第32話 まつは、夫婦になってもまだ少し照れる
建暦元年(1211年)、京。
夫婦になれば、何かが大きく変わるのだと思っていた。
少なくとも、まつは少しだけそう思っていた。
けれど実際には、朝になれば季成は起きるし、まつも起きる。飯を食べ、季成は仕事へ出て、まつは家の中のことを覚える。夕方になれば季成が帰ってくる。
夫婦になったからといって、急に相手のことが全部分かるようになるわけではなかった。
「まつ殿」
季成が呼んだ。
「何です?」
「これ、どこへ置けばよいでしょう」
季成は紙の束を持って立っていた。
まつはそれを見て、それから季成を見る。
「昨日もそこへ置いてませんでした?」
「置きました」
「では、同じところでいいでしょう」
「そうですね」
それなのに動かない。
「何です?」
「いえ」
「何か言いたそうですよ」
季成は紙を机へ置いた。
「まつ殿は、もうこの家の置き場所を私より覚えていますね」
「季成様が覚えてなさすぎるんです」
「そうでしょうか」
「昨日、筆を探していたでしょう」
「はい」
「その前の日も」
「はい」
「今朝も」
季成は少し考えた。
「三日ですね」
「数えてほしいわけじゃありません」
「では、明日は探さないようにします」
「今日から覚えてください」
「分かりました」
季成は素直にうなずいた。
まつはため息をついた。
文では落ち着いていて、よく考える人だった。実際に一緒に暮らしてみても、それは変わらない。
ただし。
思っていたより、よく物を探す。
それは文では分からなかった。
「母上の言った通りだったな」
まつが小さく言うと、季成が顔を上げた。
「何がです?」
「相手のことを全部知ってから夫婦になるなんて、たぶん無理だって」
「ちよ殿が?」
「はい」
「私は、そんなに知らないところがありましたか」
まつは指を折った。
「筆をなくす」
「なくしてはいません。見つからないだけです」
「同じです。紙を置いた場所を忘れる」
「それは認めます」
「朝は意外とぼんやりしている」
「それも認めます」
「甘いものを食べると、少し機嫌がよくなる」
季成が止まった。
「それは分かりますか」
「分かります」
「隠していたつもりはないのですが」
「顔に出ています」
「そんなに?」
「少し」
季成は困ったように笑った。
「では、私からも言ってよいですか」
「何を?」
「夫婦になってから分かったことです」
まつは少し身構えた。
「どうぞ」
「まつ殿は、思っていたより朝が弱い」
「弱くありません」
「今朝、三度呼びました」
「聞こえていました」
「返事がありませんでした」
「起きようとは思っていました」
「それを、起きていないと言うのでは」
「季成様」
「はい」
「朝から細かいです」
「今は昼ですが」
「そういうところです」
季成が笑った。
まつも、結局笑った。
◇
昼を過ぎたころ、かやが訪ねてきた。
手には、小さな包みを持っている。
「よし様からです」
「何ですか?」
「食べるものです。二人とも、家のことに慣れるまで落ち着かないでしょうから、と」
まつは包みを受け取った。
「季成様は、ここで育ったのに?」
かやが少し笑う。
「季成殿は、新しい暮らしになると余計なところで考え込むからです」
「やっぱり昔からなんですね」
「昔からです」
「兄嫁殿」
季成が口を挟んだ。
「何です?」
「私の話をしに来たのですか」
「違います。まつ殿に会いに来ました」
「なら、私の昔の話は」
「聞かれたら答えます」
「聞きます」
まつが即座に言った。
季成は黙った。
かやがまつを見る。
「今のように」
「何がです?」
「季成殿は、困ると少し黙ります」
まつは季成を見る。
「本当に皆さん知っているんですね」
季成はため息をついた。
「家族ですから」
その答えに、まつは少しだけ笑った。
かやは、部屋の中を見回した。
「困っていることはありませんか」
「今のところは」
「京の暮らしで、分からないことがあれば聞いてください」
「ありがとうございます」
「ただし」
かやは少し間を置いた。
「鎌倉ではどうするのかも、教えてください」
まつは顔を上げた。
「京のやり方に合わせなくていいのですか」
「合わせた方が楽なこともあります。でも、全部同じにする必要はないでしょう?」
まつは少し考えた。
「……そうですね」
「私も、まつ殿の話を聞いてみたいです」
「鎌倉の?」
「はい。季成殿から聞くと、二階堂家ではいつも何人も同時に話しているように聞こえますから」
「だいたい合っています」
季成が言った。
「だいたいなのですか」
「もっと騒がしいときもあります」
かやが笑った。
そのとき、外から声がした。
「あきです。入ってもいいですか」
季成が答えるより先に、まつが言った。
「どうぞ」
あきが顔を出す。
「兄上、また筆を探していたでしょう」
季成があきを見る。
「なぜ知っているのです」
「さっき母上が、季成は新しい家でも物を探しているのかしら、と」
まつが吹き出した。
「母上まで」
季成が言う。
あきは笑う。
「まつ様がいれば、前より早く見つかりますね」
「私は季成様の筆を探すために京へ来たんじゃありません」
「それはそうですね」
かやも笑った。
季成だけが少し困った顔をしている。
まつは、そんな三人を見ていた。
二階堂家ほど騒がしくはない。
誰かが話している途中へ、別の人が無理に割り込むこともない。
けれど、静かすぎるわけでもない。
あきは兄をからかう。
かやも笑う。
季成も、言い返す。
そのやり取りを見ていると、季成がなぜ人の話を待てるのか、少し分かる気がした。
特別なことではないのだ。
この家では、ずっとこうして暮らしてきたのだろう。
◇
二人が帰ったあと、季成は机に向かって書き物をしていた。
まつは少し離れたところで衣を畳みながら、その背中を眺めていた。
静かな人だ。
けれど、ただおとなしいわけではない。
まつが強く言えば何でも引くのではなく、違うと思えば、
「そこは少し違うと思います」
と言う。
困っているときも、勝手に答えを決めず、
「まつ殿は、どうしたいですか」
と聞いてくる。
それから、ときどき妙に意地が悪い。
文を交わしていたころより近い。
初めて顔を合わせた日よりも、もっと近い。
それでも季成は、まだまつを「まつ殿」と呼んでいた。
最初は気にならなかった。
けれど、夫婦になって何日かすると、なぜか少し気になった。
「季成様」
「はい」
季成が筆を置く。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
まつは少し迷った。
「父上と母上にも、夫婦になってから二人だけの呼び方があったそうなんです」
季成が顔を上げた。
「二人だけの?」
「はい。人がいるところでは普通だったそうです。でも、二人きりのときだけは、違う呼び方をしていたって」
「そうなのですか」
「母上から聞きました」
「どのように呼んでいたのです?」
まつは口を開きかけて、閉じた。
「それは言えません」
季成が少し驚いた。
「言えない?」
「母上に、誰にも言ってはいけないと言われています」
「では、聞きません」
季成はそれだけ言って、また筆へ手を伸ばした。
まつは逆に拍子抜けした。
「……聞かないんですか」
「言えないのでしょう?」
「そうですけど」
「では、まつ殿が言えるようになるまで聞きません」
「たぶん、ずっと言いませんよ」
「それなら、ずっと聞きません」
季成は普通の顔で言った。
まつは少し黙った。
「何です?」
季成が今度は聞いた。
「いえ」
「何か言いたそうですよ」
「……季成様は、そういうところがありますね」
「どういうところです?」
「人が言わないって言ったことを、無理に聞かないところです」
「聞いてほしかったですか」
「違います」
「では、よかった」
「そうですけど」
まつは少しだけ顔をそらした。
季成が笑った。
「今、照れました?」
「照れてません」
「そうですか」
「そうです」
「では、そういうことにしておきます」
「季成様」
「はい」
「やっぱり少し意地が悪いですね」
「まつ殿と暮らし始めてから、そう言われることが増えました」
「私しか言ってないでしょう」
「そうとも言います」
まつは呆れた。
でも、嫌ではなかった。
しばらくして、まつが言った。
「それで、思ったんです」
「何を?」
「季成様は、いつまで私を『まつ殿』と呼ぶんですか」
季成が瞬きをした。
「気になっていたのですか」
「少し」
「では、何と呼べばよいでしょう」
「私に聞くんですか」
「まつの呼び名なので」
まつは、今の言葉に一瞬引っかかった。
「……今」
「はい」
「まつ、って言いました?」
季成も気づいたらしい。
「あ」
二人とも黙った。
まつの頬が急に熱くなった。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
鎌倉では、毎日のように呼ばれていた名前だった。
宗直も、光成も、行嗣も、あやも、母も呼んだ。
なのに季成に呼ばれると、なぜかまるで違う。
季成が少し困ったように言った。
「嫌でしたか」
「……嫌ではありません」
「では」
「でも、急に言わないでください」
「呼ぶときは、前もって知らせるのですか」
「そういう意味じゃありません」
「難しいですね」
「またそれ」
季成が笑った。
まつは顔をそらしたまま言った。
「もう一回」
「はい?」
「聞こえなかったから」
「聞こえたでしょう」
「いいから」
季成はしばらく何も言わなかった。
それが余計に恥ずかしい。
まつが振り返ろうとした、そのときだった。
「まつ」
今度は、はっきり呼ばれた。
まつは季成を見る。
季成もまつを見ている。
「……はい」
自分でも驚くくらい、小さな声だった。
季成の口元が少し緩む。
「今の返事は、文には書けませんね」
「どういう意味ですか」
「思っていたより、かわいらしかったので」
まつは固まった。
「季成様」
「はい」
「今のは忘れてください」
「何を?」
「全部です」
「難しいですね」
「忘れてください」
「まつ」
「呼ばないでください!」
「さっき、もう一回と言ったでしょう」
「もう終わりました!」
季成は声を立てずに笑っている。
まつは顔を伏せた。
勝てない。
言葉なら、だいたい自分の方が強いと思っていた。
季成は声を荒らげないし、まつを言い負かそうともしない。
なのに、ときどき一言で全部持っていかれる。
ずるいと思った。
◇
夕餉の少し前。
よしが様子を見に来た。
「邪魔ではありませんか」
「大丈夫です」
まつが答える。
季成も頭を下げた。
「どうしました」
「何も。二人とも生きているか見に来ただけです」
まつが思わず笑う。
「母上」
「何です?」
「そんなに心配されるようなことはありません」
「そう?」
よしは部屋の中を見る。
それから、机の上の筆を見る。
「今日は見つかったのね」
季成が黙った。
まつは思わず季成を見る。
よしも見る。
「どうしたの?」
「何でもありません」
季成は答えた。
まつは笑いをこらえた。
よしはそれ以上追及しなかった。
「まつ」
「はい」
「困っていることはない?」
「まだ大丈夫です」
「まだ?」
「分からないことはたくさんあります」
「それなら、分からないままでいいことと、聞いた方がいいことを分ければいいわ」
まつは少し驚いた。
「季成様と似ていますね」
よしが首をかしげる。
「そう?」
季成が言った。
「母上は、私より先に聞きます」
「あなたが考えすぎるのです」
「やはりそうなのですね」
まつが言うと、よしは笑った。
「季成は昔から、一つ聞かれると三つくらい考えてから答えるの」
「母上」
「悪いとは言っていませんよ」
よしは穏やかに言った。
「でも、一つでいいときもあるでしょう」
季成は少し黙った。
まつは思った。
やはり。
この家でも、季成は季成なのだ。
家族が穏やかだから、季成も同じになったわけではない。
似ているところもある。
違うところもある。
それを見ていくのは、少し面白かった。
よしが帰ったあと。
まつが言った。
「季成様」
「はい」
「皆さん、季成様のことをよく知っていますね」
「長く一緒に暮らしていましたから」
「私も、そのうち分かるようになりますか」
季成は少し考えた。
「私のことを?」
「はい」
「全部は無理だと思います」
まつは笑った。
「母上と同じことを言いますね」
「でも」
季成が続ける。
「今よりは、分かると思います」
「季成様も?」
「まつのことを?」
「はい」
「分かりたいとは思っています」
まつは少し黙った。
こういうことを。
この人は、急に言う。
「……そういうのです」
「何が?」
「急に言わないでほしいのは」
「今のもですか」
「今のもです」
季成は少し考えてから、うなずいた。
「では、気をつけます」
「本当に?」
「できるだけ」
「できるだけなんですね」
「全部直すと、私ではなくなるかもしれません」
まつは、少し驚いたあと笑った。
「それは困ります」
「では、このくらいで」
「はい」
◇
夕餉のとき、季成は何事もなかったように飯を食べていた。
まつは少し警戒していた。
「まつ」
来た。
「……何です?」
「そちらの皿を取っていただけますか」
まつは皿を渡した。
「自分で取れますよね」
「取れます」
「では、どうして呼んだんです」
「慣れておこうと思って」
「何に?」
「まつ、と呼ぶことに」
まつは返す言葉がなくなった。
季成は普通の顔で飯を食べている。
「……ずるい」
「何がです?」
「何でもありません」
「そうですか」
季成はそれ以上聞かなかった。
そこもずるい。
少しして、まつが言った。
「季成様」
「はい」
「私は呼び方を変えませんからね」
「私の?」
「はい。季成様は季成様です」
「季成ではなく?」
「言いません」
「どうしてです?」
「恥ずかしいからです」
言ってから、まつは止まった。
季成も止まった。
「今のは」
「はい」
「聞かなかったことにしてください」
「難しいですね」
「季成様」
「でも、分かりました」
季成は少し笑った。
「私は、まつ。まつは、季成様」
「そうです」
「ずいぶん不公平ですね」
「嫌ですか」
季成は少し考えた。
「いえ」
それから静かに言った。
「まつらしくて、好きです」
まつは箸を落としかけた。
「……季成様」
「はい」
「そういうことを急に言うの、やめてください」
「嫌ですか」
「嫌じゃないから困ってるんです」
言ってしまった。
今度こそ、本当に言ってしまった。
季成の目が少し大きくなった。
まつは顔を覆いたくなったが、それをしたら完全に負けた気がするので我慢した。
季成が言う。
「まつ」
「何です」
「ありがとうございます」
「何のお礼ですか」
「今の言葉です」
「忘れてくださいと言おうと思っていました」
「それは難しいですね」
「今日だけで何回目なんですか、それ」
「数えます?」
「数えません」
「行嗣殿なら記録しそうですね」
「しますね」
二人とも笑った。
◇
夜になった。
季成が書物を閉じる。
「まつ」
もう、その呼び方を聞いても最初ほど驚かなくなっていた。
それでも、少しだけ胸のあたりがくすぐったい。
「何です?」
「おやすみなさい」
「それだけですか」
「はい」
「名前を呼ばなくても言えたでしょう」
「呼びたかったので」
まつはまた困った。
この男は静かな顔で、ときどきとんでもないことを言う。
「……おやすみなさい、季成様」
「はい。おやすみなさい、まつ」
まつは横になってから、しばらく目を閉じられなかった。
父と母にも、二人だけの呼び方があった。
どんな呼び方だったのかは、季成には言わない。
母との約束だから。
けれど。
父と母がそうしたように、自分たちにも、自分たちなりの距離があっていい。
同じ夫婦になる必要はない。
同じ呼び方をする必要もない。
季成は、まつ。
まつは、季成様。
それでいい。
夫婦になっても、分からないことは増える。
季成が物を置いた場所を忘れること。
朝は少しぼんやりしていること。
思っていたより冗談を言うこと。
静かな顔で、ときどき意地の悪いことを言うこと。
それから。
季成の母は、季成より少し先に聞く人だということ。
かやは、京のことを教えるだけでなく、鎌倉のことも聞いてくる人だということ。
あきは、兄をからかうときによく笑うということ。
文で知っていた家が。
少しずつ、本当の家になっていく。
そして。
名前を呼ばれるだけで、自分がこんなに弱くなること。
それは、夫婦になる前には知らなかった。
けれど、悪くない。
まつは誰にも聞こえないくらい小さな声で言った。
「……季成様」
少し離れたところから声が返ってきた。
「はい」
まつは慌てて布団をかぶった。
「聞こえてたんですか!」
「呼ばれたので」
「今のは独り言です」
「そうですか」
「そうです」
「では、おやすみなさい、まつ」
「もう寝てください!」
暗がりの向こうで、季成が笑った気配がした。
まつは布団の中で頬を押さえた。
夫婦になったばかりの家は、まだ二階堂家ほど騒がしくない。
けれど。
季成だけがいる家でもなかった。
近くには、知成がいる。
よしがいる。
信成とかやがいる。
あきもいる。
鎌倉の家とは、まるで違う。
それでも。
ここにも、人の声がある。
ここでこれから。
自分たちの暮らしを作っていく。
そう思うと。
まつ一人で暮らす家よりは、ずいぶん困ることが増えそうだった。
そして、その困ることを。
まつは少しも嫌だとは思っていなかった。




