第41話 北条義時は、勝っても笑わない
建暦三年(1213年)、鎌倉。
戦が終わった翌日。
鎌倉の町には、まだ昨日の音が残っていた。
道には踏み荒らされた跡があり、壊れたものがあり、いつもなら人が行き交う場所にも妙な空白があった。
戦が終わったからといって、町がすぐ元へ戻るわけではない。
二階堂家でも、それは同じだった。
朝。
光成は門の掛け木を見ていた。
「外すの?」
あやが聞いた。
「一本だけ」
「全部じゃないの?」
「全部はまだ早い」
おりんが後ろから言う。
「昨日まで二本でしたよね」
「だから一本に減らす」
「半分にしたから安全、という話ではありません」
「でも減らした」
「そこは褒めるところですか?」
光成は少し考えた。
「昨日の俺なら一本も外さなかった」
あやが言う。
「じゃあ進歩したね」
「そうだろ」
おりんがため息をついた。
「本人たちで納得しないでください」
少しだけ笑いが起きた。
戦は終わった。
でも。
だからこそ、家の中では少し笑っていたかった。
◇
宗直と行嗣は、朝から御所へ向かった。
戦の最中も仕事は多かった。
けれど。
戦が終わったあとは、別の仕事が増えた。
誰が死んだのか。
誰が生き残ったのか。
誰がどこにいたのか。
どの話が確かなのか。
書かなければならないことが、一気に増えた。
行嗣は、積まれた紙を見ていた。
「これ、全部ですか」
近くにいた宗直が答える。
「全部じゃない」
「まだあるんですか」
「ある」
行嗣は少し黙った。
「戦が終わったのに」
宗直も紙を見る。
「終わったから増えるものもある」
そのとき。
奥から、大江広元が出てきた。
広元も疲れていた。
普段から穏やかな顔をする人だったが、今日は特に口数が少ない。
行嗣が頭を下げる。
「広元殿」
広元は紙の束を見る。
「多いか」
「はい」
「これからもっと増える」
行嗣が思わず聞いた。
「勝ったのにですか」
広元は行嗣を見る。
「勝ったからだ」
行嗣は黙った。
広元は続ける。
「戦っている間は、まず生き残ることを考える」
紙を一枚取る。
「終われば、そのあとを決めなければならない」
誰がいなくなったのか。
何が残ったのか。
誰がどの役目を引き継ぐのか。
どの書付を残すのか。
広元はそこまで説明しなかった。
でも。
行嗣には何となく分かった。
戦が終わったあとにも。
仕事は続く。
むしろ。
戦のあとだからこそ、決めなければならないことが増える。
◇
その日の昼すぎ。
宗直は北条義時のところへ呼ばれた。
義時は座っていた。
いつもより疲れて見えた。
勝った側の人だった。
和田義盛は死んだ。
和田方は敗れた。
戦だけを見れば。
義時は勝った。
けれど。
宗直が部屋へ入ったとき。
義時は笑っていなかった。
「宗直」
「はい」
義時は手元の書付を見る。
「この名前は確認できたか」
「はい」
「こちらは?」
「まだです」
「では、まだ書くな」
「承知しました」
宗直は少し迷った。
それから言った。
「終わりましたね」
義時の手が止まった。
少しの間。
何も言わなかった。
それから。
「戦はな」
それだけ言った。
宗直は、それ以上続けなかった。
祝う言葉を言う気にはなれなかった。
義時も。
求めているようには見えなかった。
少しして。
義時が言う。
「次だ」
宗直が見る。
「まだ、やることがある」
「はい」
それだけだった。
宗直は頭を下げた。
勝った人の背中には。
勝ったあとの仕事が乗っていた。
◇
御所の一角では、実朝も人の報告を受けていた。
将軍だった。
この戦いで幕府側が勝った以上。
その中心にいる人でもある。
けれど。
実朝は、勝利を喜ぶようには見えなかった。
報告を聞き。
何度か短くうなずく。
それだけだった。
近くにいた行嗣は、余計なことを言わなかった。
ただ。
実朝が一度だけ、外へ目を向けたのを見た。
そこには。
昨日まで戦いの音がしていた鎌倉がある。
若い将軍が何を考えていたのか。
行嗣には分からない。
分からないから。
決めつけなかった。
ただ。
笑ってはいなかった。
それだけを覚えておこうと思った。
◇
北条政子も。
いつもより静かだった。
昔から鎌倉を知っている人だった。
頼朝の時代から。
多くの御家人を見てきた。
和田義盛も、その一人だった。
政子は、宗直と少し言葉を交わした。
「家は無事?」
「はい」
「そう」
それから少し間を置いて。
「皆、無事なのね」
「はい」
それだけだった。
和田義盛については。
何も言わなかった。
でも。
宗直には。
言わないことにも意味があるように感じた。
昔から知る人が。
また一人いなくなった。
そのことを。
わざわざ言葉にしなくても。
分かる人はいる。
◇
夕方。
行嗣は広元のそばで書付を整理していた。
名前を書く。
また名前を書く。
昨日まで生きていた人の名前もある。
行嗣の筆が止まった。
広元が気づく。
「どうした」
「この人も、書くんですよね」
「誰だ」
行嗣が名前を見せる。
広元は一度見る。
「書け」
「でも」
「何だ」
「亡くなっています」
広元は行嗣を見る。
「だから書く」
行嗣は黙った。
広元は続ける。
「いなくなったからといって、いなかったことにはならない」
行嗣の手が止まる。
父なら。
どうしただろう。
また。
そんなことを考えた。
直成なら。
たぶん書いただろう。
誰がいたのか。
何をしたのか。
どうなったのか。
嫌なことでも。
残しただろう。
行嗣が小さく言う。
「父上も、書いたでしょうか」
広元は少し考えた。
「書いただろうな」
行嗣が見る。
広元は少しだけ口元を動かした。
「嫌そうな顔をして」
行嗣も少し笑った。
「分かります」
「私も分かる」
それだけだった。
でも。
少しだけ。
紙の上の名前が。
ただの名前ではなくなった気がした。
◇
二階堂家では。
光成が、まだ掛け木を一本残していた。
おりんが見る。
「まだ外さないんですか」
「今日は残す」
「明日は?」
「明日考える」
「毎日それを言うつもりですか」
「必要なら」
あやが横から言う。
「兄上、父上なら何て言うと思う?」
光成が少し考えた。
「何のために残すんですか、って聞く」
「じゃあ何のため?」
光成は戸を見る。
「安心するため」
おりんが言う。
「では一本だけで安心できるなら、今日はそれでいいです」
光成が驚く。
「いいのか」
「今日は」
「明日は?」
「明日考えます」
あやが笑った。
「二人とも同じこと言ってる」
ちよも笑った。
◇
宗直と行嗣が帰ってきたのは、日が落ちてからだった。
ふみが宗直の顔を見る。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「食べました?」
宗直は黙った。
ふみの目が細くなる。
「宗直様」
「少し」
「それは食べてない人の言い方です」
「広元殿も食べてなかった」
「広元殿は関係ありません」
「はい」
あやが笑う。
「兄上、今日も負けたね」
「何に?」
「ふみ姉上に」
「勝負してない」
ふみが言う。
「勝負なら私が勝ちます」
宗直が見る。
「そこは言うんだ」
「はい」
少しだけ。
家の中が明るくなった。
行嗣も座る。
ちよが飯を出す。
「今日はどうだった?」
宗直は少し考えた。
「忙しかった」
「それだけ?」
「戦のあとだから」
「勝ったのに?」
あやが聞いた。
宗直は妹を見る。
「勝ったから、だそうだ」
「誰が言ったの?」
「広元殿」
行嗣が言う。
「戦が終わると、紙が増えるそうです」
あやが嫌そうな顔をする。
「私は勝っても紙はいらない」
行嗣が笑う。
「そういう話じゃない」
「分かってる」
あやは少し考えた。
「北条殿は、喜んでた?」
宗直の箸が止まった。
光成も見る。
ちよも聞いている。
宗直は答えた。
「笑ってはいなかった」
「勝ったのに?」
「ああ」
あやが首をかしげる。
「どうして?」
宗直は少し考えた。
「分からない」
あやが言う。
「聞かなかったの?」
「聞けなかった」
少し間があった。
宗直は続ける。
「たぶん、勝っただけでは終わらないんだと思う」
光成が聞く。
「何が残る」
「人が死んだ」
宗直は答えた。
「昔から知っている人もいる。仕事も残る。決めなきゃいけないことも増える」
ちよが言う。
「勝ったら、全部元に戻るわけじゃないものね」
宗直はうなずいた。
「うん」
あやは少し黙った。
それから。
「じゃあ、勝った人も嫌なんだね」
誰もすぐには答えなかった。
ちよが言う。
「そういう人もいるでしょうね」
断定はしなかった。
でも。
あやはそれで納得したようだった。
◇
少しして。
食事が始まった。
光成が大きい魚を見る。
あやがすぐ言う。
「それ、私の」
「今日は何もしてない」
「見た」
「見るくらいいいだろ」
「昨日も同じこと言った」
おりんが言う。
「光成様、自分のがありますよ」
「分かってる」
宗直が笑う。
「戦が終わっても、そこは変わらないな」
光成が言い返す。
「兄上は食べてから言え」
ふみが見る。
「それは私も思います」
宗直が黙る。
行嗣が言う。
「意見が一致しましたね」
宗直が弟を見る。
「お前は黙って食え」
「はい」
また笑いが起きた。
戦は終わった。
和田義盛は帰ってこない。
町には傷が残っている。
御所には仕事が残っている。
北条義時は勝った。
でも。
笑ってはいなかった。
そして。
二階堂家では。
今日も飯を食べていた。
悲しいことは。
悲しいまま。
苦いものは。
苦いまま。
それでも。
暮らしは続く。
◇
寝る前。
宗直が戸を見た。
掛け木は一本。
「まだ残してるのか」
光成が答える。
「今日まで」
「明日は?」
「明日考える」
宗直は少し笑った。
「父上みたいだな」
光成も笑う。
「それ、褒めてる?」
「半分」
「残り半分は?」
「面倒」
奥からちよの声がした。
「そこまで似なくていいわよ」
兄弟が笑う。
あやも笑う。
家の中に。
また声が戻った。
戦のあとに残るものは。
紙や傷だけではなかった。
誰かを失った記憶も。
父から受け取った考え方も。
今日も一緒に飯を食べた家族の声も。
全部。
この家に残っていく。
【和田合戦のあと】
和田合戦が終わっても、幕府の仕事はそこで終わりません。
戦死者や生き残った人々の確認、御家人たちの処遇、役目や所領、屋敷など、戦のあとには多くの実務が残ります。
また、勝った側にとっても、長く同じ幕府を支えてきた御家人たちが失われたことまで消えるわけではありません。
この物語では、北条義時や源実朝、北条政子らの内心を史実として断定しません。
ただ、戦の直後に彼らが置かれた立場と、二階堂家から見える姿を通じて、「勝ったからすべてが明るく終わるわけではない」という戦後の重さを描いています。
そして、戦が終わったあとも、鎌倉の政治と暮らしは続いていきます。




