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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第四部 まつのいない家――和田の名が遠くなるころ 建暦元年〜建暦三年(1211〜1213年)
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第35話 まつは、父の最後の言葉を知る

建暦元年(1211年)、京。



父は、鎌倉へ帰るつもりだった。


まつは、そのことを知った。


父が京で亡くなってから三年。ずっと、そうだったのだろうとは思っていた。仕事で京へ行き、仕事が終われば帰ってくる。二階堂家の誰もがそう思っていた。


父自身も、そう思っていた。


それを中原季時から聞いてから、まつの中で一つだけ、父の姿が変わった。


京へ行ったまま帰ってこなかった父ではない。


帰ろうとしていた父になった。


それだけで、少し救われたような気もした。その分だけ、余計に寂しくなったような気もした。



「まつ」


季成の声で、まつは顔を上げた。


「何です?」


「さっきから、手が止まっています」


まつは自分の手元を見る。畳もうとしていた衣を、ずっと同じ形で持っていた。


「考え事です」


「そうだと思いました」


「なら、聞かなくてもいいでしょう」


「呼びたかったので」


まつは季成を見る。


「最近、それで何でも済ませようとしてません?」


「便利なので」


「季成様」


「はい」


「少し意地が悪くなりましたね」


「誰の影響でしょう」


「私じゃありません」


「そういうことにしておきます」


季成は少し笑った。


まつも、ほんの少し笑った。



「今日も季時殿のところへ行くんですよね」


「はい」


「季成様の仕事で?」


「それもあります」


「それも?」


季成は少しだけ間を置いた。


「季時殿が、まつに話しておきたいことがあるそうです」


まつの手が止まった。


「私に?」


「はい」


「父上のこと?」


「そこまでは聞いていません」


季成は、それ以上を知らないようだった。


まつは衣を置いた。


「行きます」


「まだ少し時間があります」


「行きます」


「はい」


季成も立った。


まつは歩き出してから振り返る。


「季成様」


「はい」


「紙」


季成が机を見る。


今日も、持っていくはずの紙が残っていた。


「あ」


まつはため息をついた。


「私がいないと、本当にどうするんですか」


季成は紙を取りながら少し考えた。


「困りますね」


「少しは否定してください」


「でも、困るので」


まつは返す言葉を失った。


季成は何でもない顔で紙を持つ。


こういうところが、ずるい。



◇



中原季時は、いつもより静かだった。


まつにも、それはすぐ分かった。


「来たか」


「はい」


「座れ」


まつと季成が座る。


季時はすぐには話し始めなかった。いつものように父の細かさを笑うでもない。仕事の紙を持ってくるでもない。


まつは待った。


季成も待った。


やがて季時が口を開いた。


「この前、直成殿が亡くなる前のことを話したな」


「はい」


「鎌倉へ帰るつもりだったことも」


「聞きました」


「まだ、話していないことがある」


まつは姿勢を正した。


「何です?」


季時は、まつを見た。


「直成殿が最期に口にした言葉だ」


まつは動かなかった。


隣にいる季成も、何も言わなかった。


「父上の……最後の?」


「ああ」


まつは少しだけ息を吸った。


「聞いてもいいんですか」


「そのために呼んだ」


季時はそう答えた。



◇



「具合が悪くなってからも、直成殿は仕事のことを気にしていた」


季時はゆっくり話した。


「鎌倉へ送るものはどうした。あの書付は誰に渡した。そんなことばかり聞いていた」


まつは少しだけ笑った。


「父上らしいです」


「ああ。こちらは仕事より自分の体を気にしろと言った」


「聞きました?」


「聞かなかった」


「やっぱり」


季時も少し笑った。


けれど、その笑いはすぐに消えた。


「そのうち、話すことも少なくなった」


まつは黙って聞いた。


「最後のころは、こちらから声をかけても、うなずくくらいだった」


「苦しかったんですか」


「おそらく」


まつの手が膝の上で少し動いた。


季成の手が、そのすぐそばに置かれた。


触れてはいない。


けれど、そこにある。


まつはそれを一度見て、また季時を見る。


「それで?」


「ああ」


季時は少し目を伏せた。


「私は、直成殿のそばにいた」


まつは息を止めるようにして聞いた。


「何か言いたそうだったから、近くへ寄った」


「はい」


「最初は、聞き取れなかった」


季時は、そこで一度言葉を切った。


「もう一度、直成殿が言った」


まつは待った。


季時が言った。


「――ちよさん、ありがとう」


まつは動かなかった。


何も言えなかった。


季時が続ける。


「そう聞こえた」


まつは、まだ黙っていた。


「『ちよ』というのは、お前の母上だろう」


「……はい」


「だが、『さん』というのが分からなかった」


まつは顔を上げた。


「分からなかった?」


「ああ。直成殿がどういうつもりで、そう呼んだのか」


季時は首を振る。


「聞き間違いかとも思った。だが、二度聞いた」


「二度?」


「最初は小さかった。私が聞き取れずに近づいたら、もう一度言った」


季時は、ゆっくり繰り返した。


「ちよさん、ありがとう」


今度は、まつの中へはっきり入ってきた。



◇



知っている。


まつは、その呼び方を知っていた。


以前、母から聞いたことがある。


父と母には、人がいるところでは使わない、二人だけの呼び方があった。


母は、それ以上を話すとき、少し照れていた。


そして、


――誰にも言っちゃだめよ。


そう言われた。


だから、まつは季成にも教えなかった。


季成と二人で、自分たちの呼び方を決めたときにも。


秘密は守った。


まつは季時を見る。


「季時殿」


「何だ」


「聞き間違いじゃありません」


季時の眉が少し動いた。


「分かるのか」


「はい」


「どういう意味だ?」


まつは口を開きかけた。


そして、閉じた。


「それは言えません」


「言えない?」


「母上と約束したので」


季時はしばらくまつを見た。


それから、うなずいた。


「そうか」


それ以上は聞かなかった。


まつは少し頭を下げた。


「ありがとうございます」


「何がだ」


「覚えていてくれたことです」


季時は何も言わなかった。


まつは続ける。


「父上の最後の言葉を、三年も」


「忘れにくい言葉だった」


「意味が分からなかったから?」


「それもある」


季時は少し考えた。


「それに、直成殿らしくないと思った」


「父上らしくない?」


「あの男は、最後まで仕事のことを言うと思っていた」


まつは少し笑った。


「私も、そう思います」


「だろう?」


「はい」


二人で、ほんの少し笑った。


それから、まつは思った。


でも。


最後は仕事ではなかった。


紙のことでもなかった。


鎌倉へ送る書付のことでもなかった。


母の名前だった。



◇



帰り道。


まつは、ほとんど話さなかった。


季成も話しかけなかった。


いつものように、隣を歩いている。


しばらくして、まつが言った。


「季成様」


「はい」


「知ってたんです」


「何を?」


「父上の『ちよさん』の意味」


季成はまつを見る。


「前に話したでしょう。父上と母上には、二人だけの呼び方があったって」


「ああ」


「それです」


季成は少し驚いた。


「そうだったのですか」


「はい」


「では――」


季成はそこで止めた。


まつは季成を見る。


「聞かないんですか」


「言えないのでしょう?」


以前と同じ答えだった。


まつは少し笑った。


「はい」


「では、聞きません」


「気になりません?」


「なります」


「なら聞けばいいでしょう」


「でも、まつは約束したのでしょう」


「しました」


「なら、聞きません」


まつは少し黙った。


それから、季成の袖をつまんだ。


季成が足を止める。


「まつ?」


「少しだけ、このままで」


季成は何も言わなかった。


まつも何も言わない。


ただ、季成の袖をつまんだまま立っていた。


少しして、季成の手がまつの手に触れた。


まつは離さなかった。


季成も強く握らなかった。


ただ、そこにいた。



◇



「父上は、母上に何をありがとうって言ったんでしょうね」


まつがぽつりと言った。


「分かりません」


季成は答えた。


「夫婦だったこと?」


「かもしれません」


「子どもたちのこと?」


「それもあるかもしれません」


「家を守ってくれたこと?」


「それも」


まつは少し考えた。


「全部かもしれませんね」


季成はすぐには答えなかった。


やがて言った。


「そうかもしれません」


まつは季成を見る。


「季成様」


「はい」


「今、何か言おうとしました?」


「少し」


「何です?」


「今は、やめておきます」


「どうして?」


「たぶん、まつが泣くので」


まつの眉が上がった。


「泣きません」


「そうですか」


「言ってください」


「本当に?」


「はい」


季成は少し考えた。


「直成殿は、最後に一番大事な人へ話しかけたのではないかと思いました」


まつは止まった。


「……季成様」


「はい」


「やっぱり、言わなくてよかったです」


「すみません」


「謝らないでください」


「では」


季成は少し迷った。


「何です?」


「いえ」


まつは季成の手を握った。


今度は、自分から。


「ありがとうございます」


季成も、そっと握り返した。


「はい」



◇



家へ戻ると、まつは二通の文を用意した。


一通は、いつもの手紙だった。


宗直たちへ。


光成たちへ。


あやと行嗣へ。


母へ。


みんなで読んでもかまわない文だ。


京の暮らしのこと。季成がまた紙を探したこと。こちらの食べ物のこと。中原季時に会い、父が京で働いていた場所を見たこと。


まつは、いつものように少し長く書いた。


書き終えてから、もう一枚、別の紙を出した。


季成が気づく。


「もう一通?」


「はい」


「誰にです?」


「母上に」


「さっきの手紙にも、ちよ殿へ書いていましたよね」


「これは別です」


まつは、はっきり言った。


「母上だけに読んでほしいんです」


季成はそれ以上聞かなかった。


まつは筆を持った。



母上へ。


この文は、母上だけで読んでください。


兄上たちにも、光成兄上にも、あやにも、行嗣にも見せないでください。


季成様にも、この文には何を書くのか話していません。



そこまで書いて、まつは少し手を止めた。


母は、きっとこの時点で何かを察する。


それでも書いた。


これは、父と母の間にあった言葉だから。


娘の自分が知ったとしても、家族みんなのものにしてはいけない気がした。



まつは続けた。



季時殿から、父上の最後の言葉を聞きました。


父上は亡くなる少し前まで、鎌倉へ帰るつもりだったそうです。


そして最後に、


「ちよさん、ありがとう」


と言ったそうです。



まつの筆が止まった。



その先に、何を書けばよいのか分からなかった。



父上は母上を大切に思っていたのだと思います。


そう書くこともできる。


きっと母上に会いたかったのだと思います。


そう書くこともできる。



けれど、どちらも違う気がした。


それは、自分が決めることではない。


母なら、この言葉だけで分かる。


少なくとも、まつよりずっと多くのことを。



まつは最後に一文だけ加えた。



母上なら、この言葉の意味が分かると思います。



それから、少し迷ってもう一行。



どうか、母上だけで読んでください。



筆を置いた。



季成は、少し離れたところにいた。


本当に何も聞かなかった。



「季成様」


「はい」


「明日、この二通を鎌倉へ出したいです」


「分かりました」


「一緒に送りますけど、別の文だと分かるようにしてください」


「はい」


「こちらは家のみんなへ」


「はい」


「こっちは――」


まつはもう一通を手に取った。


「母上だけに」


季成は静かにうなずいた。


「間違えないようにします」


「絶対ですよ」


「そんなに信用がありませんか」


「紙を毎日探している人ですから」


「それとこれとは別です」


「本当に?」


「……念のため、自分で印をつけておきます」


まつは思わず笑った。


「お願いします」



季成が二通を分けて置く。



家族への文。


母だけへの文。



同じ鎌倉へ向かう。


同じ二階堂家へ届く。



けれど、一つだけは。


母のところで止まる。



まつは、その小さな文をもう一度見た。



――ちよさん、ありがとう。



父が最後に母へ残した言葉。



三年間、京に残っていたその言葉が。



今度は、娘の手で。



母のもとへ帰っていく。

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