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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第四部 まつのいない家――和田の名が遠くなるころ 建暦元年〜建暦三年(1211〜1213年)
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幕間9 ちよは、謝る直成に「ありがとうでいい」と言う

元暦元年(1184年)、鎌倉。



直成さんは、よく謝る人だった。


最初のころ、ちよはそれを丁寧な人なのだと思っていた。年上で、仕事もできて、外では多くの人と話をしているのに、家へ戻ると妙なところで遠慮する。


それが夫婦になってからも変わらない。



「すみません」


その日も、直成さんは言った。


ちよは手を止めた。


「何がです?」


「遅くなりました」


「仕事でしょう」


「はい」


「なら、仕方ないでしょう」


「夕餉を待たせましたから」


「待つと決めたのは私です」


「でも――」


「直成さん」


呼ぶと、直成さんは口を閉じた。



家の戸はもう閉まっている。


客はいない。


この小さな家の中には、二人しかいない。


だから、ちよは夫を「直成さん」と呼ぶ。


直成さんも、二人きりになると、ちよを「ちよさん」と呼ぶ。


人がいるところでは使わない、二人だけの呼び方だった。



「今日は遅くなるかもしれないって、朝に言っていたでしょう」


「言いました」


「私はそれを聞きました」


「はい」


「それで待つと決めました」


「はい」


「では、何を謝っているんです?」


直成さんは少し考えた。


「待っていてもらったことを」


ちよは首をかしげた。


「それは、謝ることですか」


「違いますか」


「違うと思います」



直成さんはさらに考え始めた。


この人は、何でも一度考える。


ちよはそれが嫌いではない。


ただ、夕餉の前に長く考えられると困る。



「直成さん」


「はい」


「先に食べません?」


「あ」


「冷めます」


「すみません」


ちよは直成さんを見た。



また言った。



◇



飯を食べ始めても、直成さんは謝った。


ちよが汁をよそう。


「すみません」


水を取って渡す。


「すみません」


椀を少し近くへ寄せる。


「すみません」



三度目で、ちよはとうとう箸を置いた。



「直成さん」


「はい」


「私、何か怒っています?」


直成さんが驚く。


「いえ」


「嫌そうな顔をしています?」


「していません」


「では、どうしてそんなに謝るんです?」


「してもらっていますから」


「何を?」


「色々と」


ちよは自分の手元を見る。



汁をよそった。


水を渡した。


椀を寄せた。



「夫婦なら、このくらいするでしょう」


「そうかもしれませんが」


「直成さんは、私が何かするたびに謝るつもりですか」


「……それは」


「明日の朝も?」


「いえ」


「明後日も?」


「たぶん、いえ」


「十年後も?」


直成さんが少し笑った。


「十年後まで怒られるとは思いませんでした」


「怒ってません」


「そうですか」


「呆れてます」


「それは、もっと困りますね」



ちよも少し笑った。



この人は、ときどき真面目な顔のまま変なことを言う。


本人には、たぶんあまり自覚がない。



ちよは箸を持ち直した。


「直成さん」


「はい」


「そういうときは、すみませんじゃなくて、ありがとうでいいですよ」


直成さんの手が止まった。



「ありがとう?」


「はい」


「僕が?」


「ほかに誰がいるんです」


「ちよさんに?」


「はい」



直成さんは、少し難しい顔になった。



ちよは笑う。


「そんなに考えることです?」


「少し」


「ありがとうって言うだけでしょう」


「それは分かっています」


「では」


「でも、してもらって当然みたいになりませんか」


ちよは一度考えた。



なるほど。


この人は、そういうことを気にしていたのか。



「なりませんよ」


「そうですか」


「私が何かしてあげたら、すみませんって言われるより、ありがとうって言われた方がうれしいです」


直成さんは黙って聞いている。



「すみませんって言われると、私が無理して何かしたみたいでしょう」


「……ああ」


「私は、したくてしていることもあります」


「はい」


「そういうときは、ありがとうでいいです」


直成さんはしばらく何も言わなかった。



ちよはまた汁を飲んだ。



少しして。



「ちよさん」


「はい」


「ありがとうございます」



ちよは顔を上げた。



直成さんは真面目な顔をしている。



「何がです?」


「待っていてくれたことです」


「はい」


「夕餉を用意してくれたこと」


「はい」


「水を取ってくれたこと」


「はい」


「椀を寄せてくれたこと」


「……そこまで全部言うんですか」


「今まで謝っていた分がありますから」



直成さんは本気だった。



ちよは、だんだん困ってきた。



自分から「ありがとうでいい」と言った。


確かに言った。


けれど、こんなに真正面から一つずつ礼を言われるとは思っていなかった。



「もういいです」


「どこまでです?」


「全部です」


「でも、まだ――」


「直成さん」


「はい」


「もう十分です」


「そうですか」


「そうです」




ちよは汁の椀へ目を落とした。


少し顔が熱い。



この人は、たぶん分かっていない。



「ちよさん」


「今度は何です?」


「顔が赤いですが、暑いですか」


ちよは直成さんを見た。



やっぱり分かっていない。



「暑くありません」


「では、具合が悪い?」


「違います」


「本当に?」


「本当です」


「でも――」


「直成さん」


「はい」


「食べてください」


「はい」



直成さんは素直に飯へ戻った。



ちよは横を向いた。



少しだけ悔しかった。



自分で始めた話なのに、照れているのは自分の方だった。



◇



食事が終わると、ちよが椀を片づけようとした。


直成さんも立つ。


「僕がやります」


「いいですよ」


「今日は僕が」


「仕事で疲れているでしょう」


「それなら、ちよさんも待っていたので疲れているでしょう」


「待っていただけです」


「では、一緒に」


ちよは直成さんを見る。


「できます?」


「椀を運ぶくらいはできます」


「前に一つ落としました」


「一度だけです」


「一度落とした人は、そう言います」


「では、今日は落とさないようにします」


「そうしてください」



二人で椀を運んだ。



直成さんは慎重すぎるくらい慎重に持っている。


ちよはそれがおかしくて、何度か笑いそうになった。



全部運び終わる。



「ほら」


直成さんが言った。


「落としませんでした」


「えらいですね」


「子どもに言うみたいですね」


「褒めたんですよ」


「では――」


直成さんが言いかけて止まった。



ちよは見る。



「今、すみませんと言おうとしました?」


「はい」


「言い直してください」


「分かりました」



直成さんは少し考えた。


それから、ちよを見る。



「ちよさん」


「はい」


「ありがとう」



ちよは一瞬、返事が遅れた。



まただ。



さっき自分が教えた言葉なのに。


二人きりのときだけの呼び方で、真っすぐ言われると、思っていたより困る。



「……はい」


「今、少し遅かったですね」


「気のせいです」


「そうですか」


「そうです」


「では、もう一度言えば――」


「言わなくていいです」


直成さんが首をかしげた。


「でも、ちよさんは聞きたいと」


「さっきはです」


「今は違う?」


「今は違います」


「難しいですね」


ちよは思わず笑った。



「直成さんは、本当に分かってないですね」


「何がです?」


「何でもありません」


「そうですか」



本当に分かっていない顔だった。



それが少しおかしくて。


少し悔しくて。


でも、嫌ではなかった。



◇



夜。



二人で横になる前に、ちよが言った。


「では、おやすみなさい」


「はい」



ちよが背を向けようとしたとき、直成さんが呼んだ。



「ちよさん」


「……何です?」



直成さんは、今度は考えなかった。



「ありがとう」



ちよは固まった。



「今日一日、一緒にいてくれて」



そこまで言われて、ちよはとうとう顔をそらした。



「もう寝てください」


「何かおかしかったですか」


「おかしくありません」


「では――」


「直成さん」


「はい」


「早く寝てください」


「はい」



直成さんは素直だった。



ちよは横になり、直成さんに背を向けた。



頬が熱い。



謝らなくていいと言ったのは、自分だった。


ありがとうでいいと言ったのも、自分だった。



なのに。


こんなに言われるとは思っていなかった。



後ろから声がした。



「ちよさん」


「今度は何です」


「おやすみなさい」


「……おやすみなさい、直成さん」



少し間があった。



「ありがとう」


「もう言わなくていいです!」



直成さんが小さく笑った。



ちよは布団の中で目を閉じた。



この人は本当に分かっていない。



たぶん明日になっても、「どうして昨夜はあんなに顔が赤かったのだろう」と真面目に考えるのだろう。



それでも。



悪くないと思った。



少しして、ちよは寝返りを打った。



直成さんはまだ起きていた。



「直成さん」


「はい」


ちよは少し迷った。


それから、小さな声で言った。



「私も、ありがとう」



今度は直成さんが黙った。



ちよは少しだけうれしくなった。



「何です?」


「いえ」


「今、照れました?」


「……少し」



ちよは笑った。



「おあいこですね」


「そうですね」



二人で少し笑った。



それから、しばらく何も話さなかった。



灯りを落としたあとの部屋は静かだった。



少しして、暗がりの向こうから声がした。



「ちよさん」


「何です?」



「ありがとう」



ちよは、暗い中で少し笑った。



「はい」

挿絵(By みてみん)

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