
二人は顔を見合わせた。
「うまくいきました」
直成さんが小声で言った。
「今日は、ですね」
「ええ。今日は」
ちよは横になった。
さすがに疲れていた。
直成さんもその隣に座る。
「直成さん」
「うん?」
「太郎のことを知っていても、次郎のことは最初から知っているわけではないんですね」
「そうですね」
「親なのに」
直成さんは少し考えた。
「別の子ですから。これから、覚えていくのでしょうね」
ちよは眠っている次郎を見る。
まだ、生まれたばかりの小さな子だった。
何が好きなのか。
何が嫌いなのか。
どんな子になるのか。
知らないことばかりだ。
太郎の弟だからといって、太郎と同じではない。
自分の子だからといって、自分が最初から何でも知っているわけでもない。
だったら、これから知っていけばいい。
さっき太郎は、当たり前のように二人の違いを指さしていた。
小さい。
手も小さい。
けれど、強く握った。
親の自分たちも、そうして一つずつ見ていくのだろう。
「明日も泣いたら?」
ちよが聞いた。
「今日うまくいったことを試します」
「それでも泣いたら?」
「別のことを考えます」
「分からなかったら?」
直成さんは答えた。
「二人で困りましょう」
ちよは笑った。
「それ、前にも言いましたね」
「覚えていましたか」
「ええ。でも、同じとは限らないんでしょう?」
直成さんが止まった。
ちよは笑った。
「今のは、私の勝ちです」
「勝負だったんですか」
「今、決めました」
「それは、ずるいですね」
次郎が少し動いた。
二人はまた黙った。
しばらく待つ。
次郎は眠ったままだった。
◇
そのとき、廊下の向こうから小さな声がした。
「母上」
ちよが振り向いた。
太郎が、また顔だけ出している。
「太郎。寝たんじゃなかったの?」
「次郎、寝た?」
ちよは次郎を見る。
「寝ましたよ」
太郎は安心したように笑った。
「よかった」
「今度こそ寝なさい」
「うん」
太郎は引っ込む前に、もう一度だけ次郎を見た。
それから、小さな声で言った。
「おやすみ、次郎」
今度は、次郎は泣かなかった。
太郎は満足そうに笑い、廊下の向こうへ消えた。
ちよは、その足音が遠ざかるまで聞いていた。
次郎が生まれて変わったのは、ちよと直成さんだけではなかった。
太郎も、兄になった。
弟が泣けば起きてくる。
小さな手に触れたがる。
自分の大事なものを貸そうとする。
眠れば安心する。
ただ、弟がかわいいのだ。
ちよには、それで十分だった。
太郎を育てたから、次郎のことが分かるわけではない。
けれど、太郎を育てた時間が消えるわけでもない。
知っていることは使う。
目の前の子を見る。
違えば、やり方を変える。
分からなければ、分からないところから考える。
そして、違う子が一人増えるたびに、家族の方も少しずつ変わっていく。
ちよは眠っている次郎を見た。
今夜、覚えたことが一つある。
少し暗くすると、今日は泣きやんだ。
明日のことは、また明日、この子を見て考えようと思った。




