第35話 まつは、父の最後の言葉を知る
建暦元年(1211年)、京。
父は、鎌倉へ帰るつもりだった。
まつは、そのことを知った。
父が京で亡くなってから三年。ずっと、そうだったのだろうとは思っていた。仕事で京へ行き、仕事が終われば帰ってくる。二階堂家の誰もがそう思っていた。
父自身も、そう思っていた。
それを中原季時から聞いてから、まつの中で一つだけ、父の姿が変わった。
京へ行ったまま帰ってこなかった父ではない。
帰ろうとしていた父になった。
それだけで、少し救われたような気もした。その分だけ、余計に寂しくなったような気もした。
「まつ」
季成の声で、まつは顔を上げた。
「何です?」
「さっきから、手が止まっています」
まつは自分の手元を見る。畳もうとしていた衣を、ずっと同じ形で持っていた。
「考え事です」
「そうだと思いました」
「なら、聞かなくてもいいでしょう」
「呼びたかったので」
まつは季成を見る。
「最近、それで何でも済ませようとしてません?」
「便利なので」
「季成様」
「はい」
「少し意地が悪くなりましたね」
「誰の影響でしょう」
「私じゃありません」
「そういうことにしておきます」
季成は少し笑った。
まつも、ほんの少し笑った。
「今日も季時殿のところへ行くんですよね」
「はい」
「季成様の仕事で?」
「それもあります」
「それも?」
季成は少しだけ間を置いた。
「季時殿が、まつに話しておきたいことがあるそうです」
まつの手が止まった。
「私に?」
「はい」
「父上のこと?」
「そこまでは聞いていません」
季成は、それ以上を知らないようだった。
まつは衣を置いた。
「行きます」
「まだ少し時間があります」
「行きます」
「はい」
季成も立った。
まつは歩き出してから振り返る。
「季成様」
「はい」
「紙」
季成が机を見る。
今日も、持っていくはずの紙が残っていた。
「あ」
まつはため息をついた。
「私がいないと、本当にどうするんですか」
季成は紙を取りながら少し考えた。
「困りますね」
「少しは否定してください」
「でも、困るので」
まつは返す言葉を失った。
季成は何でもない顔で紙を持つ。
こういうところが、ずるい。
◇
中原季時は、いつもより静かだった。
まつにも、それはすぐ分かった。
「来たか」
「はい」
「座れ」
まつと季成が座る。
季時はすぐには話し始めなかった。いつものように父の細かさを笑うでもない。仕事の紙を持ってくるでもない。
まつは待った。
季成も待った。
やがて季時が口を開いた。
「この前、直成殿が亡くなる前のことを話したな」
「はい」
「鎌倉へ帰るつもりだったことも」
「聞きました」
「まだ、話していないことがある」
まつは姿勢を正した。
「何です?」
季時は、まつを見た。
「直成殿が最期に口にした言葉だ」
まつは動かなかった。
隣にいる季成も、何も言わなかった。
「父上の……最後の?」
「ああ」
まつは少しだけ息を吸った。
「聞いてもいいんですか」
「そのために呼んだ」
季時はそう答えた。
◇
「具合が悪くなってからも、直成殿は仕事のことを気にしていた」
季時はゆっくり話した。
「鎌倉へ送るものはどうした。あの書付は誰に渡した。そんなことばかり聞いていた」
まつは少しだけ笑った。
「父上らしいです」
「ああ。こちらは仕事より自分の体を気にしろと言った」
「聞きました?」
「聞かなかった」
「やっぱり」
季時も少し笑った。
けれど、その笑いはすぐに消えた。
「そのうち、話すことも少なくなった」
まつは黙って聞いた。
「最後のころは、こちらから声をかけても、うなずくくらいだった」
「苦しかったんですか」
「おそらく」
まつの手が膝の上で少し動いた。
季成の手が、そのすぐそばに置かれた。
触れてはいない。
けれど、そこにある。
まつはそれを一度見て、また季時を見る。
「それで?」
「ああ」
季時は少し目を伏せた。
「私は、直成殿のそばにいた」
まつは息を止めるようにして聞いた。
「何か言いたそうだったから、近くへ寄った」
「はい」
「最初は、聞き取れなかった」
季時は、そこで一度言葉を切った。
「もう一度、直成殿が言った」
まつは待った。
季時が言った。
「――ちよさん、ありがとう」
まつは動かなかった。
何も言えなかった。
季時が続ける。
「そう聞こえた」
まつは、まだ黙っていた。
「『ちよ』というのは、お前の母上だろう」
「……はい」
「だが、『さん』というのが分からなかった」
まつは顔を上げた。
「分からなかった?」
「ああ。直成殿がどういうつもりで、そう呼んだのか」
季時は首を振る。
「聞き間違いかとも思った。だが、二度聞いた」
「二度?」
「最初は小さかった。私が聞き取れずに近づいたら、もう一度言った」
季時は、ゆっくり繰り返した。
「ちよさん、ありがとう」
今度は、まつの中へはっきり入ってきた。
◇
知っている。
まつは、その呼び方を知っていた。
以前、母から聞いたことがある。
父と母には、人がいるところでは使わない、二人だけの呼び方があった。
母は、それ以上を話すとき、少し照れていた。
そして、
――誰にも言っちゃだめよ。
そう言われた。
だから、まつは季成にも教えなかった。
季成と二人で、自分たちの呼び方を決めたときにも。
秘密は守った。
まつは季時を見る。
「季時殿」
「何だ」
「聞き間違いじゃありません」
季時の眉が少し動いた。
「分かるのか」
「はい」
「どういう意味だ?」
まつは口を開きかけた。
そして、閉じた。
「それは言えません」
「言えない?」
「母上と約束したので」
季時はしばらくまつを見た。
それから、うなずいた。
「そうか」
それ以上は聞かなかった。
まつは少し頭を下げた。
「ありがとうございます」
「何がだ」
「覚えていてくれたことです」
季時は何も言わなかった。
まつは続ける。
「父上の最後の言葉を、三年も」
「忘れにくい言葉だった」
「意味が分からなかったから?」
「それもある」
季時は少し考えた。
「それに、直成殿らしくないと思った」
「父上らしくない?」
「あの男は、最後まで仕事のことを言うと思っていた」
まつは少し笑った。
「私も、そう思います」
「だろう?」
「はい」
二人で、ほんの少し笑った。
それから、まつは思った。
でも。
最後は仕事ではなかった。
紙のことでもなかった。
鎌倉へ送る書付のことでもなかった。
母の名前だった。
◇
帰り道。
まつは、ほとんど話さなかった。
季成も話しかけなかった。
いつものように、隣を歩いている。
しばらくして、まつが言った。
「季成様」
「はい」
「知ってたんです」
「何を?」
「父上の『ちよさん』の意味」
季成はまつを見る。
「前に話したでしょう。父上と母上には、二人だけの呼び方があったって」
「ああ」
「それです」
季成は少し驚いた。
「そうだったのですか」
「はい」
「では――」
季成はそこで止めた。
まつは季成を見る。
「聞かないんですか」
「言えないのでしょう?」
以前と同じ答えだった。
まつは少し笑った。
「はい」
「では、聞きません」
「気になりません?」
「なります」
「なら聞けばいいでしょう」
「でも、まつは約束したのでしょう」
「しました」
「なら、聞きません」
まつは少し黙った。
それから、季成の袖をつまんだ。
季成が足を止める。
「まつ?」
「少しだけ、このままで」
季成は何も言わなかった。
まつも何も言わない。
ただ、季成の袖をつまんだまま立っていた。
少しして、季成の手がまつの手に触れた。
まつは離さなかった。
季成も強く握らなかった。
ただ、そこにいた。
◇
「父上は、母上に何をありがとうって言ったんでしょうね」
まつがぽつりと言った。
「分かりません」
季成は答えた。
「夫婦だったこと?」
「かもしれません」
「子どもたちのこと?」
「それもあるかもしれません」
「家を守ってくれたこと?」
「それも」
まつは少し考えた。
「全部かもしれませんね」
季成はすぐには答えなかった。
やがて言った。
「そうかもしれません」
まつは季成を見る。
「季成様」
「はい」
「今、何か言おうとしました?」
「少し」
「何です?」
「今は、やめておきます」
「どうして?」
「たぶん、まつが泣くので」
まつの眉が上がった。
「泣きません」
「そうですか」
「言ってください」
「本当に?」
「はい」
季成は少し考えた。
「直成殿は、最後に一番大事な人へ話しかけたのではないかと思いました」
まつは止まった。
「……季成様」
「はい」
「やっぱり、言わなくてよかったです」
「すみません」
「謝らないでください」
「では」
季成は少し迷った。
「何です?」
「いえ」
まつは季成の手を握った。
今度は、自分から。
「ありがとうございます」
季成も、そっと握り返した。
「はい」
◇
家へ戻ると、まつは二通の文を用意した。
一通は、いつもの手紙だった。
宗直たちへ。
光成たちへ。
あやと行嗣へ。
母へ。
みんなで読んでもかまわない文だ。
京の暮らしのこと。季成がまた紙を探したこと。こちらの食べ物のこと。中原季時に会い、父が京で働いていた場所を見たこと。
まつは、いつものように少し長く書いた。
書き終えてから、もう一枚、別の紙を出した。
季成が気づく。
「もう一通?」
「はい」
「誰にです?」
「母上に」
「さっきの手紙にも、ちよ殿へ書いていましたよね」
「これは別です」
まつは、はっきり言った。
「母上だけに読んでほしいんです」
季成はそれ以上聞かなかった。
まつは筆を持った。
母上へ。
この文は、母上だけで読んでください。
兄上たちにも、光成兄上にも、あやにも、行嗣にも見せないでください。
季成様にも、この文には何を書くのか話していません。
そこまで書いて、まつは少し手を止めた。
母は、きっとこの時点で何かを察する。
それでも書いた。
これは、父と母の間にあった言葉だから。
娘の自分が知ったとしても、家族みんなのものにしてはいけない気がした。
まつは続けた。
季時殿から、父上の最後の言葉を聞きました。
父上は亡くなる少し前まで、鎌倉へ帰るつもりだったそうです。
そして最後に、
「ちよさん、ありがとう」
と言ったそうです。
まつの筆が止まった。
その先に、何を書けばよいのか分からなかった。
父上は母上を大切に思っていたのだと思います。
そう書くこともできる。
きっと母上に会いたかったのだと思います。
そう書くこともできる。
けれど、どちらも違う気がした。
それは、自分が決めることではない。
母なら、この言葉だけで分かる。
少なくとも、まつよりずっと多くのことを。
まつは最後に一文だけ加えた。
母上なら、この言葉の意味が分かると思います。
それから、少し迷ってもう一行。
どうか、母上だけで読んでください。
筆を置いた。
季成は、少し離れたところにいた。
本当に何も聞かなかった。
「季成様」
「はい」
「明日、この二通を鎌倉へ出したいです」
「分かりました」
「一緒に送りますけど、別の文だと分かるようにしてください」
「はい」
「こちらは家のみんなへ」
「はい」
「こっちは――」
まつはもう一通を手に取った。
「母上だけに」
季成は静かにうなずいた。
「間違えないようにします」
「絶対ですよ」
「そんなに信用がありませんか」
「紙を毎日探している人ですから」
「それとこれとは別です」
「本当に?」
「……念のため、自分で印をつけておきます」
まつは思わず笑った。
「お願いします」
季成が二通を分けて置く。
家族への文。
母だけへの文。
同じ鎌倉へ向かう。
同じ二階堂家へ届く。
けれど、一つだけは。
母のところで止まる。
まつは、その小さな文をもう一度見た。
――ちよさん、ありがとう。
父が最後に母へ残した言葉。
三年間、京に残っていたその言葉が。
今度は、娘の手で。
母のもとへ帰っていく。




