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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第四部 まつのいない家――和田の名が遠くなるころ 建暦元年〜建暦三年(1211〜1213年)
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幕間10 ちよは、家族が増えることを直成に伝える

文治二年(1186年)、鎌倉。


朝の飯の匂いが、いつもと違った。


炊き上がった米も、汁も、昨日までと同じはずだった。

けれど、今日は妙に鼻につく。


ちよは椀を置いた。


食べたくない。


自分でそう思って、少し驚いた。

朝飯を前にして、こんなふうになることはあまりない。


そして、月のものが遅れていることを、改めて考えた。


ちよは、自分の腹へ目を落とした。


見たところは、何も変わらない。


けれど、もしかすると。


そう思うと、さっきまで気になっていた匂いのことが、一度頭から抜けた。


     ◇


直成さんには、すぐには話さなかった。


まだ、自分でも分からなかったからだ。


数日待つ間、直成さんはいつもどおり仕事へ出て、帰ってきた。


その朝も、紙をまとめながら言った。


「ちよさん。今日は康信殿と、親能殿が来るかもしれません」

「二人ですね」

「広元殿も」

「では、三人」

「ええ。夕餉までになるかもしれません」


以前より、そこは早く言うようになった。


ちよは少し笑った。


「分かりました。多めに考えておきます」

「ありがとう」


直成さんがほっとした顔をした。


人の返事や、話の食い違いにはよく気づく人だ。

けれど、妻の身体に起きていることは、見ただけでは分からない。


当たり前なのだけれど。


少しくらい気づかないだろうかと、ちよは勝手なことを思った。


     ◇


その日の客は、康信と広元の二人だった。


親能は来なかった。


仕事の話は長くなり、二人は夕餉を食べて帰った。


客を送り出し、戸を閉める。

直成さんと片づけを済ませると、家の中が静かになった。


直成さんは残っていた紙をまとめている。


ちよは、少し離れたところから夫を見ていた。


何と言えばよいのだろう。


考えていると、直成さんが振り向いた。


「どうしました?」

「何がです?」

「さっきから、何か言いかけているようなので」


そこには、気づくのか。


ちよは膝の上で手を重ねた。


「直成さん」

「うん」

「たぶん、子どもができます」


直成さんの手から、紙が一枚落ちた。


二人とも、その紙を見た。


けれど、直成さんは拾わなかった。


「……直成さん?」

「子どもが」

「はい」


夫の目が、ちよの腹へ向く。


それから顔へ戻ってきた。


「僕たちに?」

「ほかに誰の子だと思っているんです」


直成さんが慌てて首を振った。


「そういう意味ではなくて。その、本当に――」

「まだ、たぶんです」


直成さんはうなずいた。


そして、急に立ち上がった。


「どこへ行くんです?」

「……何か、することがあるかと思って」


ちよは、とうとう吹き出した。


「今は、座っていてください」


直成さんは座った。


落ちた紙は、そのままだった。


     ◇


夫が何も言わないので、ちよは少し心配になった。


「うれしく、ありませんか」


直成さんがすぐ顔を上げた。


「うれしいです」


思っていたより、はっきりした声だった。


ちよが驚くと、直成さんは少し声を落とした。


「とても、うれしいです。ただ、何から言えばよいのか分からなくて」

「そうですか」

「うん」


その返事のあと、夫の口元が緩んだ。


一度緩むと、なかなか戻らない。


ちよはその顔を見て、少し照れた。


「笑っていますよ」

「……そうですね」


直成さんは自分の口元へ手をやり、それから、また笑った。


「ちよさんは、いつからそう思っていたのですか」

「数日前からです。飯の匂いが、少し嫌になって」

「今も?」

「朝ほどではありません」


夫の顔に、心配が混じった。


「つらいときは、言ってください」

「まだ、何とも分かりませんよ」

「子どものことが分からなくても、身体がつらいことは教えてほしいです」


ちよは、少し黙った。


言われてみれば、それは別の話だった。


「では、言います」

「うん」

「だから、今からずっと心配そうな顔をするのは、やめてくださいね」


直成さんが困ったように笑った。


     ◇


翌朝、ちよが水を運ぼうとすると、直成さんが立った。


「僕が持ちます」

「仕事へ行く支度は?」

「まだ少しあります」


手を伸ばしてくるので、ちよは器を渡した。


直成さんはそれを運び、戻ってくると、今度はちよが立つのを見た。


「今度は、どこへ?」

「戸を開けるんです」

「ああ」


ちよは夫を見た。


直成さんもこちらを見る。


「直成さん。何もできなくなったわけではありませんよ」

「それは分かっています」

「立つたびに見られると、私まで気になります」

「……気をつけます」


返事は素直だった。


けれど、ちよが外へ出ようとすると、また顔が上がった。


ちよは笑ってしまった。


「手伝ってほしいときは、頼みます」

「うん」

「それまでは、仕事の支度をしてください」

「分かりました」


直成さんはようやく、まとめかけの紙へ戻った。


ただし、水だけは、もう一度足してからだった。


     ◇


数日後、直成さんは書き付けを持って帰ってきた。


ちよは、その紙を見た。


「何です?」

「子どもが生まれるまでのことを、少し聞いてきました」

「どなたに?」

「何人かに」

「何人です?」


直成さんが少し間を置いた。


「五人ほど」


ちよは夫を見た。


「少し?」

「人によって、言うことが違うので」


見せてもらうと、確かに違っていた。


食べられるものが変わったという話。

何も変わらなかったという話。

身体が重くなるまでは、いつものようにしていたという話。


誰が言ったのかは、書いてある。

けれど、読むほどに、どうすればよいのか分からなくなった。


「これは、奥方ご本人のお話ですか」

「こちらは、そうです。そちらは、ご家族から」

「では、それも書いておいてください。私も読むんですから」


直成さんがうなずき、脇へ書き足した。


ちよは、紙を見ながら言った。


「皆さん、同じではないんですね」

「そうらしいです」

「では、全部を私に当てはめないでくださいね」

「……そうですね」


直成さんは、ようやく紙から顔を上げた。


ちよは少し笑った。


「母上にも、聞いてみようと思います」

「お母上に?」

「ええ。兄が三人いますから」


母は四人産んでいる。


今の自分には、聞きたいことがいくつもあった。


直成さんも、何か聞きたいことがある顔をした。


ちよは先に言った。


「五人分の質問を、一度にしないでくださいね」

「そんなに多くは――」

「今、少し考えましたね」

「……少し」


ちよは笑った。


     ◇


その夜、夕餉の量はいつもより少なかった。


ちよが食べていると、直成さんの目がこちらへ向く。


一口食べる。

また、目が向く。


ちよは箸を止めた。


「見られると、食べにくいです」


直成さんがすぐに自分の椀へ目を落とした。


「すみません」


ちよが笑うと、夫も少し笑った。


「ここは、謝ってよいところですね」

「そうですね」


二人で食べ進めた。


食べられるものは、食べられる。

それを確かめるように、ちよはゆっくり箸を動かした。


少しして、腹へ手を置く。


やはり、外から見て分かる変化はない。


「直成さん」

「うん?」

「本当に子どもがいたら、この家は三人になりますね」


直成さんが家の中を見回した。


客が来れば、すぐに五人にも六人にもなる。

椀も増えた。

紙は、もっと増えた。


けれど、ここで家族として暮らしているのは、今は二人だった。


「そうですね」


直成さんが言った。


少しして、もう一度、小さく繰り返す。


「三人に、なるんですね」


夫は笑っていた。


ちよは、その顔をしばらく見ていた。


     ◇


休む前、直成さんが尋ねた。


「明日、お母上のところへ行きますか」

「はい。そのつもりです」

「僕も一緒に行ってよいでしょうか」


ちよは夫を見た。


「仕事は?」

「都合をつけられるか、確かめます」

「無理はしなくていいですよ」

「でも、一緒に話を聞きたいです」


ちよは少し考え、それからうなずいた。


「では、行けそうなら」


直成さんがうれしそうに返事をした。


灯りを落としたあと、隣から声がした。


「ちよさん」

「何です?」

「話してくれて、ありがとう」


ちよは暗がりの向こうを見た。


「それは、話しますよ」

「うん」

「直成さんの子どもでもあるんですから」


少し間があった。


それから、夫の柔らかい声が返ってきた。


「そうですね」


ちよは、そっと腹へ手を置いた。


まだ、分からないことばかりだった。

自分の身体がどう変わるのかも、子どもの顔も知らない。


けれど、どうしてよいか分からなくなるほど喜んでいる人が、隣にいる。


ちよは、少し笑って目を閉じた。


明日は、母に会いに行こう。

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