第38話 宗直は、父ならどうするかを考える
建暦三年(1213年)、鎌倉。
宗直は、その夜、帰ってこなかった。
二階堂家では、それ自体は珍しいことではない。幕府の仕事が立て込めば、御所に残ることもある。急な書付の確認が入り、そのまま夜を越すこともあった。
けれど、昨日は少し違った。
泉親衡の謀反の疑いに、和田一族の名が出たあとだった。
朝。
宗直の席だけが空いている。
あやは飯を食べながら、何度もその席を見た。
「兄上、まだ帰ってこないね」
「そうね」
ふみはいつもと同じように汁をよそった。
あやがじっと顔を見る。
「心配じゃないの?」
「心配よ」
「そう見えない」
ふみは少し考えてから、あやの前へ椀を置いた。
「ずっと心配している顔をしていたら、宗直様が早く帰ってくる?」
「……来ない」
「では、朝ご飯を食べます」
あやは納得したような、していないような顔で箸を取った。
光成が横から言う。
「兄上は昔から帰れないことが多いからな」
「光成様」
おりんが見る。
「はい」
「今、それを言う必要があります?」
「……ありません」
「では食べてください」
「はい」
行嗣が少し笑った。
ちよも笑った。
こういう朝だった。
心配はしている。
でも、腹は減る。
飯は冷める。
子どもたちは起きる。
何かが起きそうな日でも、暮らしまで止めるわけにはいかなかった。
◇
昼前。
御所から使いが来た。
ふみが一番に立った。
「宗直様は?」
「無事です」
使いの男が先に言った。
ふみの肩が、ほんの少しだけ下がった。
「今日は戻れます?」
「まだ分かりません。調べることが増えております」
「何か伝言は?」
男は少し困った顔をした。
「心配するな、と」
ふみは黙った。
あやが横から聞く。
「それだけ?」
「……それだけです」
男は申し訳なさそうだった。
ふみはため息をついた。
「宗直様らしいですね」
「そうなのですか」
「はい。必要なことだけ言えば足りると思っている人です」
ちよが笑う。
「足りてる?」
「足りません」
ふみは即答した。
行嗣が言う。
「飯を食べたかどうかは必要な情報だと思います」
「でしょう?」
ふみが行嗣を見る。
光成が口を挟む。
「御所で忙しいんだから仕方ないだろ」
おりんが今度は光成を見る。
「光成様も同じことをしそうですね」
「俺はもう少し書く」
「本当に?」
「……たぶん」
あやが笑った。
「みんな、たぶんばっかり」
使いの男まで少し笑った。
緊張していた部屋が、一瞬だけいつもの二階堂家に戻る。
ふみは紙を取り出した。
「返事を書きます」
あやが覗き込む。
「何て?」
ふみは短く書いた。
――飯は食べましたか。
あやが読む。
「それだけ?」
「それだけでいいの」
「宗直兄上より短い」
「たまにはいいでしょう」
◇
そのころ。
宗直は御所で、何枚もの書付を見ていた。
人の名。
聞き取った話。
誰と会っていたか。
誰から何を聞いたか。
同じことを書いているようで、少しずつ違う。
和田一族の者の名がある。
けれど。
名があるからといって、すぐに同じ扱いにしていいわけではない。
宗直は一枚の紙を置いた。
別の紙を取る。
「これは誰から聞いた話です?」
近くにいた役人に尋ねる。
「捕らえた者の一人からだ」
「本人が見た?」
「いや。聞いたと言っている」
「誰から?」
「そこまでは」
宗直は紙を見る。
そこまで分からない。
なら。
そこまでしか書けない。
父ならどうするだろう。
ふと。
そんなことを考えた。
宗直は、子どものころから何度も父の仕事を見てきた。
直成は、話を聞けばすぐ答えを出す人ではなかった。
むしろ。
聞けば聞くほど、また聞いた。
誰が見たのか。
いつ見たのか。
本人が言ったのか。
誰かから聞いたのか。
子どものころは、面倒な人だと思っていた。
今は。
少しだけ分かる。
ここで一つ間違えば、人の扱いが変わる。
家が変わる。
命が変わる。
宗直はもう一度、紙を見る。
父なら。
たぶん。
まだ決めない。
そこまで考えて、宗直は少しだけ顔をしかめた。
違う。
父がどうするかではない。
今、ここにいるのは自分だ。
直成はもういない。
宗直は紙の端へ小さく書き足した。
――伝聞。本人確認なし。
それから次の紙を取った。
◇
夕方。
宗直はようやく家へ戻った。
戸を開けると、あやがすぐに気づいた。
「兄上!」
宗直は履物を脱ぎながら言う。
「ただいま」
ふみが出てくる。
最初に顔を見る。
次に服を見る。
最後に歩き方を見る。
宗直が言う。
「怪我はない」
「聞いてません」
「聞くだろうと思って」
「先に言うなら、飯を食べたかも言ってください」
宗直が止まった。
「……食べた」
「何を?」
「そこまで聞く?」
「聞きます」
「あまり覚えてない」
ふみの目が細くなる。
「食べた、は本当ですか?」
宗直は少し黙った。
あやが笑う。
「兄上、確認されてる」
行嗣も言う。
「本人確認ですね」
光成が吹き出した。
宗直はため息をついた。
「少し食べた」
ふみはうなずく。
「では今からもう一度食べます」
「まだ仕事の話が」
「食べながらでもできます」
「はい」
宗直は素直に座った。
ちよは、その様子を見て笑っていた。
◇
温かい汁を飲んでから。
宗直はようやく話した。
「調べは続いている」
行嗣が聞く。
「和田殿本人も?」
「義盛殿本人が、最初から謀反を企てていたと確認されたわけじゃない」
あやの顔が少し明るくなる。
「じゃあ、悪くないの?」
宗直はすぐには答えなかった。
「それも、まだ決められない」
「また分からないの?」
「まただ」
あやが頬をふくらませる。
「大人って、分からないこと多いね」
光成が言う。
「子どももだろ」
「私は分からないとき、分からないって言うもん」
「それなら大人より立派かもしれないな」
「でしょう?」
「そこまで言ってない」
また少し笑いが起きた。
宗直も笑った。
それから。
ちよが聞く。
「宗直」
「はい」
「あなたは、どうするの?」
宗直が母を見る。
「どうする、とは」
「和田殿のこと」
宗直は少し黙った。
「仕事をします」
「それだけ?」
「それだけです」
宗直は椀を置いた。
「正直に言えば、嫌です」
あやが見る。
宗直は続けた。
「義盛殿のことも知っている。北条殿のことも知っている。広元殿のもとでも働いている。誰か一人を、何も考えず敵だと思えたら楽なんでしょうけど」
部屋が静かになった。
「でも、それはできません」
宗直は一度、息を吐いた。
「父上ならどうするか、今日ずっと考えていました」
行嗣が顔を上げる。
宗直は少し笑った。
「たぶん、父上なら、まだ決めない」
あやが言う。
「やっぱり?」
「たぶんな」
宗直はそこで首を振った。
「いや」
皆が見る。
「父上なら、じゃないな」
宗直は自分の手を見る。
「俺が、まだ決められないんだ」
ちよは何も言わなかった。
宗直は続ける。
「だから、確認できたことだけ扱います。分からないことは分からないままにする。仕事なら仕事をする。それしかない」
光成が聞く。
「和田殿に情があっても?」
「あっても」
「北条殿を知っていても?」
「知っていても」
宗直は答えた。
「仕事の紙に、自分の好き嫌いは書けない」
行嗣がじっと兄を見る。
「それが兄上の答えですか」
「ああ」
少し間があった。
あやが言う。
「父上と同じ?」
宗直は考えた。
「似ているかもしれない」
「違うかもしれない?」
「違うかもしれない」
あやは納得したようだった。
「じゃあ兄上でいいね」
宗直が少し驚く。
「何が?」
「父上じゃなくて、兄上が仕事してるんでしょう?」
宗直はしばらく妹を見た。
それから。
「そうだな」
と笑った。
◇
夜。
光成が戸を確認していた。
一度閉める。
もう一度開ける。
また閉める。
おりんが後ろに立つ。
「何回目です?」
「二回」
「四回です」
「見てたのか」
「音がしますから」
「今日はちゃんと閉めておいた方がいい」
「それは賛成です」
光成が少し驚く。
「今日は止めないのか」
「必要なことなら止めません」
「三本目の掛け木も?」
「それは止めます」
「まだ言ってない」
「顔に書いてあります」
あやが笑った。
「光成兄上、顔に書付があるんだ」
「ない」
行嗣が言う。
「確認しますか?」
「するな」
また笑いが起きた。
宗直はその声を聞きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
御所では、人の名前が紙の上に並んでいた。
誰が味方か。
誰が敵か。
誰が何を言ったか。
家へ帰れば。
弟が戸を何度も閉める。
妹が余計なことを言う。
妻が飯を食べさせる。
母が黙って見ている。
宗直は思った。
父なら。
この家を、争いの中へ入れないだろう。
でも。
そのために今動くのは、自分たちだ。
直成はいない。
だから。
宗直は宗直の仕事をする。
光成は光成の仕事をする。
行嗣は行嗣の仕事をする。
家では、いつものように飯を食べる。
それでいい。
◇
寝る前。
ふみが宗直の布を整えた。
「明日も早い?」
「ああ」
「帰れそう?」
「分からない」
ふみが見る。
宗直は少し笑った。
「でも、帰れるなら帰る」
「はい」
「飯、残しておいて」
ふみも少し笑った。
「最初からそのつもりです」
宗直は横になった。
しばらくして。
「ふみ」
「何です?」
「ありがとう」
ふみは振り返る。
「何が?」
「いろいろ」
「ずいぶん雑ですね」
「眠い」
「では寝てください」
「はい」
宗直は目を閉じた。
外では。
まだ鎌倉のどこかで、人が和田の名を口にしている。
家の中では。
光成がまた戸を確かめていた。
おりんの声がする。
「五回目です」
「今度は本当に最後だ」
あやが笑う。
宗直も、目を閉じたまま少し笑った。
何が起きても。
この家まで、暗くなる必要はない。
明日もまた。
自分たちのできることをすればいい。
【和田合戦までの流れ】
泉親衡の謀反計画が発覚すると、関係を疑われた者たちが調べられ、その中には和田一族の者も含まれていました。
しかし、この段階で和田義盛本人がただちに反乱の中心人物とされたわけではありません。
義盛は一族の者たちの処遇について幕府へ働きかけますが、その後、一族の処分や屋敷をめぐる問題なども重なり、和田氏と北条義時側との緊張は次第に強まっていきます。
まだ鎌倉で戦いは始まっていません。
だからこそ、この時点では「誰が敵で、誰が味方なのか」を単純に決められない人々もいました。
二階堂家も、その一つです。




