幕間13 ちよは、太郎が眠らない夜に直成と交代する
文治三年(1187年)、鎌倉。
太郎が生まれてから、ちよの母は、よく二階堂の家へ来るようになった。
初めての子である。
ちよには分からないことが多かった。
太郎が泣けば、
「お腹が空いたんじゃないの」
と言われる。
乳を飲ませても泣けば、
「おむつを見てごらん」
と言われる。
それでも泣けば、
「赤子は泣くものですよ」
と言われた。
最後の答えだけは、ちよにはあまり役に立たないように思えた。
「どうして泣いているのか分からないから困っているのに」
そう言うと、母は笑った。
「分からないこともあるの」
母親になれば、赤子のことは何でも分かる。
ちよはどこかで、そう思っていた。
ところが、自分の母でさえ分からないことがあるらしい。
それを知っただけでも、少し気が楽になった。
ただし、母には、もう一つ分からないことがあった。
太郎ではない。
直成さんである。
◇
ある日の昼。
母が家へ来ると、直成さんが太郎のおむつを替えていた。
母は戸口で止まった。
直成さんも止まった。
太郎だけが足を動かしていた。
「……何をしているのですか」
母が聞いた。
直成さんは太郎を見た。
おむつを見た。
それから母を見た。
「おむつを替えています」
「それは見れば分かります」
「はい」
「どうして、あなたが?」
直成さんは困った顔をした。
「濡れていたので」
母がちよを見た。
ちよは少し離れたところで、着物を畳んでいた。
「ちよ」
「はい」
「あなたは何をしているの」
「着物を畳んでいます」
「それも見れば分かります」
母はもう一度、直成さんを見た。
「父親でしょう」
「はい」
「仕事へ行かなくていいのですか」
「今日は、まだ出なくてよいので」
「だからって……」
母はそこで言葉を止めた。
父親が自分の子を抱くことはある。
顔を見ることもある。
あやすこともある。
けれど、ちよが実家で見てきた暮らしでは、赤子の細かな世話は母や女たちがしていた。
父が、おむつを替えるところを見た覚えはない。
母には、直成さんがずいぶん変わった夫に見えているらしい。
「あなた」
ちよが言った。
「はい」
「母が驚いています」
「どうしてでしょう」
母がさらに驚いた。
「どうしてって」
直成さんは本当に分かっていない顔をしていた。
「僕の子ですから、僕が替えてもよいと思うのですが」
母は黙った。
ちよも黙った。
太郎だけが足をばたばたさせた。
「……そういうものですかねえ」
母が言った。
「よその家では、どうしているのか分かりませんが」
直成さんが答えた。
母はちよを見た。
「変わった人と一緒になったね」
ちよは少し考えた。
「それは前から知っています」
直成さんがこちらを見た。
「悪く言っているわけではありません」
「そうですか」
「たぶん」
「たぶんですか」
母が笑った。
太郎も新しいおむつになった。
◇
その日の夜。
母は自分の家へ帰った。
そして太郎は泣いていた。
「おお、おお」
ちよは太郎を抱いて、背中を軽く叩いた。
泣きやまない。
乳は飲ませた。
おむつも替えた。
暑くないか確かめた。
寒くないかも確かめた。
母に教えられたことは、一通りやった。
それでも泣く。
「どうしたの」
太郎は答えない。
「昼間、おばあさまが言ったでしょう。赤子は泣くものだって」
泣いている本人に言っても仕方がなかった。
「でも、少しくらい理由を教えてくれてもいいでしょう」
太郎は大きな声で泣いた。
「それでは分かりません」
「何が分からないんです?」
後ろから声がした。
ちよは振り返った。
直成さんが立っていた。
「起きたんですか」
「これだけ元気なら、聞こえますよ」
「明日も仕事でしょう」
「ええ」
「寝ていてください」
直成さんは太郎を見た。
「直成さんは?」
「私?」
「明日、寝ていられるんですか」
ちよは黙った。
もちろん、そんなわけはない。
太郎は明日もいる。
朝になったら育児が終わるわけではない。
「代わります」
直成さんが両手を出した。
「でも」
「僕にも、できることはありますから」
ちよは眉を寄せた。
「母が聞いたら、また変な顔をしますよ」
「父親が、おむつを替えていたからですか」
「夜中まで赤子を抱いていたら、もっと驚きます」
直成さんは首をかしげた。
「父親なのに?」
「父親だからです」
まるで話が通じていない。
ちよは少しおかしくなった。
直成さんは、ときどきこうなる。
ちよが当たり前だと思っていることを、不思議そうな顔で聞き返す。
「私の実家では、母や女たちがしていました」
ちよが言った。
「乳は、私にしかあげられませんし」
「そうですね」
「でも、抱くのは?」
「できます」
「おむつは?」
「替えられます」
「寝かせるのは?」
「……うまくいくかは、分かりません」
直成さんは太郎を見た。
「でも、抱いている間、直成さんは横になれるでしょう」
ちよは直成さんを見た。
理屈だけ聞けば、そのとおりだった。
けれど、何かが違う。
何が違うのかと言われると、うまく説明できない。
「変ですよ」
「何がです?」
「直成さんがです」
「またですか」
「またです」
太郎が泣いた。
直成さんが両手を出した。
「その変な人に、太郎を抱かせてください」
ちよは少し笑った。
「では、お願いします」
直成さんの腕へ移った瞬間、太郎はさらに大きな声で泣いた。
「嫌われていますね」
「父親でしょう」
「父親だから、すぐ泣きやむわけでもないようです」
直成さんは太郎を抱き直した。
「首を、もう少し支えてください」
「こうですか」
「ええ。怖ければ、座って」
「そうします」
直成さんは素直に座った。
太郎は泣き続けた。
◇
ちよは横になった。
けれど、目を閉じても眠れなかった。
太郎の声が聞こえる。
直成さんの声も聞こえる。
「どうしたの」
「お腹ではないんだね」
「おむつも、さっき替えたし」
しばらくして、
「……分からないな」
という声がした。
ちよは目を開けた。
直成さんは太郎を抱いたまま、ゆっくり揺れていた。
「直成さん」
「うん?」
「何か、知っているのかと思いました」
「泣きやませる方法ですか」
「はい」
直成さんは太郎を見た。
「赤ん坊が泣くのは知っています」
「私も知っています」
「抱けば泣きやむことがあるのも」
「泣きやんでいません」
「そうですね」
二人で太郎を見た。
太郎は泣いている。
「今夜は、うまくいきませんね」
ちよが言った。
「なかなか」
ちよは笑った。
少しだけ、肩の力が抜けた。
直成さんが太郎を見ながら言った。
「父親って、いつから父親になるんでしょうね」
ちよは天井を見た。
「生まれたときからではないんですか」
「そういうことになりますね」
「では、太郎が生まれた日からでしょう」
「でも、分からないことばかりです」
「私だって分かりません」
「ずっと一緒にいると、少しずつ分かるのでしょうか」
ちよは起き上がった。
「私も、そう思っていました」
直成さんがこちらを見た。
「母親になったら、分かるものだと」
「……ええ」
「でも、私だって初めてなんです。母が来てくれなかったら、もっと困っています」
「うん」
「母に教えてもらっても、分からないことがあります。この子がどうして泣いているのかだって」
ちよは少し間を置いた。
「母親なのに分からない、と考えると、余計に困るんです」
直成さんは何も言わなかった。
太郎を抱いたまま聞いていた。
「私も、分からないまま母になったんです」
ようやく、ちよは言った。
「それが、少し怖いんです」
直成さんはうなずいた。
「……うん」
少ししてから、静かに続けた。
「僕も、分からないまま父になりました」
「二人とも分からなかったら困るでしょう」
「困りますね」
「どうするんです」
直成さんは少し考えた。
「分かる人に聞きます」
「母に?」
「ええ。お母上にも」
「それでも分からなかったら?」
「一つずつ確かめます」
「それでも分からなかったら?」
直成さんは太郎を見た。
「二人で困りましょう」
ちよは吹き出した。
「何も解決していません」
「一人で困るよりは、よいでしょう」
太郎の泣き声が、少し小さくなった。
二人とも黙った。
直成さんが動きを止める。
太郎がまた泣いた。
「動きを止めないでください」
「ああ」
直成さんはまた揺れ始めた。
泣き声が小さくなる。
「こうしていると、少し落ち着くようですね」
「では、続けてください」
「寝るまで?」
「寝るまで」
直成さんは太郎を抱いたまま、ゆっくり揺れ続けた。
◇
しばらくして、ようやく太郎が眠った。
「寝ました」
直成さんが小さな声で言った。
「たぶん」
「置きましょうか」
「もう少し」
「起きそうですか」
「そんな気がします」
直成さんはそのまま座っていた。
ちよは目を閉じた。
今度は眠れそうだった。
「次に泣いたら?」
直成さんが聞いた。
ちよは目を閉じたまま答えた。
「交代です」
「うん」
「その次は、また直成さん」
「分かりました」
「でも、乳だけは無理ですよ」
「そこは、お願いします」
ちよは笑った。
◇
翌朝、ちよの母がやって来た。
部屋へ入って、足を止めた。
直成さんが壁にもたれ、太郎を抱いていた。
目の下には、うっすら隈ができている。
「……まだ抱いていたのですか」
「途中で置いたら起きまして」
母は呆れた顔をした。
「それで、ずっと?」
「妻と交代で」
「あなた、今日も仕事でしょう」
「はい」
「男の人が、そこまでするものですか」
直成さんは眠そうな顔で母を見た。
「よその家のことは分かりません」
そして腕の中の太郎を見た。
「でも、僕の子ですから」
母はしばらく何も言わなかった。
「……変わった人ですね」
「昨日も、そう言われました」
「でしょうね」
ちよは布団の中で笑った。
母は太郎を受け取ると、直成さんに言った。
「出かけるまで、少し寝なさい」
「ですが」
「今は私がいるでしょう」
「……ありがとうございます」
直成さんは素直に横になった。
あっという間に眠った。
母が小さな声で言った。
「本当に変わった人だね」
ちよは眠っている直成さんを見た。
「はい」
それから、母の腕の中で眠っている太郎を見た。
「でも、助かります」
母は少し笑った。
「それならいいんですよ」
母がいてくれる。
直成さんもいる。
それでも分からないことは、たくさんある。
ちよはまだ、母になったばかりだった。
直成さんもまだ、父になったばかりだった。
二人とも上手ではない。
太郎が泣く理由さえ、最後まで分からない夜がある。
分かる人に聞く。
できる人がやる。
疲れたら交代する。
それでも分からなければ、一緒に困る。
ちよは、そうやって少しずつ母になっていった。
隣で眠っている直成さんも、太郎を抱く手つきが、最初の日より少しだけ慣れていた。




