幕間11 ちよは、母に初めての子どものことを聞く
文治二年(1186年)、鎌倉。
翌日、ちよは実家へ向かった。
久しぶり、というほどではない。
嫁いでからも、まったく行き来がなくなったわけではなかった。兄たちも時々顔を出すし、母のさわも、用があれば訪ねてくる。
ただ、今日は少し違った。
聞きたいことがある。
しかも、兄たちには、まだあまり聞かれたくない。
ちよは実家の門をくぐる前に、一度だけ息を吐いた。
「母上だけ、いてくれればいいんだけど」
その願いは、すぐに外れた。
◇
「ちよ!」
門を入ってすぐ、一番上の兄に見つかった。
「来るなら言えよ」
「今来たんだから仕方ないでしょう」
「直成殿は?」
「仕事です」
「一人で来たのか?」
「そうです」
「何かあったのか?」
ちよは兄を見る。
早い。
まだ何も言っていない。
そこへ二番目の兄まで出てきた。
「どうした」
「何が?」
「兄上が大声を出すから」
「ちよが来た」
「見れば分かる」
さらに奥から三番目の兄も顔を出す。
ちよは三人を見た。
昔からこうだった。
三人の兄の下に生まれた末の妹。
兄たちは、ちよが転べば三人で寄ってきた。泣けば誰が泣かせたのか聞いた。少し遠くへ行こうとすれば、誰かがついてきた。
子どものころは、それが普通だと思っていた。
今考えると、かなり過保護だった。
「母上は?」
ちよが聞いた。
一番上の兄が答える。
「中にいる」
「では、母上に用があります」
「俺たちには?」
「ありません」
三人が同時に不満そうな顔をした。
ちよは少し笑った。
「何です、その顔」
「何かあるんだろ」
「あります」
「なら聞く」
「兄上たちには聞きません」
「どうして」
ちよは少し考えた。
「男だから」
三人とも黙った。
二番目の兄が言う。
「それなら仕方ない」
一番上の兄は、まだ納得していない顔をしていた。
◇
さわは、家の奥にいた。
娘の顔を見ると少し驚いた。
「どうしたの」
「少し聞きたいことがあって」
さわはちよを、上から下まで静かに見た。
それだけで、ちよは何となく落ち着かなくなった。
「何です?」
さわは答えず、座るように手で示した。
ちよが座ると、さわも向かいに座った。
「飯は?」
「朝は少し」
「少し?」
「匂いが気になって」
さわの目が少し変わった。
「いつから?」
「数日前」
「月のものは?」
ちよは黙った。
さわは娘の顔を見て、それから少しだけ笑った。
「そう」
ちよが眉を寄せる。
「まだ何も言ってません」
「言ってるようなものよ」
「分かるんですか」
「四人産んでるからね」
ちよは母を見る。
三人の兄。
その下に自分。
確かに、母は自分よりずっと先に同じことを経験している。
「たぶん、子どもができたと思います」
ちよが言った。
さわはすぐには大きく喜ばなかった。
まず、
「身体は?」
と聞いた。
「大丈夫です」
「吐いたりは?」
「まだ」
「眠い?」
「少し」
「腹が痛むことは?」
「ありません」
さわは一つずつ聞いた。
直成さんと同じように質問している。
でも、何か違った。
直成さんは、分からないものを必死に確かめようとしていた。
母は、知っていることと分からないことを分けているように見えた。
「今のところは、無理をしないこと」
さわが言った。
「でも、何もかもやめて寝ていなくては、と思い詰めなくていいわ。つらいときには、ちゃんと言うのよ」
ちよは思わず笑った。
「夫にも聞かせたい」
「何を?」
「昨日から、水まで運ぼうとするんです」
さわが止まった。
「直成殿が?」
「はい」
「もう?」
「はい」
さわは少し黙った。
それから笑った。
「心配性なのね」
「ものすごく」
「意外」
「私もそう思いました」
◇
さわは、ちよの腹を見るわけでもなく、ただ娘の顔を見ながら言った。
「初めてなら、分からないことばかりでしょう」
「母上も?」
「当たり前でしょう」
ちよは少し驚いた。
「母上は、最初から何でも知っていたのかと思ってました」
「そんなわけないじゃない」
さわは呆れたように言う。
「あなたの一番上の兄を産むときなんて、毎日怖かったわよ」
「怖かった?」
「怖かった」
さわがそう言うのは、少し意外だった。
ちよが子どものころ、母はいつも落ち着いていた。
父の前では少し控えめに話す。食事では父を先に立てる。客が来れば一歩下がる。
家の中で大声を出す人でもなかった。
ちよはずっと、母は迷わない人なのだと思っていた。
でも、違ったらしい。
「父上には?」
ちよが聞く。
「何を?」
「怖いって言ったんですか」
さわは少し考えた。
「全部は言わなかったわね」
「どうして?」
「あなたの父上は、心配すると余計に口を出す人だったから」
ちよは吹き出した。
「あの人と同じ」
「そうなの?」
「心配すると、調べ始めます」
「何を?」
「何でもです」
ちよは、直成さんが持ち帰った書き付けの話をした。
五人に聞いたこと。
食べ物。
していいこと。
してはいけないこと。
誰自身の経験なのかも書いてほしいと頼んだこと。
さわは途中から笑っていた。
「そんなに調べたの」
「まだ増やすつもりでした」
「熱心ね」
「熱心すぎます」
「でも、あなたのことが大事なんでしょう」
ちよは少し黙った。
「……たぶん」
「そこは、たぶんなの?」
「本人がよく使うので」
さわが笑った。
◇
少しして、ちよは母へ聞いた。
「母上」
「何?」
「夫を立てるって、どういうことです?」
さわが少し驚いた。
「急ね」
「昔から、母上は父上を立てていたでしょう」
「そうね」
「私は、母上みたいではない気がして」
さわは娘を見る。
「直成殿に何か言われた?」
「いいえ」
ちよは首を振った。
「何でも話を聞いてくれます。むしろ、私が言いすぎるくらいです」
「それならいいじゃない」
「でも、母上はもっと父上に合わせていた気がします」
さわは少し考えた。
「そう見えたのね」
「違うんですか」
「そうしてきたところは、あるわ」
さわは静かに答えた。
「私は、あなたの父上を夫として立ててきた。それは本当」
ちよは聞いていた。
「でもね」
さわは続ける。
「立てることと、何も言わないことは違うのよ」
ちよは少し目を開いた。
「言うべきことは言う?」
「言うわ」
「父上に?」
「もちろん」
さわは少し笑った。
「人前で何でも言い合う必要はないでしょう。でも、家の中まで黙っていたら、困っていることも伝わらないもの」
ちよは考えた。
それは、自分と直成さんにもよく分かる話だった。
「それに」
さわは言う。
「男の人には分からないこともあるでしょう」
「子どものこと?」
「それもある」
「では、そういうときは?」
「話すのよ」
「話す?」
「分からない人に、黙って分かってもらおうとしても、難しいでしょう」
ちよは少し笑った。
どこか、直成さんに似ている。
いや。
自分がそう考えるのは、直成さんと暮らしているからだけではないのかもしれない。
この家で母を見て育ったことも、自分の中に残っているのかもしれない。
◇
そのとき、戸の向こうから声がした。
「ちよー」
一番上の兄だった。
さわがため息をつく。
「何でしょうね」
「たぶん聞き耳です」
「昔から変わらないわね」
今度は二番目の兄の声。
「終わったかー」
三番目も続く。
「何の話だったんだー」
ちよが立ち上がろうとした。
さわが言う。
「待ちなさい」
「何です?」
「あなた、自分で言う?」
「何を?」
さわがちよを見る。
ちよも分かった。
兄たちに。
子どもができるかもしれないことを。
ちよは少し考えた。
「母上から言ってください」
さわが驚く。
「どうして」
「三人いっぺんに来るから」
「それは来るでしょうね」
「今は、母上に話を聞いていたいんです」
さわが笑った。
「あなた、末っ子のままね」
「嫁ぎましたけど」
「嫁いでも妹は妹でしょう」
ちよは反論できなかった。
◇
結局、さわが兄たちを呼んだ。
三人が入ってくる。
ちよを見る。
さわを見る。
またちよを見る。
一番上の兄が言った。
「何だ」
さわは落ち着いて言った。
「ちよに子どもができたかもしれない」
三人が止まった。
ちよは昨日の直成さんを思い出した。
紙を落として。
立って。
何をすればよいのか分からなくなった。
そして目の前の兄三人も、似たような顔をしていた。
「……子ども?」
一番上。
「ちよに?」
二番目。
「本当に?」
三番目。
ちよはため息をついた。
「たぶんです」
三人が一斉に立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
ちよが聞く。
三人とも止まる。
誰も答えない。
ちよは思わず笑った。
「あの人と同じじゃない」
「何がだ」
「昨日も、急に立ちました」
「直成殿が?」
「はい」
「大丈夫なのか、あの人」
「兄上たちに言われたくありません」
さわが口元を押さえて笑っていた。
◇
帰り際、さわは、ちよを門まで送った。
「また何かあったら来なさい」
「はい」
「分からないことがあっても、全部一人で決めなくていいから」
ちよはうなずいた。
少し歩いてから振り返る。
「母上」
「何?」
「母上も、分からなかったんですね」
さわは少し笑った。
「今でも分からないことだらけよ」
「四人育てても?」
「四人とも違ったもの」
ちよは、その言葉を覚えておこうと思った。
同じ親から生まれても、同じようには育たない。
同じ母でも、同じ子育てにはならない。
「じゃあ」
ちよが言った。
「私も、そのとき考えます」
「そうしなさい」
さわは笑った。
ちよも笑った。
◇
家へ戻ると、直成さんがいた。
予定より早い。
ちよが驚く。
「どうしたんです?」
「今日は早く終わりました」
「本当に?」
「ええ」
直成さんは少し間を置いた。
「……お母上は、何と?」
やっぱり気になっていたらしい。
戸を閉め、二人だけになってから、ちよは答えた。
「無理はしない。でも、何もできないと思わなくていいそうです」
直成さんがうなずく。
「そうですか」
「水を運ぶたびに、心配しなくても大丈夫です」
「でも、重いものは僕が持ちますよ」
「では、そのときは頼みます」
直成さんは、少しだけ物足りなさそうだった。
ちよは笑った。
「直成さん。そんな顔をしないでください」
「どんな顔です?」
「まだ何か手伝いたい、という顔です」
直成さんも少し笑った。
「……そうかもしれません」
ちよは家の中へ入った。
二人の家。
そこへ、もう一人が来るかもしれない。
でも、その子を育てるのは、二人だけではないのかもしれない。
母がいる。
兄たちがいる。
客たちもいる。
きっと、これからもいろいろな人が、この家へ入ってくる。
ちよはそんなことを思った。
そして、その夜。
直成さんは昨日より少しだけ、ちよが動くのを気にしなくなった。
ほんの少しだけだった。




