幕間9 ちよは、謝る直成に「ありがとうでいい」と言う
元暦元年(1184年)、鎌倉。
直成さんは、よく謝る人だった。
最初のころ、ちよはそれを丁寧な人なのだと思っていた。年上で、仕事もできて、外では多くの人と話をしているのに、家へ戻ると妙なところで遠慮する。
それが夫婦になってからも変わらない。
「すみません」
その日も、直成さんは言った。
ちよは手を止めた。
「何がです?」
「遅くなりました」
「仕事でしょう」
「はい」
「なら、仕方ないでしょう」
「夕餉を待たせましたから」
「待つと決めたのは私です」
「でも――」
「直成さん」
呼ぶと、直成さんは口を閉じた。
家の戸はもう閉まっている。
客はいない。
この小さな家の中には、二人しかいない。
だから、ちよは夫を「直成さん」と呼ぶ。
直成さんも、二人きりになると、ちよを「ちよさん」と呼ぶ。
人がいるところでは使わない、二人だけの呼び方だった。
「今日は遅くなるかもしれないって、朝に言っていたでしょう」
「言いました」
「私はそれを聞きました」
「はい」
「それで待つと決めました」
「はい」
「では、何を謝っているんです?」
直成さんは少し考えた。
「待っていてもらったことを」
ちよは首をかしげた。
「それは、謝ることですか」
「違いますか」
「違うと思います」
直成さんはさらに考え始めた。
この人は、何でも一度考える。
ちよはそれが嫌いではない。
ただ、夕餉の前に長く考えられると困る。
「直成さん」
「はい」
「先に食べません?」
「あ」
「冷めます」
「すみません」
ちよは直成さんを見た。
また言った。
◇
飯を食べ始めても、直成さんは謝った。
ちよが汁をよそう。
「すみません」
水を取って渡す。
「すみません」
椀を少し近くへ寄せる。
「すみません」
三度目で、ちよはとうとう箸を置いた。
「直成さん」
「はい」
「私、何か怒っています?」
直成さんが驚く。
「いえ」
「嫌そうな顔をしています?」
「していません」
「では、どうしてそんなに謝るんです?」
「してもらっていますから」
「何を?」
「色々と」
ちよは自分の手元を見る。
汁をよそった。
水を渡した。
椀を寄せた。
「夫婦なら、このくらいするでしょう」
「そうかもしれませんが」
「直成さんは、私が何かするたびに謝るつもりですか」
「……それは」
「明日の朝も?」
「いえ」
「明後日も?」
「たぶん、いえ」
「十年後も?」
直成さんが少し笑った。
「十年後まで怒られるとは思いませんでした」
「怒ってません」
「そうですか」
「呆れてます」
「それは、もっと困りますね」
ちよも少し笑った。
この人は、ときどき真面目な顔のまま変なことを言う。
本人には、たぶんあまり自覚がない。
ちよは箸を持ち直した。
「直成さん」
「はい」
「そういうときは、すみませんじゃなくて、ありがとうでいいですよ」
直成さんの手が止まった。
「ありがとう?」
「はい」
「僕が?」
「ほかに誰がいるんです」
「ちよさんに?」
「はい」
直成さんは、少し難しい顔になった。
ちよは笑う。
「そんなに考えることです?」
「少し」
「ありがとうって言うだけでしょう」
「それは分かっています」
「では」
「でも、してもらって当然みたいになりませんか」
ちよは一度考えた。
なるほど。
この人は、そういうことを気にしていたのか。
「なりませんよ」
「そうですか」
「私が何かしてあげたら、すみませんって言われるより、ありがとうって言われた方がうれしいです」
直成さんは黙って聞いている。
「すみませんって言われると、私が無理して何かしたみたいでしょう」
「……ああ」
「私は、したくてしていることもあります」
「はい」
「そういうときは、ありがとうでいいです」
直成さんはしばらく何も言わなかった。
ちよはまた汁を飲んだ。
少しして。
「ちよさん」
「はい」
「ありがとうございます」
ちよは顔を上げた。
直成さんは真面目な顔をしている。
「何がです?」
「待っていてくれたことです」
「はい」
「夕餉を用意してくれたこと」
「はい」
「水を取ってくれたこと」
「はい」
「椀を寄せてくれたこと」
「……そこまで全部言うんですか」
「今まで謝っていた分がありますから」
直成さんは本気だった。
ちよは、だんだん困ってきた。
自分から「ありがとうでいい」と言った。
確かに言った。
けれど、こんなに真正面から一つずつ礼を言われるとは思っていなかった。
「もういいです」
「どこまでです?」
「全部です」
「でも、まだ――」
「直成さん」
「はい」
「もう十分です」
「そうですか」
「そうです」
ちよは汁の椀へ目を落とした。
少し顔が熱い。
この人は、たぶん分かっていない。
「ちよさん」
「今度は何です?」
「顔が赤いですが、暑いですか」
ちよは直成さんを見た。
やっぱり分かっていない。
「暑くありません」
「では、具合が悪い?」
「違います」
「本当に?」
「本当です」
「でも――」
「直成さん」
「はい」
「食べてください」
「はい」
直成さんは素直に飯へ戻った。
ちよは横を向いた。
少しだけ悔しかった。
自分で始めた話なのに、照れているのは自分の方だった。
◇
食事が終わると、ちよが椀を片づけようとした。
直成さんも立つ。
「僕がやります」
「いいですよ」
「今日は僕が」
「仕事で疲れているでしょう」
「それなら、ちよさんも待っていたので疲れているでしょう」
「待っていただけです」
「では、一緒に」
ちよは直成さんを見る。
「できます?」
「椀を運ぶくらいはできます」
「前に一つ落としました」
「一度だけです」
「一度落とした人は、そう言います」
「では、今日は落とさないようにします」
「そうしてください」
二人で椀を運んだ。
直成さんは慎重すぎるくらい慎重に持っている。
ちよはそれがおかしくて、何度か笑いそうになった。
全部運び終わる。
「ほら」
直成さんが言った。
「落としませんでした」
「えらいですね」
「子どもに言うみたいですね」
「褒めたんですよ」
「では――」
直成さんが言いかけて止まった。
ちよは見る。
「今、すみませんと言おうとしました?」
「はい」
「言い直してください」
「分かりました」
直成さんは少し考えた。
それから、ちよを見る。
「ちよさん」
「はい」
「ありがとう」
ちよは一瞬、返事が遅れた。
まただ。
さっき自分が教えた言葉なのに。
二人きりのときだけの呼び方で、真っすぐ言われると、思っていたより困る。
「……はい」
「今、少し遅かったですね」
「気のせいです」
「そうですか」
「そうです」
「では、もう一度言えば――」
「言わなくていいです」
直成さんが首をかしげた。
「でも、ちよさんは聞きたいと」
「さっきはです」
「今は違う?」
「今は違います」
「難しいですね」
ちよは思わず笑った。
「直成さんは、本当に分かってないですね」
「何がです?」
「何でもありません」
「そうですか」
本当に分かっていない顔だった。
それが少しおかしくて。
少し悔しくて。
でも、嫌ではなかった。
◇
夜。
二人で横になる前に、ちよが言った。
「では、おやすみなさい」
「はい」
ちよが背を向けようとしたとき、直成さんが呼んだ。
「ちよさん」
「……何です?」
直成さんは、今度は考えなかった。
「ありがとう」
ちよは固まった。
「今日一日、一緒にいてくれて」
そこまで言われて、ちよはとうとう顔をそらした。
「もう寝てください」
「何かおかしかったですか」
「おかしくありません」
「では――」
「直成さん」
「はい」
「早く寝てください」
「はい」
直成さんは素直だった。
ちよは横になり、直成さんに背を向けた。
頬が熱い。
謝らなくていいと言ったのは、自分だった。
ありがとうでいいと言ったのも、自分だった。
なのに。
こんなに言われるとは思っていなかった。
後ろから声がした。
「ちよさん」
「今度は何です」
「おやすみなさい」
「……おやすみなさい、直成さん」
少し間があった。
「ありがとう」
「もう言わなくていいです!」
直成さんが小さく笑った。
ちよは布団の中で目を閉じた。
この人は本当に分かっていない。
たぶん明日になっても、「どうして昨夜はあんなに顔が赤かったのだろう」と真面目に考えるのだろう。
それでも。
悪くないと思った。
少しして、ちよは寝返りを打った。
直成さんはまだ起きていた。
「直成さん」
「はい」
ちよは少し迷った。
それから、小さな声で言った。
「私も、ありがとう」
今度は直成さんが黙った。
ちよは少しだけうれしくなった。
「何です?」
「いえ」
「今、照れました?」
「……少し」
ちよは笑った。
「おあいこですね」
「そうですね」
二人で少し笑った。
それから、しばらく何も話さなかった。
灯りを落としたあとの部屋は静かだった。
少しして、暗がりの向こうから声がした。
「ちよさん」
「何です?」
「ありがとう」
ちよは、暗い中で少し笑った。
「はい」




