第42話 まつは、家族が増えるかもしれないと知る
建暦三年(1213年)、京。
朝から、飯の匂いが妙に気になった。
まつは膳の前で、しばらく箸を持ったまま止まっていた。
「まつ」
向かいから季成が呼ぶ。
「何です?」
「食べないのですか」
「食べます」
「さっきから同じところを見ています」
「見てません」
「見ています」
「季成様」
「はい」
「最近、そればっかりですね」
季成は少し考えた。
「まつがよく止まるので」
「私が?」
「はい」
「そんなことありません」
そう言って、まつは汁を口へ運ぼうとした。
けれど。
匂いが近づいた瞬間、胸の奥がむっとした。
まつは椀を戻した。
季成の表情が変わる。
「どうしました?」
「何でもありません」
「今、食べるのをやめました」
「今日は少し食べたくないだけです」
「具合が悪い?」
「悪くありません」
「本当に?」
「本当です」
まつは飯を一口食べた。
食べられないわけではない。
ただ。
いつもと違う。
季成はまだこちらを見ている。
「季成様」
「はい」
「そんなに見ないでください」
「心配なので」
「大丈夫です」
「ならいいのですが」
季成はそれ以上言わなかった。
聞く。
でも、まつが大丈夫だと言えば、一度は待つ。
そこが季成だった。
◇
季成が仕事へ出たあと。
まつは衣を畳んでいた。
一枚。
二枚。
三枚。
そこで手が止まる。
数えてみる。
もう一度数える。
「……あれ」
月のものが、遅れている。
少しくらいなら、これまでもあった。
鎌倉から京へ来たころにも乱れたことがある。
今回も、そうかもしれない。
最近はいろいろあった。
鎌倉では戦があった。
和田義盛が死んだ。
その知らせを受けてから、何日も落ち着かなかった。
だから。
遅れていても、おかしくはない。
そう考えた。
けれど。
朝の匂いを思い出した。
妙に眠い日がある。
いつもなら気にならないものが気になる。
そして。
月のものが来ていない。
まつは畳んだ衣を見た。
「……まさか」
口にした途端、急にその言葉が大きくなった。
子ども。
自分と季成の。
まつは腹に手を置いた。
何も分からない。
見た目も変わっていない。
動くわけでもない。
それでも。
もし。
ここに。
まつは慌てて手を離した。
「いや、まだ分からない」
父なら確認しろと言うだろう。
行嗣なら日を数える。
宗直なら、分からないうちは決めつけるなと言う。
光成なら、自分の目で確かめようとして母に止められるかもしれない。
あやなら。
たぶん最初に騒ぐ。
そこまで考えて、まつは少し笑った。
そして。
笑ったら、急に鎌倉が遠く感じた。
こういうとき。
母ならどうしたのだろう。
◇
昼過ぎ。
まつは、よしのところへ向かった。
途中で、小さな声がした。
「まつ様」
見ると、ゆきがこちらへ歩いてくる。
ゆきは、季成の兄・信成とかやの娘で、まつにとっては姪にあたる。
まだ三つか四つ。
歩き方にも、どこか幼さが残っている。
その後ろから、母のかやが来た。
「ゆき、走らないで」
「走ってません」
「今のは走っていました」
「少しだけ」
ゆきはまつのそばまで来ると、衣の端をつかんだ。
「まつ様、どこへ行くの?」
「よし様のところ」
「わたしも」
「ゆき」
かやが呼ぶ。
ゆきが振り返る。
「今はまつ殿に用があるかもしれないでしょう」
ゆきは少し考えた。
「あとで?」
「あとでなら聞いてみましょう」
「分かった」
ゆきは素直に手を離した。
少し離れたところでは、もう一人の子どもが知成のそばで何かの紙を見ていた。
信成とかやの長男、千代丸である。
まつにとっては、ゆきの兄にあたる甥だった。
建暦三年(1213年)のこのころには六つか七つほど。
妹よりはずっと落ち着いているが、まだ子どもらしいところも多い。
【藤原家の家系図】
「千代丸は何を見ているんです?」
まつが聞く。
かやがそちらを見る。
「また何か面白そうな紙を見つけたのでしょう」
「季成様の筆を持っていくのも、千代丸ですか?」
「それは、たいていゆきです」
「たいていなんですね」
「季成殿自身が置き場所を忘れることもありますから」
まつは少し笑った。
この家には、すでに子どもがいる。
千代丸。
ゆき。
笑う。
泣く。
走る。
食べこぼす。
眠くなれば機嫌が悪くなる。
そういう毎日がある。
もし。
自分にも。
また腹へ手を置きそうになって、やめた。
かやが気づいた。
「まつ殿?」
「少し、聞きたいことがあります」
かやはすぐに表情を変えなかった。
「私に?」
「よし様にも」
「では、一緒に行きましょう」
◇
よしの部屋へ入る。
よしは、まつとかやを見た。
「どうしました?」
「少し……聞きたいことがあります」
よしは手にしていた布を置いた。
「どうぞ」
それだけだった。
まつは座った。
けれど、なかなか言えない。
よしも、かやも待っている。
「……あの」
「はい」
「月のものが、少し遅れていて」
よしの顔が少し変わった。
かやもまつを見る。
「どのくらい?」
まつは答えた。
よしがうなずく。
「ほかには?」
「朝、飯の匂いが少し嫌でした」
「食べられない?」
「食べられます。でも、いつもとは違います」
「体が重いとか、眠いとかは?」
「あります」
よしはすぐに結論を言わなかった。
「そう」
それから、まつを見る。
「子どもかもしれませんね」
まつは動かなかった。
自分でも考えていた。
それでも、誰かの口から聞くと、まるで違った。
「……やっぱり?」
「まだ、そうだと決まったわけではありません」
よしは言った。
「でも、そう考えてもおかしくはないと思います」
まつは自分の腹を見た。
何も変わらない。
「分からないものですね」
「最初は、そんなものですよ」
よしが言う。
すると、かやが少し笑った。
「私も、千代丸のときはなかなか分かりませんでした」
まつが顔を上げる。
「そうだったんですか」
「はい。疲れているだけだと思っていて」
「ゆきのときは?」
「そのときは、少し早く気づきました」
「一度経験していたから?」
「たぶん」
かやは答えた。
「でも、二人とも同じではありませんでした」
「違うんですか」
「違いました。だから、まつ殿も私と同じとは限りません」
まつは少し驚いた。
教えるのではなく。
自分の話として話す。
かやは、いつもそうだった。
「怖いですか」
よしが聞いた。
まつは考えた。
うれしい。
たぶん。
でも、それだけではない。
「少し」
正直に言った。
「うれしいと思います」
「はい」
「でも、本当だったら、本当に私が母になるんだと思うと」
まつは言葉を探した。
「変な感じです」
よしは笑わなかった。
「そうですね」
それだけだった。
かやも言う。
「最初から母親らしくならなくていいと思います」
まつが見る。
「かや殿も?」
「千代丸が生まれた日、私はこの子をちゃんと育てられるのかと思いました」
「今は?」
「今も、ときどき思います」
まつは思わず笑った。
「二人もいるのに?」
「二人いるからです」
今度はよしも笑った。
◇
そのとき。
外から声がした。
「母上」
千代丸だった。
「どうしたの?」
かやが返す。
戸口から千代丸が顔を出す。
「ゆきが季成叔父上の筆を持っていきました」
かやが目を閉じた。
「また?」
「はい」
まつが吹き出した。
「季成様の筆?」
「はい」
千代丸が真面目に答える。
「叔父上が探しています」
まつは笑いをこらえられなくなった。
「それ、ゆきのせいだったんですね」
かやも笑う。
「全部ではないと思います」
「全部じゃないんですね」
「季成殿自身がなくすこともありますから」
「やっぱり」
よしまで笑っている。
千代丸は何がおかしいのか分からない顔をしていた。
「母上、ゆきを止めなくていいの?」
「行きます」
かやが立つ。
その前に、まつへ言った。
「また聞きたいことがあれば、いつでも聞いてください」
「はい」
「私のときの話でよければ」
「お願いします」
まつは思った。
京へ来たばかりのころ。
自分は、この家で暮らせるのだろうかと思っていた。
今。
自分はこの家で。
子どもができたかもしれないと相談している。
そして。
この家には、すでに二人の子どもがいる。
千代丸。
ゆき。
もし本当に子どもができたら。
この二人にとっても、従弟か従妹が増える。
家族が。
また一人。
増える。
その考えが、初めてはっきりとまつの中へ入ってきた。
◇
夕方。
家へ戻ると、季成はもう帰っていた。
机の前に座っている。
そして。
筆が一本増えていた。
「季成様」
「はい」
「それ、見つかったんですか」
季成が筆を見る。
「はい」
「ゆきが持っていたそうですね」
季成が少し黙った。
「聞きましたか」
「聞きました」
「今回は私のせいではありません」
「今回は、ですね」
「そこを強調します?」
「します」
季成は少し困ったように笑った。
まつも笑った。
それから。
季成を見る。
言おうか。
今。
言ってしまおうか。
「まつ?」
「何です?」
「何かありました?」
季成は、まつの顔を見ている。
まつは少し迷った。
「……ありました」
季成の表情が変わる。
「具合が悪い?」
「そうじゃありません」
「では?」
まつは口を開いた。
けれど。
まだ。
「少し待ってください」
「何を?」
「話すのを」
季成は驚いたようだった。
それでも。
「分かりました」
と答えた。
「気になりません?」
「なります」
「聞かないんですか」
「まつが待ってほしいと言ったので」
また、それだった。
まつは季成を見る。
この人に。
どう言おう。
文なら考えてから書けた。
婚姻を決めるときも。
季成への問いも。
何度も考えて紙に書けた。
けれど。
これは。
紙ではなく。
自分の口で言いたい。
まつは、そっと腹に手を置いた。
季成はそれを見た。
けれど。
まだ何も言わなかった。
まつは少しだけ笑った。
「季成様」
「はい」
「明日まで待てます?」
季成は少し考えた。
「たぶん」
「たぶんなんですか」
「かなり気になっているので」
「では、今夜になるかもしれません」
「それなら助かります」
「何が?」
「眠れなくなるので」
まつは思わず笑った。
この人にも。
早く言いたい。
でも。
もう少しだけ。
自分の中で。
子どもかもしれない、という言葉を。
抱えていたかった。
まつはもう一度、腹に手を置いた。
もし。
本当に。
ここにいるなら。
季成と自分の子どもだ。
そして。
この家にとっても。
新しい家族になる。
まつは季成を見た。
季成は何も聞かずに待っている。
――季成様に、どう言おう。
それが今。
一番困っていることだった。




