第48話 大江広元は、直成の家で昔の話をする
建保二年(1214年)、鎌倉。
「広元殿がお見えです」
その知らせを聞いたとき、
ちよは台所にいた。
「大江殿が?」
「はい」
ちよは手を止めた。
大江広元。
鎌倉の政所で長く仕事をしてきた人物である。
そして、
直成をよく知る人でもあった。
「母上」
宗直が顔を出した。
「俺が出ます」
「お願いします」
宗直が去っていく。
ちよは少し考えてから言った。
「お茶の用意をしましょう」
あやが聞いた。
「お菓子も?」
「ありますか」
「少し」
「では、少しだけ」
あやは考えた。
「大江殿は、少しで足りますか」
「何の話です?」
「お菓子です」
「知りません」
「父上なら知っていたかもしれません」
ちよは笑った。
「そんなことまで、お父上が覚えていたとは思いませんよ」
「でも、大江殿のことをよく知っていたんでしょう?」
「仕事ではね」
あやは納得したような、していないような顔をした。
ほどなくして、
広元が座敷へ通された。
「急にすまぬな」
「いえ」
ちよが頭を下げた。
「どうぞ、お気になさらず」
宗直も座っている。
光成と行嗣も来た。
あやは少し離れたところに座った。
ふみとおりんもいる。
広元は部屋を見回した。
「相変わらずだな」
宗直が聞いた。
「何がでしょう」
「人が多い」
あやが答えた。
「もっと多い日もあります」
「あや」
ちよが止めた。
広元は笑った。
「そうか」
「はい」
「なら、今日は少ない方か」
「はい」
広元はまた笑った。
ちよは、その顔を見て少し安心した。
広元がこの家へ来ると、
直成が生きていたころのことを思い出す。
仕事の話をしていたはずなのに、
いつの間にか食事をしている。
直成が何か言い、
広元が呆れ、
それでも話は続く。
そんなことが何度もあった。
今日は仕事の用向きもあった。
宗直といくつか話をしたあと、
広元は茶を口にした。
そこで話は終わるはずだった。
けれど、
あやが聞いた。
「大江殿」
「なんだ」
「父上は、仕事ができたんですか」
宗直が振り向いた。
「あや」
「何です?」
「急に何を聞く」
「気になったからです」
「聞き方があるだろう」
広元が手を上げた。
「よい」
そして、少し考えた。
「できた」
あやがうなずいた。
「やっぱり」
「ただし」
あやが顔を上げた。
広元は続けた。
「面倒だった」
全員が止まった。
ちよだけが、
少し笑った。
「母上?」
あやが気づいた。
「いえ」
「今、笑いましたよね」
「少しだけ」
宗直が広元を見た。
「父が、面倒だったのですか」
「うむ」
「どのあたりが?」
「細かい」
行嗣が少し前へ出た。
「細かい?」
「人の話を聞けば、どこまでが自分で見た話か、どこからが人に聞いた話かを分けたがる」
行嗣の目が変わった。
広元は続けた。
「書付を渡せば、日付を確かめる。名を確かめる。前の書付と違えば止まる」
光成が笑った。
「父上らしい」
「笑うところではない」
広元が言った。
「急いでいるときにやられると、本当に面倒だ」
ちよはとうとう笑った。
「分かります」
広元がちよを見る。
「そなたもか」
「家でも同じでしたから」
「そうであろうな」
「買い物を頼んでも、いくつ必要なのか聞きます」
あやが言った。
「それは聞いた方がいいでしょう」
「そうですね」
ちよは答えた。
「でも、急いでいるときにも聞くんです」
「必要なことだからでは?」
行嗣が言った。
今度は全員が行嗣を見た。
「何です?」
行嗣が聞いた。
光成が笑った。
「お前、父上に似てるな」
「どこがです」
「今のところだ」
「私は必要な確認をしただけです」
広元が行嗣を見た。
それから、ちよを見た。
「似ておるな」
「やめてください」
行嗣が言った。
部屋に笑いが起きた。
広元も笑った。
宗直が聞いた。
「でも、それで父は大江殿に認められたのでは?」
広元は茶碗を置いた。
「それだけではない」
「では?」
「分からぬと言えた」
宗直が黙った。
広元は続けた。
「役所で仕事をしているとな、分からぬと言いにくいことがある」
あやが聞いた。
「どうしてですか」
「知らぬと思われるからだ」
「知らないなら、知らないんでしょう?」
広元は一瞬止まった。
「その通りなのだがな」
あやにはよく分からない。
「なら、言えばいいのに」
「大人は、そう簡単でもない」
「変ですね」
「変だな」
広元は認めた。
ちよが少し笑った。
「あの人も、同じようなことを言っていました」
「何と?」
「知らないのに知っているふりをすると、あとでもっと困る、と」
広元はうなずいた。
「言いそうだ」
「でも」
ちよは続けた。
「本当に何でも『分かりません』と言うので、こちらが困ることもありました」
広元が笑った。
「それも分かる」
宗直が聞いた。
「仕事でも?」
「もちろんだ」
「たとえば?」
広元は少し考えた。
「昔、ある土地について書付をまとめさせたことがある」
行嗣が聞く姿勢になった。
「古い話だ。誰がどこまで権利を持っているのか、話が食い違っていた」
「はい」
「直成に、どう思う、と聞いた」
「父は何と?」
「分かりません、と言った」
光成が吹き出した。
「そのままですか」
「そのままだ」
「大江殿は怒らなかったんですか」
あやが聞いた。
「少し怒った」
「怒ったんですか」
「私は意見を聞いたのだ」
広元は苦笑した。
「すると、あやつは、分からないものをどう思うか聞かれても分からない、と言う」
宗直まで笑った。
「父上……」
「それで?」
行嗣だけは真剣だった。
「それで、何が分からないのか聞いた」
広元が答える。
「すると、片方の話しか聞いていない、と言った」
行嗣が黙った。
「もう片方にも聞いたのですか」
「聞いた」
「どうでした」
「最初の話とは違った」
部屋が少し静かになった。
広元は茶を飲んだ。
「だから、使った」
宗直が顔を上げる。
「父を?」
「そうだ」
広元の言い方は、あっさりしていた。
「正しいことを何でも知っていたからではない。知らぬことを、知っていることにしなかったからだ」
宗直は何も言わなかった。
あやが聞いた。
「父上は、間違えなかったんですか」
広元がすぐに答えた。
「間違えた」
「たくさん?」
「それなりにな」
あやは少し驚いた。
光成が聞く。
「どんな間違いを?」
「人の名を取り違えたこともある」
行嗣が顔をしかめた。
「それはまずいです」
「まずい」
「父上が?」
「そうだ」
「書類で?」
「そうだ」
行嗣の顔が本気で曇った。
あやが笑い始めた。
「行嗣兄上、父上にがっかりしました?」
「がっかりしてはいない」
「顔が」
「していない」
広元は続けた。
「日付を一日違えたこともある」
行嗣がさらに険しい顔になる。
「それもまずいです」
「だから、直した」
「自分で?」
「人に言われてな」
あやが聞いた。
「怒りました?」
「いや」
「言い訳は?」
「しなかった」
「何と言ったんです?」
広元は思い出すように少し目を細めた。
「間違えました。直します」
あやが待った。
「それだけ?」
「それだけだ」
あやは首をかしげた。
「普通ですね」
「そうだ」
広元は言った。
「普通の男だった」
部屋が静かになった。
ちよは、広元を見た。
その言葉が、
なぜか一番うれしかった。
直成が死んでから、
子どもたちは時々、父のことを大きく見すぎる。
父ならどうした。
父なら分かった。
父なら間違えなかった。
死んだ人は、
少しずつ立派になってしまう。
けれど、
ちよが知っている直成は、
そんな人ではない。
間違えた。
忘れた。
疲れて不機嫌になることもあった。
ちよの話を聞いているつもりで、
途中から仕事のことを考えていることもあった。
そして、それを指摘すると、
「すみません。もう一度お願いします」
と言った。
そんな人だった。
宗直が口を開いた。
「私は」
全員が宗直を見る。
「父上のようにならなければいけないと、思うことがあります」
ちよは黙って息子を見た。
広元も何も言わない。
「当主になってから、特に」
宗直は自分の手を見た。
「父上なら、もっと分かるのではないか。もっと上手く決めるのではないかと」
広元が聞いた。
「なぜだ」
宗直が顔を上げた。
「なぜ、と言われても」
「直成とそなたは別人だ」
「それは分かっています」
「なら、比べる必要もあるまい」
宗直は答えなかった。
広元は続けた。
「それに」
少しだけ口元を緩めた。
「そなたが思っているほど、父は立派ではない」
「大江殿」
ちよが言った。
「はい」
「もっと言ってください」
宗直が振り向いた。
「母上?」
ちよは笑っていた。
「あの人の困った話なら、私もたくさんあります」
「母上まで」
光成が笑った。
「聞きたい」
「光成」
「俺たちは知らない話が多いから」
あやも手を挙げた。
「私も聞きたいです」
行嗣も少し迷ってから言った。
「私も」
宗直は兄弟たちを見た。
「お前たちな」
「兄上も聞けばいいでしょう」
あやが言った。
広元はしばらく黙っていた。
そして、
「なら、一つだけ」
と言った。
全員が広元を見る。
「直成は、書付を探すのが下手だった」
行嗣が固まった。
「……え?」
「整理するのは細かいのに、自分で置いた場所を忘れる」
「そんなはずは」
「ある」
ちよが笑った。
「ありました」
行嗣が母を見る。
「母上まで?」
「家でもありましたよ」
「どうするんです?」
あやが聞いた。
「探します」
「普通ですね」
「普通ですよ」
「父上も?」
「一緒に探します」
「自分でなくしたのに?」
「はい」
広元が言った。
「役所でも同じだ」
光成が腹を抱えて笑った。
宗直も、とうとう笑った。
行嗣だけが納得していない。
「しかし、父上は記録を大事にしていたはずです」
「大事にしていた」
広元が答える。
「だから、なくすと大騒ぎする」
あやまで笑った。
「父上、面白い」
「本人は必死でしたよ」
ちよが言う。
「見つかったら?」
「『ここにありました』と言います」
「誰が置いたんです?」
「あの人です」
部屋に笑い声が広がった。
広元も笑っていた。
ちよは、その光景を見ていた。
直成がいなくなって六年になる。
それでも、
こうして知らなかった直成が、
時々この家へ帰ってくる。
立派な父としてではない。
歴史に残る誰かとしてでもない。
書付をなくして、
人の名を間違えて、
分からないことには分からないと言って、
周りを困らせながら仕事をしていた一人の男として。
あやが広元に聞いた。
「大江殿」
「なんだ」
「父上の話、まだありますか」
「ある」
「どのくらい?」
広元は少し考えた。
「そなたたちが聞き飽きるくらいには」
あやが笑った。
「では、また来てください」
宗直が慌てる。
「あや。大江殿は忙しい方だ」
「でも、話があるそうです」
「そういう問題ではない」
広元が笑った。
「また来よう」
あやの顔が明るくなった。
「本当ですか」
「ああ」
「お菓子を用意しておきます」
「それはありがたい」
ちよが言った。
「今度は、もう少し多くしておきます」
広元がちよを見る。
「なぜだ」
ちよは、あやを見た。
あやが答えた。
「今日は少ししか出さなかったからです」
広元は声を出して笑った。
宗直たちも笑った。
父の昔話をするのに、
立派な話ばかりでなくていい。
失敗した話も、
困らせた話も、
笑える話もあっていい。
その方が、
ちよの知っている直成に近かった。
そして宗直は、
笑っている家族の中で、
父が少しだけ、
自分と同じ高さまで降りてきたような気がした。




