幕間12 太郎は、初めての泣き声で直成を慌てさせる
文治三年(1187年)、鎌倉。
その朝から、二階堂家にはいつもより多くの女たちが出入りしていた。
子を取り上げることに慣れた女。
湯や布を用意する者。
身の回りを手伝う者。
そして、ちよの母のさわ。
ちよには、誰が何をしているのかを一つずつ確かめる余裕などなかった。
痛みが来る。
少し遠ざかる。
また来る。
その繰り返しだった。
「母上」
「何?」
「まだ?」
さわは、娘の顔を見た。
「まだ」
「さっきもそう言いました」
「産まれるときは産まれるから」
「それまで?」
「待つの」
ちよは目を閉じた。
「待つしかないんですね」
「そういうこともあるのよ」
それを聞いたとき、ちよは少しだけ直成さんのことを思い出した。
あの人は、待つのが苦手だ。
分からないことがあれば聞く。
確かめる。
人に尋ねる。
紙に書く。
それでも分からなければ、もう一度考える。
けれど今日は、直成さんにできることはほとんどない。
「あの人は?」
痛みが引いたわずかな間に、ちよは聞いた。
さわの口元が少し緩んだ。
「外にいるよ」
「何してます?」
「待ってる」
「ちゃんと?」
さわは少し考えた。
「それは、あとで本人に聞きなさい」
何かあったらしい。
ちよはそれ以上聞かなかった。
すぐに次の痛みが来たからだ。
◇
それからどれだけ経ったのか、ちよには分からなかった。
朝なのか、昼なのか。
誰かが水を持ってきた。
誰かが声をかけた。
さわの手が近くにあった。
ちよは言われたとおりに息をしようとした。
けれど、うまくできているのかも分からない。
「母上」
「ここにいるよ」
その返事を聞くだけで、少しだけ安心した。
母も、昔これを経験したのだ。
一度ではない。
兄たちを三人。
そして自分を。
以前、母は言っていた。
最初は怖かった、と。
四人産んでも、全部分かるわけではない、と。
その言葉を今になって、ちよは少しだけ理解した。
分からなくても。
やるしかないことがある。
◇
そして、声がした。
細く、短い声だった。
ちよは最初、それが何なのか分からなかった。
もう一度。
今度はさっきより大きく。
赤子が泣いている。
「……生まれた?」
さわが笑った。
「生まれたよ」
ちよは長く息を吐いた。
身体から力が抜けていく。
「無事?」
「無事」
「本当に?」
「本当に」
ちよは目を閉じた。
それだけでよかった。
しばらくして、小さな赤子がそばへ連れてこられた。
思っていたより、ずっと小さい。
顔が赤い。
目を閉じている。
小さな手が動いた。
「……小さい」
さわが笑う。
「生まれたばかりだからね」
ちよは、その手を見た。
指がある。
本当にいる。
昨日まで腹の中にいた子が、今は目の前にいる。
不思議だった。
「男の子だよ」
さわが言った。
「男の子……」
ちよは同じ言葉を繰り返した。
まだ、それが自分の子だということさえ、うまく実感できなかった。
◇
少し落ち着いてから、直成さんがようやく入ってきた。
顔を見るなり、ちよは思った。
ひどい顔。
何日も寝ていないような顔をしている。
ちよが産んでいる間、外で待っていたはずなのに。
「あなた」
「はい」
返事だけは妙に早い。
直成さんはちよを見る。
それから赤子を見る。
またちよを見る。
「大丈夫ですか」
「大丈夫です」
「本当に?」
「私も、母上に何度も確かめました」
「僕も、聞いて安心したいんです」
「では、大丈夫です」
直成さんがようやく息を吐いた。
その視線が、赤子へ移る。
しばらく動かなかった。
「どうしました?」
「……本当に、いるんですね」
ちよは少し笑った。
「いますよ」
「僕たちの子が」
直成さんは言葉を探していた。
珍しい。
この人は説明が長いことはあっても、説明そのものが出てこないことはあまりない。
さわが横から言った。
「直成殿。抱きますか」
直成さんが固まった。
「僕が?」
「父親でしょう」
「はい」
「では」
「少し待ってください」
さわが止まる。
直成さんは赤子を見た。
「どう抱けばよいでしょうか」
ちよは思わず笑った。
◇
さわに教えられながら、直成さんは恐る恐る赤子を抱いた。
頭を支える。
身体を支える。
力を入れすぎない。
そして、固まった。
「あなた」
「はい」
「息してます?」
「僕が?」
「あなたが」
直成さんが息をした。
ちよは笑った。
さわも笑う。
直成さんは赤子を見ている。
「指が」
「ありますよ」
「五本」
「数えたんですか」
「ええ」
「足も?」
直成さんは少し考えた。
「あとで」
「あとで数えるんですね」
そのとき、赤子の顔が少し歪んだ。
直成さんの表情も変わった。
「泣きそうです」
「泣くでしょうね」
次の瞬間、大きな声が上がった。
直成さんの肩がびくっと動く。
「どうしました」
「分かりません」
「赤子ではなくて、あなたに聞いてます」
「僕も、びっくりして」
ちよはとうとう声を上げて笑った。
赤子は泣いている。
直成さんは困っている。
これまで何でも調べようとしてきた人が、目の前の小さな子ども一人に完全に負けている。
「何で泣いているんでしょう」
直成さんが真剣に聞いた。
「私にも分かりません」
「お腹でしょうか」
「さっき飲みました」
「寒いのか、それとも暑いのか――」
「あなた」
「はい」
「全部一度に聞かないでください」
「……そうですね」
直成さんは赤子を見る。
赤子は答えない。
小さく、直成さんが言った。
「本人に聞けないんですね」
ちよはまた笑った。
「まだ無理ですよ」
直成さんも少しだけ笑った。
◇
そのあと、ちよの兄たちも顔を出した。
三人とも、妙に満足そうな顔をしていた。
一番上の兄が赤子を見る。
「よく泣くな」
二番目がうなずく。
「声が大きい」
三番目も言う。
「元気に育つぞ、これは」
ちよは三人を見る。
「まだ生まれたばかりですよ」
「生まれたばかりでこれだけ泣けば十分だ」
「何が十分なんです?」
「元気そうだという話だ」
そのとき、一番上の兄が直成さんを見る。
「それにしても直成殿」
「はい」
「よく歩いたな」
ちよが顔を向けた。
「歩いた?」
直成さんが黙った。
二番目の兄が言う。
「戸口から壁まで」
三番目が続く。
「壁から戸口まで」
一番上が言う。
「何度も」
直成さんが小さく反論した。
「そんなに歩いてはいません」
三人が同時に言った。
「歩いてた」
ちよは直成さんを見る。
「何してたんです?」
「……待っていました」
「歩きながら?」
「座ってもいました」
一番上の兄が笑う。
「座って、すぐ立った」
二番目も笑う。
「俺も最初のときは似たようなものだったけどな」
三番目が言った。
「男は何もできないから」
直成さんがそちらを見る。
「本当に何も?」
一番上の兄が答えた。
「中には慣れた者がいる」
「水を運ぶとか」
「足りていた」
「何かあったら」
「呼ばれる」
「呼ばれなければ?」
三人が口をそろえた。
「待つ」
直成さんは黙った。
二番目の兄が笑った。
「つらいだろ」
「ええ」
即答だった。
三人の兄が笑う。
「分かる」
「俺もそうだった」
「妻の方がよほど大変なのにな」
直成さんは、ちよを見る。
「……本当に」
ちよは疲れた顔で笑った。
「分かったなら、今日は私の方が大変だったということで」
「はい」
「では、あとで水を取ってください」
直成さんはすぐにうなずいた。
◇
赤子の呼び名は、太郎に決まった。
長男だから太郎。
それを聞いた兄たちはまた喜んだ。
「太郎か」
「いいじゃないか」
「元気に育つぞ」
さわも笑った。
「そうね。元気に育つといいね」
直成さんは腕の中の赤子を見た。
「太郎」
呼びかける。
太郎は答える代わりに、また大きな声で泣いた。
一番上の兄が笑う。
「ほら、元気だ」
ちよも笑った。
「皆、それしか言わないんですね」
「生まれたばかりの子に、ほかに何を言えというんだ」
それもそうかもしれない。
元気に育つ。
今は、それで十分だった。
◇
夜になった。
兄たちは帰り、さわも別の部屋で休んだ。
家の中がようやく静かになる。
と思ったら、太郎が泣いた。
直成さんが起きる。
少しして眠る。
また泣く。
直成さんが起きる。
ちよも眠れない。
「直成さん」
「はい」
「さっきから太郎が泣くたびに起きてません?」
「起きてしまいます」
「寝てください」
「でも」
「私も寝たいです」
直成さんは口を閉じた。
少しして、太郎がようやく静かになった。
直成さんは、眠った太郎の顔をずっと見ている。
「直成さん」
「うん?」
「今度は何です?」
「何でもありません」
「寝ないんですか」
「寝ます」
「全然寝る顔じゃないです」
「もう少しだけ」
ちよは横になったまま、直成さんを見る。
直成さんは太郎を見ていた。
うれしそうだった。
でも、それだけではないようにも見えた。
何かを確かめているような。
長い道を歩いてきて、ようやく着いた場所を見ているような。
「何を見てるんです?」
直成さんは、しばらく答えなかった。
それから言った。
「家族だなと思って」
ちよは目を開けた。
「家族?」
「うん」
直成さんは太郎を見る。
「ちよさんがいて」
少し間を置く。
「太郎がいて」
また黙る。
「三人いるんですね」
ちよは笑った。
「そうですね」
しばらく静かな時間が続いた。
そして、直成さんがこちらを見た。
「ありがとう」
「今日は何に対してです?」
直成さんはすぐには答えなかった。
太郎を見る。
ちよを見る。
それから、とても静かな声で言った。
「……帰るところを、くれて」
ちよは黙った。
この人は、ときどき、ちよには全部分からない言葉を口にする。
遠いところを見ているような顔をする。
昔のことを思い出しているような顔をする。
けれど、今は聞かなかった。
「ここが、直成さんの家でしょう」
直成さんは少し目を伏せた。
それから、笑った。
「……そうですね」
太郎が小さく身じろぎした。
直成さんは、その小さな手を見る。
ちよも太郎を見る。
二人で始まった家が、今日、三人になった。
「直成さん」
「うん?」
「私も、ありがとう」
直成さんがちよを見る。
「何にです?」
ちよは少し考えた。
「帰ってきてくれる人が、増えたから」
直成さんは少し驚いた。
ちよは笑う。
「直成さんと、太郎。二人です」
直成さんも笑った。
その横で、太郎が小さく声を出した。
二人とも、そちらを見る。
直成さんは太郎の小さな手を見ながら、もう一度だけ言った。
「……ありがとう」
今度は、ちよは何に対してなのか聞かなかった。




