幕間10 ちよは、家族が増えることを直成に伝える
文治二年(1186年)、鎌倉。
朝の飯の匂いが、いつもと違った。
炊き上がった米も、汁も、昨日までと同じはずだった。
けれど、今日は妙に鼻につく。
ちよは椀を置いた。
食べたくない。
自分でそう思って、少し驚いた。
朝飯を前にして、こんなふうになることはあまりない。
そして、月のものが遅れていることを、改めて考えた。
ちよは、自分の腹へ目を落とした。
見たところは、何も変わらない。
けれど、もしかすると。
そう思うと、さっきまで気になっていた匂いのことが、一度頭から抜けた。
◇
直成さんには、すぐには話さなかった。
まだ、自分でも分からなかったからだ。
数日待つ間、直成さんはいつもどおり仕事へ出て、帰ってきた。
その朝も、紙をまとめながら言った。
「ちよさん。今日は康信殿と、親能殿が来るかもしれません」
「二人ですね」
「広元殿も」
「では、三人」
「ええ。夕餉までになるかもしれません」
以前より、そこは早く言うようになった。
ちよは少し笑った。
「分かりました。多めに考えておきます」
「ありがとう」
直成さんがほっとした顔をした。
人の返事や、話の食い違いにはよく気づく人だ。
けれど、妻の身体に起きていることは、見ただけでは分からない。
当たり前なのだけれど。
少しくらい気づかないだろうかと、ちよは勝手なことを思った。
◇
その日の客は、康信と広元の二人だった。
親能は来なかった。
仕事の話は長くなり、二人は夕餉を食べて帰った。
客を送り出し、戸を閉める。
直成さんと片づけを済ませると、家の中が静かになった。
直成さんは残っていた紙をまとめている。
ちよは、少し離れたところから夫を見ていた。
何と言えばよいのだろう。
考えていると、直成さんが振り向いた。
「どうしました?」
「何がです?」
「さっきから、何か言いかけているようなので」
そこには、気づくのか。
ちよは膝の上で手を重ねた。
「直成さん」
「うん」
「たぶん、子どもができます」
直成さんの手から、紙が一枚落ちた。
二人とも、その紙を見た。
けれど、直成さんは拾わなかった。
「……直成さん?」
「子どもが」
「はい」
夫の目が、ちよの腹へ向く。
それから顔へ戻ってきた。
「僕たちに?」
「ほかに誰の子だと思っているんです」
直成さんが慌てて首を振った。
「そういう意味ではなくて。その、本当に――」
「まだ、たぶんです」
直成さんはうなずいた。
そして、急に立ち上がった。
「どこへ行くんです?」
「……何か、することがあるかと思って」
ちよは、とうとう吹き出した。
「今は、座っていてください」
直成さんは座った。
落ちた紙は、そのままだった。
◇
夫が何も言わないので、ちよは少し心配になった。
「うれしく、ありませんか」
直成さんがすぐ顔を上げた。
「うれしいです」
思っていたより、はっきりした声だった。
ちよが驚くと、直成さんは少し声を落とした。
「とても、うれしいです。ただ、何から言えばよいのか分からなくて」
「そうですか」
「うん」
その返事のあと、夫の口元が緩んだ。
一度緩むと、なかなか戻らない。
ちよはその顔を見て、少し照れた。
「笑っていますよ」
「……そうですね」
直成さんは自分の口元へ手をやり、それから、また笑った。
「ちよさんは、いつからそう思っていたのですか」
「数日前からです。飯の匂いが、少し嫌になって」
「今も?」
「朝ほどではありません」
夫の顔に、心配が混じった。
「つらいときは、言ってください」
「まだ、何とも分かりませんよ」
「子どものことが分からなくても、身体がつらいことは教えてほしいです」
ちよは、少し黙った。
言われてみれば、それは別の話だった。
「では、言います」
「うん」
「だから、今からずっと心配そうな顔をするのは、やめてくださいね」
直成さんが困ったように笑った。
◇
翌朝、ちよが水を運ぼうとすると、直成さんが立った。
「僕が持ちます」
「仕事へ行く支度は?」
「まだ少しあります」
手を伸ばしてくるので、ちよは器を渡した。
直成さんはそれを運び、戻ってくると、今度はちよが立つのを見た。
「今度は、どこへ?」
「戸を開けるんです」
「ああ」
ちよは夫を見た。
直成さんもこちらを見る。
「直成さん。何もできなくなったわけではありませんよ」
「それは分かっています」
「立つたびに見られると、私まで気になります」
「……気をつけます」
返事は素直だった。
けれど、ちよが外へ出ようとすると、また顔が上がった。
ちよは笑ってしまった。
「手伝ってほしいときは、頼みます」
「うん」
「それまでは、仕事の支度をしてください」
「分かりました」
直成さんはようやく、まとめかけの紙へ戻った。
ただし、水だけは、もう一度足してからだった。
◇
数日後、直成さんは書き付けを持って帰ってきた。
ちよは、その紙を見た。
「何です?」
「子どもが生まれるまでのことを、少し聞いてきました」
「どなたに?」
「何人かに」
「何人です?」
直成さんが少し間を置いた。
「五人ほど」
ちよは夫を見た。
「少し?」
「人によって、言うことが違うので」
見せてもらうと、確かに違っていた。
食べられるものが変わったという話。
何も変わらなかったという話。
身体が重くなるまでは、いつものようにしていたという話。
誰が言ったのかは、書いてある。
けれど、読むほどに、どうすればよいのか分からなくなった。
「これは、奥方ご本人のお話ですか」
「こちらは、そうです。そちらは、ご家族から」
「では、それも書いておいてください。私も読むんですから」
直成さんがうなずき、脇へ書き足した。
ちよは、紙を見ながら言った。
「皆さん、同じではないんですね」
「そうらしいです」
「では、全部を私に当てはめないでくださいね」
「……そうですね」
直成さんは、ようやく紙から顔を上げた。
ちよは少し笑った。
「母上にも、聞いてみようと思います」
「お母上に?」
「ええ。兄が三人いますから」
母は四人産んでいる。
今の自分には、聞きたいことがいくつもあった。
直成さんも、何か聞きたいことがある顔をした。
ちよは先に言った。
「五人分の質問を、一度にしないでくださいね」
「そんなに多くは――」
「今、少し考えましたね」
「……少し」
ちよは笑った。
◇
その夜、夕餉の量はいつもより少なかった。
ちよが食べていると、直成さんの目がこちらへ向く。
一口食べる。
また、目が向く。
ちよは箸を止めた。
「見られると、食べにくいです」
直成さんがすぐに自分の椀へ目を落とした。
「すみません」
ちよが笑うと、夫も少し笑った。
「ここは、謝ってよいところですね」
「そうですね」
二人で食べ進めた。
食べられるものは、食べられる。
それを確かめるように、ちよはゆっくり箸を動かした。
少しして、腹へ手を置く。
やはり、外から見て分かる変化はない。
「直成さん」
「うん?」
「本当に子どもがいたら、この家は三人になりますね」
直成さんが家の中を見回した。
客が来れば、すぐに五人にも六人にもなる。
椀も増えた。
紙は、もっと増えた。
けれど、ここで家族として暮らしているのは、今は二人だった。
「そうですね」
直成さんが言った。
少しして、もう一度、小さく繰り返す。
「三人に、なるんですね」
夫は笑っていた。
ちよは、その顔をしばらく見ていた。
◇
休む前、直成さんが尋ねた。
「明日、お母上のところへ行きますか」
「はい。そのつもりです」
「僕も一緒に行ってよいでしょうか」
ちよは夫を見た。
「仕事は?」
「都合をつけられるか、確かめます」
「無理はしなくていいですよ」
「でも、一緒に話を聞きたいです」
ちよは少し考え、それからうなずいた。
「では、行けそうなら」
直成さんがうれしそうに返事をした。
灯りを落としたあと、隣から声がした。
「ちよさん」
「何です?」
「話してくれて、ありがとう」
ちよは暗がりの向こうを見た。
「それは、話しますよ」
「うん」
「直成さんの子どもでもあるんですから」
少し間があった。
それから、夫の柔らかい声が返ってきた。
「そうですね」
ちよは、そっと腹へ手を置いた。
まだ、分からないことばかりだった。
自分の身体がどう変わるのかも、子どもの顔も知らない。
けれど、どうしてよいか分からなくなるほど喜んでいる人が、隣にいる。
ちよは、少し笑って目を閉じた。
明日は、母に会いに行こう。




