第49話 宗直は、父を知る人と自分を比べない
建保二年(1214年)、鎌倉。
翌朝。
宗直は、一枚の紙を前にして考えていた。
昨日、大江広元が帰ったあとも、父の話はしばらく続いた。
書付をなくした。
人の名を取り違えた。
日付を間違えた。
分からないことには、分からないと言った。
どれも、宗直が知らない父だった。
子どものころの宗直にとって、父は何でも知っている人だった。
大人になってからは、何でも知っていたわけではないと分かっている。
それでも、父が死んでから、困ったことがあるたびに考えてしまう。
父上なら、どうしただろう。
目の前の紙にも、同じことを考えていた。
「兄上」
声がした。
顔を上げる。
行嗣だった。
「まだ見ていたんですか」
「ああ」
「昨日からでしょう」
「ああ」
行嗣が宗直の前へ座った。
「何が分からないんです?」
「分からないというより」
宗直は紙を見た。
「決められない」
紙に書かれているのは、二階堂家が管理する田の一つについての相談だった。
田へ水を引くための溝が、雨で崩れた。
直さなければならない。
問題は、どこから手をつけるかだった。
上の田を先に直せば、そこには早く水が入る。
だが、下の田まで水が届くのは遅くなる。
下から直せば、上の田の者たちは不満を言う。
どちらにも言い分があった。
「父上なら」
宗直が言った。
行嗣が顔を上げた。
宗直は続きを言わなかった。
「またですか」
「何がだ」
「父上なら、です」
宗直は弟を見た。
「悪いか」
「悪いとは言っていません」
「では何だ」
行嗣は考えた。
「昨日、大江殿から聞いたでしょう」
「何を」
「父上も、分からないことは分からなかった、と」
「それは聞いた」
「なら、父上ならどうしたかも、分からないのでは?」
宗直が黙った。
行嗣は紙を指した。
「ここに、父上の考えは書いてありません」
「……そうだな」
「では、確かめられません」
宗直は弟の顔を見た。
「お前は本当に、そういうところがあるな」
「どういうところです?」
「いや」
宗直は紙を畳んだ。
「光成は?」
「外です」
「呼んでくれ」
「分かりました」
行嗣が立ち上がる。
宗直も立った。
「いや」
行嗣が振り返る。
「俺が行く」
「どこへ?」
「田だ」
行嗣は少し驚いた。
「今からですか」
「紙を見ていても、田は見えない」
「それはそうですが」
宗直は歩き出した。
途中で、庭にいたあやに見つかった。
「兄上、どこへ行くんです?」
「田を見に行く」
「私も」
「遊びではないぞ」
「分かっています」
「では、なぜ来る」
「気になるからです」
「何が」
「水がどこで止まっているのか」
宗直は少し考えた。
「邪魔をするなよ」
「しません」
あやがついてきた。
行嗣も来た。
田へ着くと、光成がすでにいた。
裾を上げ、溝のそばにしゃがみ込んでいる。
「兄上」
光成が立ち上がった。
「ちょうどよかった」
「どうだ」
「思っていたより崩れてる」
宗直も溝を見る。
土が落ち、水の流れが細くなっていた。
紙に書かれていたより、ひどい。
「これでは下まで届かないな」
「今はな」
光成が答える。
「上の者は、ここを先に直せと言っている」
「下は?」
「先に下まで通してくれ、と」
「両方は?」
「人手が足りない」
宗直は周囲を見た。
「何人いる」
「今日は六人」
あやが聞いた。
「六人で、どのくらい直せるの?」
光成が妹を見る。
「やってみないと分からん」
「昨日は何人だったの?」
「四人」
「二人増えたんだ」
「ああ」
「明日は?」
「知らん」
「聞けば分かる?」
「たぶんな」
宗直があやを見る。
「あや」
「はい」
「質問は一つずつにしろ」
「はい」
少し離れたところに、田を使っている者たちがいた。
宗直はそちらへ向かった。
一人ずつ話を聞いた。
上の田を使う者は言った。
「ここを直さなければ、うちの田に水が入りません」
下の田を使う者は言った。
「上ばかり先に直せば、こちらはいつになるか分かりません」
どちらも間違ってはいない。
宗直は黙って聞いた。
途中で、何度か父のことを考えた。
父なら、もっと細かく聞くだろうか。
紙に書くだろうか。
何か、自分が見落としていることに気づくだろうか。
また、
父上なら。
そう考えている。
「兄上」
光成が呼んだ。
「こっちを見てくれ」
宗直は溝へ戻った。
光成が土を指す。
「全部を直す必要はないかもしれない」
「どういうことだ」
「ここだけ先に通せば、水そのものは下まで行く」
「上の田は?」
「十分ではないが、入る」
宗直がしゃがんだ。
「どのくらいだ」
「やってみないと分からん」
「またそれか」
「見ただけで分かったら苦労しない」
光成は笑った。
「少し掘ってみるか?」
宗直は答えようとして、止まった。
父ならどうする。
また、その言葉が浮かんだ。
宗直は土を見た。
光成を見る。
行嗣を見る。
あやを見る。
それから、田を使っている者たちを見た。
父はいない。
ここにいるのは、自分たちだ。
「やってみよう」
宗直が言った。
光成がうなずいた。
「分かった」
「ただし、少しだけだ」
宗直は続けた。
「水の流れを見てから決める」
行嗣が聞いた。
「記録しますか」
「ああ。どこをどれだけ掘ったか書いておいてくれ」
「分かりました」
「あや」
「はい」
「お前は」
宗直は少し考えた。
「邪魔をするな」
「さっきも言われました」
「では、水を見ていろ」
「どこを?」
「下だ。届いたら教えてくれ」
あやの顔が明るくなった。
「分かりました」
作業が始まった。
宗直も土に手をかけた。
「兄上もやるのか」
光成が聞く。
「悪いか」
「いや」
光成は笑った。
「父上は、こういうとき口を出す方だったから」
宗直の手が止まった。
「そうだったか」
「覚えてない?」
「覚えている」
直成は現場へ来ても、あまり力仕事は上手ではなかった。
その代わり、あちらを見て、こちらへ聞いて、何か気づけば口を出した。
「そこは先に確かめた方がいい」
「その話は誰から聞いたんです」
「一度、止めましょう」
そんなことをよく言った。
宗直は土を持ち上げた。
「なら、俺はやる」
光成が宗直を見る。
「父上と違うぞ」
「ああ」
宗直は答えた。
「俺は父上じゃないからな」
光成は何も言わなかった。
ただ、少し笑った。
しばらくすると、水が動いた。
「あ!」
遠くから声がした。
あやだった。
「来た!」
全員が顔を上げた。
「水、来ました!」
光成が笑った。
「通ったな」
宗直は下流を見る。
まだ細い。
十分ではない。
それでも、水は流れている。
下の田の者が言った。
「これなら、もう少し広げれば」
上の田の者も水を見る。
「こちらにも残りますか」
光成が答えた。
「今のところは」
宗直が言った。
「今日はここを広げる」
全員が宗直を見る。
「明日、人が増やせるなら、上も直す」
行嗣が聞いた。
「増やせなかった場合は?」
「今日の水の量を見て、また決める」
「分かりました」
「決めたんですか?」
あやが戻ってきた。
「ああ」
「父上なら、どうしたんでしょう」
宗直は妹を見た。
昨日までなら、考え込んだかもしれない。
けれど今日は、すぐに答えた。
「知らん」
あやが目を丸くした。
行嗣も宗直を見る。
宗直は続けた。
「父上がここを見たわけじゃない。今日の水も見ていない。だから、父上ならどうしたかは分からん」
あやは少し考えた。
「では、兄上が決めたんですか」
「ああ」
「大丈夫ですか」
「分からん」
「分からないんですか」
「やってみないと分からん」
光成が吹き出した。
「それ、さっき俺が言った」
「そうだったか」
「兄上、人の言葉を取るな」
「使えるものは使う」
行嗣が言った。
「それは記録しておきますか」
「しなくていい」
「なぜです?」
「何でも書くな」
あやが笑った。
光成も笑った。
帰るころには、宗直の裾は泥だらけになっていた。
家へ戻ると、ちよがそれを見た。
「どうしたのです?」
「田へ行ってきました」
「見れば分かります」
ちよは宗直の裾を見る。
「ずいぶん働いたようですね」
「少しだけです」
「決まりましたか」
宗直はうなずいた。
「今日は水を通すところまで。明日、人手を確認してから続きを決めます」
「そうですか」
ちよはそれ以上、聞かなかった。
宗直の方が聞いた。
「母上」
「なんです?」
「父上なら、どうしたと思いますか」
ちよは宗直を見た。
少し考える。
「分かりません」
宗直は笑った。
「そうですよね」
「だって、あの人はもういませんから」
「はい」
ちよは泥のついた息子を見る。
「でも」
「はい」
「あなたは、どうしたのです?」
宗直は今日のことを話した。
紙だけでは決めなかったこと。
光成と現場を見たこと。
田を使う者の話を聞いたこと。
行嗣に記録を頼んだこと。
あやに水を見てもらったこと。
少しだけ溝を直し、水の流れを確かめてから決めたこと。
ちよは最後まで聞いた。
「そうですか」
それだけだった。
宗直は少し待った。
「母上」
「はい」
「それだけですか」
「何がです?」
「何か……ないんですか」
「何かとは?」
宗直は困った。
「父上ならどうした、とか」
ちよは笑った。
「知りませんよ」
「またですか」
「あの人ではないのですから」
宗直は黙った。
ちよは続けた。
「宗直」
「はい」
「あなたは、お父上と同じようにしなければならないのですか」
宗直はすぐには答えなかった。
「同じ家の当主です」
「同じ人ではありません」
「それは、そうですが」
「お父上のよかったところを使うのはいいでしょう」
ちよは言った。
「でも、お父上になる必要はありません」
宗直は母を見る。
ちよは、いつもの顔をしていた。
「父上になるつもりはありません」
「なら、よかった」
「ただ」
宗直は少し笑った。
「気づくと、比べています」
「それくらいは、いいんじゃないですか」
宗直は意外そうな顔をした。
「いいんですか」
「お父上は、あなたのお父上ですから」
ちよは答えた。
「思い出すなという方が無理でしょう」
宗直は黙った。
「ただ」
ちよは続けた。
「最後に決めるのは、今ここにいる人でしょう」
宗直は今日の田を思い出した。
紙に書かれた話だけでは決めなかった。
まず、田へ行った。
自分の目で見た。
田を使う者たちから、それぞれ話を聞いた。
どちらか一方の話だけで決めなかった。
分からないことは、光成に聞いた。
明日の人手のように、まだ分からないことは、分かったことにはしなかった。
そして、全部を一度に決めず、少しだけ水を通して確かめた。
宗直は、そこで気づいた。
父が残したのは、
答えではなかったのかもしれない。
まず、人の話を聞く。
自分の目でも見る。
聞いたことと、見たことを一緒にしない。
分からないことは、分からないままにしておく。
必要なら、分かる人に聞く。
それでも決めなければならないときは、
今ここにいる人たちと考える。
宗直は、今日一日をもう一度思い返した。
光成が現場を見た。
行嗣が記録した。
あやが水を見た。
田を使う者たちから話を聞いた。
そして最後に、
宗直が決めた。
父と同じことをしたわけではない。
父と同じ答えを出したのかも分からない。
けれど、
父がしていたことの意味は、
少し分かった気がした。
「俺だけで決めたわけではありません」
宗直が言った。
「そうでしょうね」
「光成が見つけて、行嗣が記録して、あやが水を見ました」
「ええ」
「田の者たちにも聞きました」
ちよは笑った。
「それでいいのではありませんか」
宗直はうなずいた。
父のようになる必要はない。
けれど、
父から受け取ったものまで捨てる必要もない。
同じ答えを出すことが、
受け継ぐことではない。
父がいない場所で、
自分たちで見て、
自分たちで聞いて、
分からないことを確かめ、
最後は自分たちで決める。
それなら、
父がいなくても続けられる。
宗直には、
それが少しうれしかった。
「母上」
「はい」
「腹が減りました」
ちよが笑った。
「それは、お父上によく似ています」
宗直が止まった。
「結局、似ているんですか」
「そこはね」
あやの声がした。
「兄上!」
宗直が振り返る。
「何だ」
「ご飯です!」
「今行く」
「早く来ないと、光成兄上が食べます!」
奥から声が返ってきた。
「まだ食べてない!」
「『まだ』って言いました!」
「言葉尻を取るな!」
宗直は笑った。
ちよも笑った。
宗直は奥へ向かった。
父と同じではない。
それでも、
父から受け取ったものは、
ちゃんとこの家に残っていた。




