第46話 まつは、初めての子を抱く
建保二年(1214年)、京。
「まつ」
声をかけられて、まつは目を開けた。
最初に見えたのは、見慣れた天井だった。
季成と暮らすようになってから、毎日のように見ている天井だ。
ただ、今日はひどく遠くにあるように見えた。
「まつ、大丈夫?」
義姉のかやだった。
「……はい」
声がかすれた。
自分の声ではないようだった。
体が重い。
力が入らない。
何が起きたのか考えようとして、
すぐに思い出した。
「子どもは?」
まつは起き上がろうとした。
「待って」
かやが止めた。
「急に起きないで」
「でも」
「大丈夫だから」
義母のよしも、すぐそばにいた。
「元気ですよ」
その言葉を聞いて、
まつの体から力が抜けた。
「……そうですか」
自分でも驚くほど小さな声が出た。
泣き声がした。
まつは顔を向けた。
小さい。
最初に思ったのは、それだった。
あまりにも小さい。
手も。
顔も。
声も。
いや、声だけは小さくなかった。
「ずいぶん元気ですね」
まつが言った。
かやが笑った。
「そこは、まつに似たのかもしれないわね」
「どういう意味ですか」
「もう言い返せるなら大丈夫ね」
よしも笑った。
まつは少しだけ口をとがらせた。
やがて、赤子がまつのそばへ連れてこられた。
「抱いてみますか」
そう言われて、
まつは両手を出した。
そして止まった。
「……どうすればいいんですか」
かやが笑った。
「まず、受け取って」
「それは分かります」
「首を支えて」
「首?」
「ここ」
「こんなに柔らかいんですか」
「赤ちゃんですから」
「知っています」
「では、力を抜いて」
「落としそうです」
「力を入れすぎても怖いですよ」
「どっちなんですか」
かやは笑っていた。
「大丈夫。私も最初はそうだったから」
その言葉で、まつは少しだけ息を吐いた。
そっと赤子を受け取る。
腕の中に重みが来た。
軽い。
なのに、
今まで抱いた何よりも重い気がした。
まつは動けなくなった。
「……この子が」
言葉が続かなかった。
赤子が目を閉じたまま、小さく口を動かした。
まつはその顔を見た。
「私の子なんですね」
「そうですよ」
よしが答えた。
まつはしばらく何も言わなかった。
うれしい。
たぶん、それでいい。
でも、それだけではなかった。
怖い。
こんなに小さなものを、自分が育てるのか。
この子が泣いたら、自分に理由が分かるのだろうか。
病気になったら。
乳を飲まなかったら。
夜に泣き続けたら。
自分は、ちゃんと母になれるのだろうか。
「まつ」
かやが言った。
「難しい顔をしてる」
「していません」
「しています」
「していません」
「なら、そういうことにしておきましょう」
「……ずるいです」
かやが笑った。
戸の向こうから、人の声がした。
まつが顔を上げた。
「季成さま?」
よしが答えた。
「ずっと待っていますよ」
「ずっと?」
「朝から」
「入ってくればいいのに」
よしとかやが顔を見合わせた。
「入っていいと言われるまで待つそうです」
まつは目を閉じた。
「……あの人は」
かやが笑った。
「呼びます?」
「お願いします」
しばらくして、
季成が入ってきた。
いつもと同じ顔だった。
少なくとも、最初はそう見えた。
けれど、歩き方が少し変だった。
「季成さま」
「はい」
「どうしたんです?」
「何がでしょう」
「歩き方です」
「普通です」
「普通ではありません」
「……少し緊張しています」
「なぜです」
季成はまつを見た。
そのあと、腕の中の赤子を見た。
「どちらも無事だと聞くまで、落ち着かなかったので」
まつは黙った。
まただ。
この人は、ときどき何の前触れもなくこういうことを言う。
「そういうことを急に言わないでください」
「すみません」
「謝ってほしいわけではありません」
「はい」
かやが、まつの顔を見た。
それから、よしを見た。
二人とも何も言わなかった。
ただ、うんうんとうなずいていた。
まつは気づかなかったことにした。
「季成さま」
「はい」
「抱きますか」
季成の顔が固まった。
「私が?」
「あなたの子でしょう」
「そうですが」
「では」
「……どうやって?」
まつは季成を見た。
季成もまつを見た。
「私に聞かないでください」
「でも、今抱いています」
「私だって、さっき初めて抱いたんです」
「そうでした」
「そうです」
季成は赤子を見た。
「難しそうですね」
「難しいです」
「怖いですね」
まつは少し驚いた。
季成が、そういうことを言うとは思わなかった。
「怖いんですか」
「怖いですよ」
季成は素直に答えた。
「こんなに小さいとは思っていませんでした」
「私もです」
「壊れそうです」
「それは私も思いました」
「泣いたらどうすれば?」
「知りません」
「まつ殿でも?」
「だから今日、母になったんです」
「そうでした」
季成は少し考えた。
かやが口を挟んだ。
「二人とも、最初から何でも分かるつもりだったの?」
まつと季成が、同時にかやを見た。
「違うんですか」
声まで重なった。
かやが吹き出した。
よしも笑った。
「違いますよ」
よしが言った。
「子どもが生まれたからといって、その日から何でも分かる父や母になるわけではありません」
まつは腕の中の赤子を見た。
「では、どうするんです?」
「覚えるんです」
かやが言った。
「この子と一緒に」
季成がうなずいた。
「なるほど」
「季成さま」
「はい」
「今ので分かったんですか」
「いえ」
「では、なぜうなずいたんです」
「分からなくても、やることは分かったので」
「何を?」
季成は赤子を見た。
「覚えます」
まつも赤子を見た。
「私も?」
「一緒に」
まつは顔を上げた。
季成は、いつもの顔をしていた。
「私も初めて父になります」
少し間を置いて、
「まつ殿だけに、先に母になってもらうわけにはいきません」
まつの顔が熱くなった。
「……季成さま」
「はい」
「そういうことを急に言わないでください」
「またですか」
「またです」
「すみません」
「だから、謝ってほしいわけではありません!」
声が少し大きくなった。
赤子が、
「ふえ」
と声を出した。
全員が止まった。
「泣きます」
季成が言った。
「見れば分かります」
「どうしましょう」
「私に聞かないでください」
「まつ殿が抱いています」
「今日初めてです!」
赤子が泣き始めた。
季成は困った。
まつも困った。
二人で赤子を見る。
かやとよしは、すぐには手を出さなかった。
「母上」
季成が言った。
「なんです?」
「これは、どうすれば?」
よしが笑った。
「まず、どうして泣いているのか考えてごらんなさい」
「分からなかったら?」
「そのときは聞きなさい」
まつが顔を上げた。
「聞いていいんですか」
よしは少し驚いた。
「もちろんですよ」
「母になったのに?」
「母になったからですよ」
まつは黙った。
その言葉を、心の中でもう一度繰り返した。
母になったから、聞いていい。
全部知っているから母になるのではない。
知らないことを覚えながら、この子と暮らしていく。
そういうことなのかもしれない。
「まつ殿」
季成が言った。
「はい」
「代わりましょうか」
まつは腕の中の赤子を見た。
「できます?」
「分かりません」
「落とさないでくださいよ」
「それは努力します」
「努力では困ります」
「では、絶対に落としません」
「最初からそう言ってください」
かやに教えてもらいながら、
まつは赤子を季成へ渡した。
季成の体が固まった。
「力を抜いて」
かやが言う。
「抜いたら落としそうです」
「首を支えて」
「ここですか」
「そこ」
「まつ殿」
「なんです?」
「これで合っていますか」
「私に聞かないでください」
「でも、私より少し先に抱きました」
「少しでしょう!」
赤子は泣いていた。
けれど、
しばらくすると、その声が小さくなった。
季成が動きを止める。
「泣きやみました」
「動きを止めない方がいいんじゃないですか」
「なぜです?」
「知りません。そんな気がします」
「では、動きます」
季成は恐る恐る赤子を揺らした。
まつはその姿を見ていた。
不思議だった。
昨日まで、ここにはいなかった。
自分と季成。
二人だった。
今日からは、三人になる。
季成が赤子を見ながら言った。
「名前ですが」
「はい」
「千寿丸で、よいですか」
まつはうなずいた。
二人で考えていた名前だった。
「千寿丸」
季成が呼んだ。
赤子は答えない。
「返事をしませんね」
「生まれたばかりですよ」
「そうでした」
「季成さま」
「はい」
「本当に大丈夫ですか」
「何がです?」
「父親です」
季成は少し考えた。
「分かりません」
まつは思わず笑った。
「そこは、大丈夫だと言ってください」
「でも、まだ何もしていませんから」
「では、私は?」
「まつ殿も今日からです」
「二人とも駄目ではないですか」
「今のところは」
「困りましたね」
「はい」
季成も笑った。
「一緒に覚えましょう」
また、その言葉だった。
今度は、まつも怒らなかった。
「はい」
小さく答えた。
よしとかやが顔を見合わせた。
二人とも、うんうんとうなずいている。
まつは気づいた。
「なんです?」
「何でもないですよ」
「今、うなずきましたよね」
「うなずいていません」
「二人ともしていました」
「気のせいです」
「絶対に――」
千寿丸がまた泣いた。
まつの言葉が止まった。
季成も固まった。
「今度は何でしょう」
「だから私に聞かないでください」
「では、母上に」
「すぐ聞くんですか」
「分からないことは聞いた方がいいでしょう」
「それはそうですけど」
よしが笑いながら近づいてきた。
その日のうちに、
まつが立派な母になったわけではなかった。
季成が立派な父になったわけでもない。
二人とも、分からないことばかりだった。
ただ、
分からないことを一人で抱える必要はなかった。
聞けばいい。
教えてもらえばいい。
疲れたら代わればいい。
そして二人で覚えていけばいい。
まつは、季成の腕の中にいる千寿丸を見た。
京へ来たとき、
自分は二階堂家から離れていくのだと思ったこともあった。
けれど、違った。
家族は離れたのではない。
増えたのだ。
まつは小さく笑った。
「季成さま」
「はい」
「鎌倉へ知らせないと」
「そうですね」
「母上、喜ぶでしょうね」
「はい」
「兄上たちは騒ぐでしょうね」
「たぶん」
「あやは……」
まつは少し考えた。
鎌倉にいる末の妹の顔が浮かんだ。
にこにこ笑いながら、
何か言いたそうにこちらを見ている顔だった。
「……何でしょう」
「何がです?」
「いえ。あやの顔が浮かんだだけです」
「元気そうでしたか」
「頭の中のあやですよ」
「そうでした」
まつは季成を見た。
それから、季成の腕の中の千寿丸を見る。
なぜだろう。
あやにこの二人を見られたら、
何か言われるような気がした。
「……まあ、いいです」
「何がです?」
「何でもありません」
まつはそう言って、
季成と千寿丸を見た。
その顔がまた少し赤くなったことには、
自分では気づいていなかった。




