第31話 まつは、季成と初めて顔を合わせる
建暦元年(1211年)、京。
京へ着いてから、まだそれほど日が経っていなかった。
まつは、藤原季成という男の字を知っていた。
筆を急がないことも知っていた。問いかけると、すぐに答えず、一度考えてから返事を書くことも知っていた。
以前、困ったときはどうするのか、と尋ねたことがある。
季成は、
――まず、自分で考えます。それでも分からなければ、知っている人に尋ねます。
と返してきた。
その返事を読んだとき、まつは悪くないと思った。少なくとも、何でも知っているふりをする人ではない。
それから何通も文を交わした。
だから、季成という人をまったく知らないわけではなかった。
季成の家族のことも、少しは知っている。
父の知成。
母のよし。
兄の信成と、その妻のかや。
妹のあき。
何度も文の中で見た名前だった。
父は、まず相手の話を聞く人。
母は穏やかだが、ときどき一番大事なことを言う人。
兄は季成より少し決断が早い。
かやは京の暮らしをよく知っている。
妹のあきは、兄たちより少しよく笑う。
季成から聞いたのは、そのくらいだった。
それでも。
名前だけしか知らなかったころよりは、ずっと近い。
問題は。
誰の顔も知らないことだった。
◇
その日の朝。
まつは、季成の父母のいる邸へ案内された。
門をくぐる前から、少し緊張していた。
季成に会うから、というだけではない。
この家の人たちは、婚姻が整えば自分の家族になる。
そう考えると、急に足の運び方まで気になった。
「普通に歩けばいいでしょう」
まつは、自分に言った。
そばにいた女房が首をかしげる。
「何か?」
「何でもありません」
中へ通されると、最初に会ったのは季成ではなかった。
「長い道でしたでしょう」
穏やかな声でそう言ったのは、季成の父、藤原知成だった。
まつは頭を下げる。
「二階堂まつです」
「知成です。遠いところを、よく来られました」
隣には、妻のよしがいた。
「まずはお座りください。挨拶を全部済ませてから休もうなどと思わなくていいのですよ」
「はい」
「季成も朝から落ち着きませんから」
「母上」
少し離れたところから声がした。
まつがそちらを見るより先に、若い女が笑った。
「あ、本当に来ました」
「何がです?」
まつが聞く。
「あき」
よしが名前を呼ぶ。
「まだ何も言っていません」
「今から言うところでした」
「同じです」
その女が季成の妹・あきらしい。
まつは少しだけ驚いた。
もっと静かな家を想像していた。
いや。
静かではある。
二階堂家のように、何人も同時に口を挟むわけではない。
ただ。
言う人は、言うらしい。
「妹のあきです」
少し年上の男が言った。
「兄の信成です。こちらは妻のかや」
信成の隣にいた女性が、まつへ頭を下げる。
「かやです」
「まつです」
「存じています」
まつは一瞬止まった。
かやが少し笑う。
「季成殿が、何度もお名前を話しますから」
「兄上」
また、先ほどと同じ男の声がした。
今度こそ、まつはそちらを見た。
藤原季成が立っていた。
まつは一瞬、何も言えなかった。
顔を知らない。
そう思っていた。
でも。
見た瞬間に。
たぶん、この人だと思った。
季成の方も、少しだけ動きを止めていた。
あきが二人を交互に見る。
「お互い、顔は知らないんですよね」
「あき」
今度は信成が止めた。
「本当でしょう?」
「本当でも、今言うことではない」
「いつ言うの?」
「あとでいい」
「あとって?」
「あとだ」
まつは、少し笑ってしまった。
季成も笑っている。
よしが二人を見る。
「では、私たちは先に失礼しましょうか」
まつが顔を上げた。
「よろしいのですか」
「季成のことを知りに京まで来られたのでしょう?」
「はい」
「でしたら、季成のことは季成に聞くのが一番です」
まつは少し目を見開いた。
鎌倉でも。
同じことを何度も言われた。
知成が穏やかに言う。
「家のことは、またいくらでもお話しできます」
信成もうなずいた。
「しばらく京におられるのですから」
かやが言った。
「私も、鎌倉のことを聞いてみたいです」
「鎌倉のことを?」
「ええ。季成殿から聞くより、まつ殿に聞いた方が早そうですから」
季成が兄嫁を見る。
「それは、どういう意味でしょう」
「そのままです」
あきが笑った。
「兄上、説明が長いもの」
「あなたまで」
「本当でしょう?」
まつは、また笑った。
知成もよしも止めなかった。
ただ。
皆の話が終わってから、よしが言った。
「では、続きはまたあとで」
それだけだった。
一人が話している途中で、別の人がかぶせない。
誰かが言い終わるまで待つ。
文で聞いていた通りだった。
二階堂家とは、ずいぶん違う。
でも。
不思議と息苦しくはなかった。
◇
家族が退いたあと。
まつと季成は、改めて向かい合った。
季成は、まつが思っていたより普通だった。
最初にそう思った。
もっと京の貴族らしい、近寄りにくい男を想像していたのかもしれない。
もちろん衣服も立ち居振る舞いも鎌倉の男たちとは違う。声も大きくない。
けれど、向かいに座った季成は、まつを値踏みするように見るでもなく、妙に気取るでもなく、ただ少し緊張しているように見えた。
それに気づいて、まつは少し楽になった。
「藤原季成です」
「知っています」
季成が一度、瞬きをした。
まつもすぐに気づいた。
「あ」
初対面の挨拶としては、おかしかった。
「……文をいただいていましたから」
「はい」
季成は少し笑った。
「私も、まつ殿のお名前は存じています」
「それはそうでしょうね」
「そうですね」
会話が止まった。
まつは困った。
文なら止まってもよかった。筆を置いて考えられる。一晩考えてもいい。気に入らなければ書き直せる。
人の顔を見ながら話す場合、そうはいかない。
季成も黙っている。
まつはとうとう聞いた。
「何か言わないのですか」
「考えています」
まつは季成を見た。
「本当に、そうするんですね」
「何がです?」
「文に書いていたでしょう。困ったら、まず考えるって」
季成は少し驚いたあと、笑った。
「覚えていたのですね」
「私が聞いたことですから」
「では、書いておいてよかった」
「本当のことだったんですね」
「嘘だと思っていましたか」
「会ったことがありませんでしたから」
まつは当然のように答えた。
季成は、しばらくまつを見ていた。
「何です?」
「いえ」
「今、何か思いましたよね」
「思いました」
「では言ってください」
季成は、また少し考えた。
やはり、考える。
「文のままだな、と思いました」
「私が?」
「はい」
「どこがです」
「分からないことを、そのままにしないところが」
まつは少し黙った。
褒められたのか。そうでもないのか。判断に困る。
「それ、良い意味ですか」
「私は、そういうつもりで言いました」
「なら、いいです」
「よかった」
季成はまた少し笑った。
まつは、その笑い方を初めて見た。
大声で笑う人ではない。
口元が少し動いて、目が柔らかくなる。
鎌倉には、もっと分かりやすい人が多かった。
和田義盛など、門の向こうにいても機嫌が分かる。光成も分かりやすい。行嗣は隠しているつもりでも顔に出る。宗直は隠そうとすると逆に黙るので、それはそれで分かる。
目の前の男は、少し違うらしい。
「季成殿」
「はい」
「一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「私が京へ来ると聞いたとき、どう思いました?」
季成はすぐには答えなかった。
まつは待った。
以前なら、この間が気になったかもしれない。
けれど文を何度も交わした今は分かる。
この人は、言葉を探している。
やがて季成が言った。
「うれしかったです」
まつは少し目を見開いた。
思ったより、まっすぐな答えだった。
「それだけ?」
「それから、困りました」
「どうしてです?」
「本当に来られるとは思っていなかったので」
「私が断ると思っていたんですか」
「その可能性はあると思っていました」
「ずいぶん弱気ですね」
「まつ殿が決めることだと聞いていましたから」
その言葉で、まつは少し黙った。
季成は続ける。
「私が望んだからといって、まつ殿も同じとは限りません」
「だから待っていたんですか」
「はい」
「文を?」
「はい」
「私が断るかもしれないのに?」
「それは、仕方がないでしょう」
季成は、ごく普通のことのように言った。
まつは、その答えが少しうれしかった。
鎌倉で縁談を聞いたとき、一番腹が立ったのは、自分の人生なのに自分だけが置いていかれるように感じたことだった。
けれど、この男は待ったらしい。
自分が何を選ぶのかを。
「……それなら」
まつは言った。
「来てよかったです」
季成がまつを見る。
今度は季成が黙る番だった。
「何です?」
「いえ」
「また考えてるんですか」
「今は、少し驚いています」
「どうして?」
「まつ殿から、そう言っていただけるとは」
「私だって、そのくらい言います」
「そうなのですね」
「何ですか、その言い方」
「いえ」
「笑っていますよね」
「少し」
「季成殿」
「はい」
「思っていたより、意地が悪いですね」
「初めて言われました」
「では覚えておいてください」
「覚えておきます」
まつは少し睨んだ。
でも、本気ではなかった。
◇
話し始めると、不思議なことに、文の続きを話しているようになった。
鎌倉の話をした。
あやが荷物へ余計なものを入れようとしたこと。
光成は必要なものより、道の状態を気にしていたこと。
宗直は心配しているくせに、最後までそれをあまり口にしなかったこと。
行嗣が旅に必要なことを書き出し、その紙が長くなりすぎたこと。
季成は一つずつ聞いた。
「行嗣殿は、そんなに書くのですか」
「何でも書きます」
「便利そうですね」
「一緒に暮らしてみてください」
「大変なのですか」
「説明も長いです」
「それは少し困りますね」
「でしょう?」
「でも、まつ殿も文は長かったですよ」
まつは止まった。
「季成殿」
「はい」
「それは今、言う必要がありましたか」
「事実なので」
「行嗣みたいなことを言わないでください」
季成が笑った。
まつは思った。
この人は静かなだけで、おとなしいわけではない。
言うときは言う。
それが少し気に入った。
「では、季成殿のことも教えてください」
「私の?」
「私は鎌倉の話ばかりしているでしょう」
「面白いので」
「それでは不公平です」
「何を知りたいです?」
「何でも」
「何でも、が一番難しいですね」
「では、家では何をしているんです」
「書物を読むことが多いです」
「仕事以外でも?」
「はい」
「面白いんですか」
「面白いですよ」
「ずっと?」
「ずっとではありません」
「では、ほかには?」
季成は考える。
まただ。
まつは少し笑った。
「何です?」
「いえ。本当に毎回考えるんだなと思って」
「考えずに答えた方がいいですか」
「それは困ります」
「では、このままで」
「はい」
少しして、まつは聞いた。
「季成殿」
「はい」
「ご家族は、文で聞いていた通りですね」
季成が少し首を傾ける。
「どういう意味でしょう」
「皆、ちゃんと人の話が終わるまで待つんですね」
季成は、まつを見た。
「普通ではありませんか?」
まつはすぐに答えた。
「普通ではありません」
季成が少し驚く。
「二階堂家では?」
「一人が話している途中で、別の人が口を挟みます」
「そうなのですか」
「さらに別の人も口を挟みます」
「……話は終わるのですか」
「終わることもあります」
季成が笑った。
「終わらないことも?」
「あります」
「それは大変そうですね」
「慣れます」
「まつ殿も、その中で?」
「私は負けません」
「それは想像できます」
まつが季成を見る。
「今、何を想像したんですか」
「二階堂家の皆さまが同時に話しているところを」
「それだけ?」
「その真ん中で、まつ殿が一番大きな声で話しているところも」
まつは少し黙った。
「季成殿」
「はい」
「やっぱり、少し意地が悪いですね」
「二度目ですね」
「覚えていたんですか」
「覚えておくように言われましたから」
まつは言葉に詰まった。
季成は少し笑った。
まつも、とうとう笑った。
季成がこうなった理由が。
ほんの少しだけ分かった気がした。
この家では。
誰かが話せば、まず聞く。
季成だけがそうなのではない。
でも。
だからといって。
季成のことが全部分かったわけでもない。
それでいい、とまつは思った。
季成は少し首を傾けた。
「まつ殿」
「何です?」
「文の方が、話しやすかったですか」
まつは一瞬、答えに詰まった。
「……最初は」
「やはり」
「季成殿は?」
「私もです」
まつは驚いた。
「そう見えません」
「かなり緊張しています」
「本当に?」
「はい」
「どこが?」
「見せないようにしています」
「ずるいですね」
「まつ殿も、最初よりは話しています」
「私は隠してません」
「そうですね」
「今、笑いました?」
「少し」
「また」
まつは呆れた。
けれど、最初に部屋へ入ったときの固さは、もう消えていた。
◇
やがて、そろそろ話を終える時間になった。
季成が立つ。
まつも立った。
今度は最初ほど困らなかった。
「今日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
季成は少し迷ってから続けた。
「また、お話ししてもよいでしょうか」
まつは眉を上げた。
「そのために京まで来たんですけど」
季成が笑った。
「それもそうですね」
「文もやめませんから」
「会えるのに?」
「書いた方が言いやすいこともあります」
「分かります」
「季成殿にもあるんですか」
「あります」
「何です?」
「それは文で書きます」
まつは季成を見る。
「今、逃げましたね」
「少し」
「認めるんですね」
「嘘をついても、まつ殿は聞くでしょう」
「もちろんです」
「では、最初から認めた方が早い」
まつは少し笑った。
季成が部屋を出ようとする。
その背中へ、まつは声をかけた。
「季成様」
季成が止まった。
まつも止まった。
今までずっと「季成殿」と呼んでいた。
なぜ急にそう呼んだのか、自分でも分からなかった。
季成が振り返る。
「はい」
何も言わない。
ただ、少しだけうれしそうに見えた。
まつは急に居心地が悪くなった。
「……何でもありません」
「そうですか」
「何です、その顔」
「どんな顔です?」
「笑ってます」
「少し」
「さっきから、そればかりですね」
「今日は、よく笑う日なのでしょう」
まつは顔をそらした。
「もう行ってください」
「はい」
「早く」
「では、また」
「はい」
季成が部屋を出ていった。
少しして。
入れ替わるように、あきが顔を出した。
「終わりました?」
まつは振り返る。
「……聞いていたの?」
「聞いていません」
「本当に?」
「母上に、聞いてはいけませんと言われました」
「それなら、どうして来たの」
「兄上が出てきたからです」
「それだけ?」
あきは少し考えた。
「あと」
「何?」
「兄上が、少しうれしそうだったので」
まつは黙った。
「いつもと違うんですか」
「少し」
「どこが?」
あきは季成が出ていった方を見る。
「兄上、家ではあまり顔に出ないんです」
「そうなの?」
「はい。でも今日は分かりました」
まつは急に気まずくなった。
「何が」
あきは笑った。
「それは、また今度お話しします」
「どうして今言わないの」
「兄上に怒られそうなので」
「季成様は怒るんですか?」
「ほとんど怒りません」
「ではいいでしょう」
「でも、困った顔はします」
まつは少し考えた。
「それは見てみたいです」
あきが声を立てずに笑った。
そこへ、かやも来た。
「あき。まつ殿を困らせていない?」
「まだです」
「まだ?」
まつが聞く。
かやがため息をつく。
「あきを信用しすぎない方がいいですよ」
「義姉上」
「本当でしょう」
「少しくらいです」
「その少しくらいが長いのです」
まつは二人を見る。
文の中でしか知らなかった人たちが。
今、自分の目の前で話している。
少し不思議だった。
かやがまつを見る。
「京のことで分からないことがあれば、私にも聞いてください」
「よいのですか」
「もちろんです」
そして、少し笑った。
「その代わり、鎌倉のことを教えてください」
まつも笑った。
「それなら、いくらでも」
まだ。
この家のことはほとんど知らない。
季成のことも。
知成のことも。
よしのことも。
信成のことも。
かやのことも。
あきのことも。
でも。
文の中の名前だった人たちは。
もう名前だけではなかった。
◇
その日の終わり。
まつは、季成が出ていった方をもう一度見た。
まだ分からない。
一度会っただけだ。
文だけでは分からなかったことが、今日少し分かった。
静かな人だった。
よく考える人だった。
思っていたより笑う人だった。
それから、思っていたより少し意地が悪い。
そして。
季成の家族も。
文で聞いていた通り、穏やかな人たちだった。
ただ。
穏やかだから同じなのではない。
知成には知成の話し方がある。
よしにはよしの見方がある。
信成は兄らしく季成を見ている。
かやは、自分とは違う土地からこの家へ嫁いできた人でもある。
あきは、思っていたよりずっとよく笑う。
これから。
一人ずつ知っていけばいい。
まつは、それを嫌だとは思わなかった。
京へ来ると決めたとき、まつは季成のことを全部知っていたわけではない。
今も、知らないことの方が多い。
でも。
分からないことが出てきたとき、この人とは話せそうだった。
そして。
この家の人たちとも。
少しずつなら、話していけるかもしれない。
それだけは、今日、少し分かった。
【藤原季成】
※本作の創作人物。
京の中級公家の家に生まれた青年。藤原北家・日野流につながる枝家の出身で、まつより5〜6歳ほど年上。
若いころから学問や文章を学び、書物や文書を扱うことを得意としている。
性格は穏やかで、相手の話を聞いてから答えるタイプ。争いを好まず、まつの強さを抑え込もうともしない。
父・知成、母・よし、兄・信成、妹・あきという、穏やかで人の話をまず聞く家族の中で育った。
兄・信成はすでに妻のかやを迎えている。
季成にとって、人の話を最後まで聞き、相手が何を考えているのか確かめてから答えることは、特別な技術ではなく、家の中で自然に身についた振る舞いである。
まつとは、鎌倉と京の間で何度も文を交わしたのち、建暦元年(1211年)、京で初めて顔を合わせた。
静かな人物だが、ただおとなしいわけではなく、ときどき相手をからかうような一面もある。




