第34話 まつは、父が鎌倉へ帰るつもりだったと知る
建暦元年(1211年)、京。
父が京で働いていた場所を知ってから、まつは少し変わった。
道を歩くとき、前より周りを見るようになった。
この道を父も歩いたのだろうか。
この辺りで飯を食べたことがあるのだろうか。
雨の日には、どこで雨宿りをしたのだろう。
そんなことを考える。
考えたところで、分かるわけではない。
それでも、以前より京が少し違って見えた。
父が亡くなった町。
それだけではなくなった。
父が働いた町になった。
◇
「まつ」
季成に呼ばれて、まつは振り返った。
「何です?」
「先ほどから、同じ道を二度見ています」
「見てません」
「見ています」
「季成様は、私のことを見すぎです」
「隣を歩いているので」
「それ、前にも聞きました」
「便利な答えなので」
まつは少し睨んだ。
季成はいつものように、ほんの少し笑った。
二人は中原季時のもとへ向かっていた。
前に会ったとき、まつは父の仕事の話を聞いた。
細かかった。
確認が多かった。
紙をよく残した。
あとになって、その紙が役に立った。
それは、まつの知っている父とよく似ていた。
だからこそ、もっと知りたくなった。
「季成様」
「はい」
「季時殿に、今日は何を聞けばいいと思います?」
「まつが知りたいことを」
「それが多すぎるんです」
「では、一つずつ」
「それだと何度も来ることになります」
「季時殿が困りますね」
「季成様は困らないんですか」
「私は、まつが聞き終わるまで付き合います」
まつは一瞬黙った。
「……そういうことを普通に言いますね」
「普通に思ったので」
「ずるい」
「何がです?」
「何でもありません」
季成はそれ以上聞かなかった。
まつは少しだけ歩く速さを緩めた。
季成も同じ速さになった。
◇
中原季時は、まつを見るなり言った。
「また来たか」
「駄目ですか」
「駄目とは言っていない」
「では、いいですね」
「直成殿の娘だな」
まつが首をかしげる。
「何がです?」
「一つ答えると、次が来る」
「父上も?」
「来た」
季時はため息をついた。
「それで、今度は何を聞きたい」
まつは少し考えた。
前回は、父が京でどう働いていたかを聞いた。
今日は。
「父上が亡くなる前のことを、聞いてもいいですか」
季時の顔から、少しだけ笑いが消えた。
季成も何も言わなかった。
季時はしばらくまつを見たあと、うなずいた。
「分かった」
◇
「最初から具合が悪かったわけではない」
季時は、ゆっくり話し始めた。
「直成殿は、いつも通り仕事をしていた。少なくとも、私にはそう見えた」
まつは黙って聞いた。
「いつも通り?」
「ああ。紙を見て、人に聞いて、また紙を見る」
「……父上ですね」
「そうだな」
季時は少し笑った。
「亡くなる少し前まで、帰る支度の話もしていた」
まつの顔が上がった。
「帰る?」
「鎌倉へだ」
季時は当然のように答えた。
「仕事が一段落したら戻るつもりだった。いつまでこちらにいるのかという話もしていたし、鎌倉へ持ち帰るもののことも気にしていた」
まつは何も言えなかった。
父が鎌倉へ帰るつもりだった。
当たり前のことのようで。
今まで一度も、はっきり聞いたことがなかった。
「父上は……」
まつは少し言葉を探した。
「自分が死ぬと思ってなかったんですか」
「少なくとも、私にはそうは見えなかった」
季時はすぐに答えた。
「別れの言葉を残そうとしていたわけでもない。身の回りを整理していたわけでもない。普通に仕事を終えて、普通に鎌倉へ戻るつもりだったと思う」
まつは手を膝の上で握った。
三年前。
父が京へ出たころのことを思い出す。
父が京へ行く。
仕事が終われば帰ってくる。
皆、そう思っていた。
母も。
宗直も。
光成も。
自分も。
三郎も。
あやも。
だから、父の椀はそのままだった。
帰ってきたら使うと思っていた。
「……そうだったんだ」
まつが小さく言った。
季時が聞く。
「知らなかったのか」
「知っていたつもりでした」
「つもり?」
「帰るはずだったって、家族みんな思ってました。でも、それは私たちがそう思っていただけかもしれないって、どこかで考えてたんです」
季時は黙っている。
まつは続けた。
「父上は何か分かっていて、それでも言わなかったんじゃないかとか。京へ行く前から、何かあったんじゃないかとか」
「ない」
季時ははっきり言った。
まつが顔を上げる。
「少なくとも、私の知る限りはない」
「本当に?」
「直成殿が死ぬつもりで来ていたなら、私は気づかなかったことになる」
季時は少し考えた。
「だが、あの男はそんなに器用ではない」
まつは思わず笑った。
「そうなんですか」
「何か隠そうとすると、説明が長くなる」
「分かります」
「顔にも出る」
「それも分かります」
「なら、分かるだろう」
まつはうなずいた。
たしかに。
父は、全部をうまく隠せる人ではなかった。
◇
季時は少し間を置いてから続けた。
「具合を崩したのは、そのあとだ」
まつの表情が戻る。
「急だったんですか」
「急だった」
「何の病だったんです?」
「はっきりとは分からん」
季時は首を振る。
「熱が出た。体がだるいと言った。最初は少し休めばよいと思った」
「父上は休みました?」
季時がまつを見る。
「休まなかったでしょう」
「……はい」
「正しい」
季時はため息をついた。
「具合が悪いくせに、鎌倉へ送る書付のことを気にしていた」
まつは目を閉じそうになった。
それも、父らしい。
「誰かに任せなかったんですか」
「任せた」
「素直に?」
「いや」
「でしょうね」
季時も少し笑った。
「何度も確認された。ここは見たか。これは書いたか。誰に渡すか」
「迷惑ですね」
「迷惑だった」
「言い切るんですね」
「今だから言える」
まつは少し笑った。
「父上、嫌われてました?」
「まさか」
季時はすぐに答えた。
「面倒ではあった」
「それ、ほとんど悪口です」
「面倒な人間と、嫌いな人間は同じではない」
季時はそう言った。
まつは少し黙った。
その言い方が、妙にうれしかった。
◇
「それで」
まつは聞いた。
「父上は、最後まで鎌倉へ帰るつもりだったんですね」
「ああ」
「母上たちのところへ」
「ああ」
季時はそこで一度止まった。
「少なくとも、帰れないと思っているようには見えなかった」
まつはうつむいた。
悲しいのか。
安心したのか。
自分でもよく分からなかった。
父は帰るつもりだった。
家族も待っていた。
どちらも間違っていなかった。
ただ、帰れなかった。
それだけだった。
それが、一番つらい気もした。
◇
帰り道。
まつはあまり話さなかった。
季成も、無理に話しかけなかった。
しばらく歩いてから、まつが言った。
「季成様」
「はい」
「父上、帰るつもりだったんですね」
「そうですね」
「ずっと、そう思ってはいたんです」
「はい」
「でも、ちゃんと誰かから聞きたかったみたいです」
季成は少しだけまつを見る。
「聞けてよかったですか」
まつは考えた。
「……分かりません」
「では、今は分からないままで」
まつは季成を見る。
「それでいいんですか」
「まつがまだ分からないなら」
「季成様は、何でも急がないですね」
「まつが急ぐので」
「どういう意味ですか」
「二人とも急いだら大変でしょう」
まつは少し睨んだ。
「私、そんなに急ぎます?」
「かなり」
「季成様」
「はい」
「今は言わなくてもいいことです」
「そうでしたか」
季成が少し笑った。
まつは少し黙ったあと、言った。
「でも」
「はい」
「季成様が急がないのは、今日は助かります」
季成はまつを見る。
それから、何も大げさには言わずに、
「それならよかったです」
と答えた。
その笑いを見て、まつも少しだけ息を吐いた。
◇
家へ戻ると、まつはすぐに紙を出した。
季成が聞く。
「また記録ですか」
「はい」
「今日は何を書くのです?」
まつは筆を持ったまま考えた。
そして書いた。
――父上は、鎌倉へ帰るつもりだった。
その一行だけを書いて、手を止めた。
季成は横から覗かなかった。
まつは、自分から紙を少し季成の方へ向けた。
季成が読む。
「短いですね」
「今日はこれだけでいいです」
「そうですか」
「行嗣みたいに長く書く必要はありません」
「まつも長いでしょう」
「今日は短いです」
「はい」
「何です、その返事」
「事実なので」
「季成様」
「はい」
まつは少し笑った。
そのあと、紙を折らずに机の上へ置いた。
父上は、鎌倉へ帰るつもりだった。
その言葉を、もう一度見る。
三年前の家が、少し違って見えた。
父の椀を残していたことも。
門の音がするたびに誰かが顔を上げたことも。
京からの知らせを待っていたことも。
家族だけが、帰ってくると信じていたのではない。
父もまた、帰るつもりだった。
鎌倉では家族が待ち。
京では父が帰るつもりで仕事をしていた。
離れていた両方が、同じつもりだったのだ。
ただ。
その間の道を、父は帰ることができなかった。
まつはそれを知った。
まだ、知らないことは残っている。
父が最後に何を言ったのか。
それは、まだ聞いていなかった。




