幕間8 ちよは、皆が鎌倉殿に賭けた理由を知る
元暦元年(1184年)、鎌倉。
「奥方も、ご一緒に」
使いの者が残した言葉を、ちよは朝になっても考えていた。
直成さんが呼ばれるのは分かる。
仕事があるのだから、珍しいことではない。
けれど、どうして自分までなのだろう。
二人きりの家で、支度をしながら尋ねた。
「直成さん。本当に心当たりはないの?」
「ちよさんも、と言われる理由は分かりません」
「何か、鎌倉殿を怒らせるようなことを言いました?」
直成さんが少し考えた。
「それは、何度か」
ちよは手を止めた。
「何度か?」
「必要なことを申し上げて、機嫌を損ねることはあります」
「大丈夫なんですか」
「お話は、聞いていただけています」
答えになっているような、なっていないような返事だった。
ちよは支度を続けた。
少しだけ、行きたくなくなった。
◇
館へ着くと、やはり緊張した。
源頼朝。
家へ来る人たちが、鎌倉殿と呼ぶ人だった。
時政も、義澄も、先が分かっていたわけではないと言った。
それでも、この人についていくと決めた。
どんな人なのか、見てみたい気持ちはあった。
怖くないわけではないけれど。
通された先には、頼朝と政子がいた。
頼朝は、ちよが思っていたより静かな人だった。
大きな声を出すわけでもない。
けれど、顔を上げたときには、もうこちらを見ていた。
直成さんが妻を紹介する。
ちよも頭を下げた。
「ちよと申します」
頼朝はしばらく見てから、言った。
「なるほど」
何が、なるほどなのだろう。
ちよが返事に迷っていると、政子が笑った。
「あなた。それでは、ちよが困るでしょう」
「何も悪いことは言っていない」
「何が分かったのか、おっしゃっていませんもの」
ちよは思わずうなずきかけ、途中で止めた。
政子がこちらを見る。
「気になるでしょう」
「……少し」
頼朝の目がちよへ戻る。
政子は楽しそうだった。
「直成も、分からないままでは済ませないでしょう」
今度は直成さんが、少し困った顔になった。
◇
「お前は、よく聞き返すな」
頼朝が直成さんへ言った。
「それでよいのですか。本当に確かめたのですか、と」
「確かめてからの方がよいこともありますので」
「こちらが決めたあとに言うこともある」
「あとから、違う話が届くこともあります」
頼朝の眉が動いた。
ちよは夫を見た。
確かに、何度か怒らせていそうだった。
「そういうところが、腹立たしい」
直成さんが頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝るくらいなら、黙っていればよい」
「ですが、違いに気づいたままでは――」
「分かっている」
頼朝が息を吐いた。
政子は口元を押さえている。
「では、近くへ置かなければよいでしょう」
政子が言うと、頼朝は妻を見た。
「こちらに都合のよい話ばかり持ってくる者だけで、どうする。間違ったまま進む方が、あとで面倒になる」
ちよは頼朝を見た。
腹が立たないのではないらしい。
言われて面白くないことも、そのまま聞く。
夫がここで仕事をしている理由を、少し見た気がした。
政子がちよへ尋ねる。
「家でも、よく確かめるの?」
「はい。戸を閉めたか、もう一度見に行くことがあります」
「それは必要なことです」
直成さんが言った。
政子が笑う。
頼朝まで笑った。
ちよも、ようやく少し肩の力が抜けた。
◇
話が家へ来る客のことになると、頼朝は少し驚いた。
「時政も来るのか」
「はい」
「景時も?」
「仕事の相談で、いらっしゃいます」
「義盛は」
ちよは少し考えた。
「よく召し上がります」
政子が声を上げて笑った。
直成さんも口元を緩める。
頼朝は、納得したようにうなずいた。
「皆、違うであろう」
「はい。お話を聞いていても、ずいぶん」
「同じ者ばかりでも困る」
頼朝は手元へ目を落としてから、続けた。
「土地を知る者がいる。人をまとめる者がいる。京のことを知る者も、訴えを聞く者も要る」
ちよは、家へ来た人たちを思い浮かべた。
同じ話でも、聞くところが違う。
気にするところも違う。
「皆さん、ご自分の家も、人もお持ちでしょう」
ちよが言うと、頼朝がこちらを見た。
「そうだな」
「お考えも、違います」
「違う」
「それは、怖くないのですか」
口にしてから、少し聞きすぎたかと思った。
直成さんは何も言わない。
頼朝は、すぐには答えなかった。
「怖いぞ」
ちよは顔を上げた。
「力のある者は、敵に回れば厄介だ」
「では、どうして」
「その力が要るからだ」
静かな声だった。
頼朝は、少し間を置いた。
「都からでは、こちらの土地のことは分からん。武士が何を争い、何を守りたいのかもな」
ちよは康信の持ってきた相談を思い出した。
誰が言ったのか。
誰が見たのか。
紙には何が残っているのか。
簡単には決められないことばかりだった。
「戦だけしておればよいわけではない。所領の争いも、働きに応じた扱いもある。それを聞き、決めるところが要る」
だから、直成さんの帰りが遅くなるのだろうか。
紙が増えるのも。
家へまで、相談が来るのも。
ちよが黙っていると、頼朝は言った。
「まだ、何もかも整ったわけではない」
その言葉は、少し意外だった。
この人なら、先のことまで分かっているように話すのかと思っていた。
けれど、頼朝は直成さんへ目を向けた。
「だから、確かめる者も要る」
直成さんが静かに頭を下げた。
◇
しばらくして、頼朝が別の用で席を外した。
直成さんも呼ばれ、部屋にはちよと政子が残った。
政子が少し座り直す。
「やっと、ゆっくり話せるわね」
ちよは笑った。
政子が、さっきまで夫のいた場所を見る。
「変わった人でしょう」
「……そうですね」
「迷わなくてもいいのよ。変わった人だもの」
この人も、ずいぶん遠慮がない。
そう思っていると、政子がこちらへ向き直った。
「あなたは、直成のどこがよかったの?」
ちよは返事に詰まった。
「どうして、その話に」
「聞いてみたかったの。あの人にも、ずいぶん言う男でしょう」
「誰が相手でも、分からないことは聞く人だと思います」
「そこが好きなの?」
ちよは膝の上で手を重ねた。
「いつでも、ではありません」
「あら」
「早く飯を食べてほしいときもあります」
政子が笑い出した。
ちよも、つられて笑う。
「でも、こちらの話も、ちゃんと聞いてくれます」
「そう」
「私が違うと言ったら、どうして違うのかを聞いてくれます」
政子の笑いが、少し静かになった。
「それは、大事ね」
「はい。夫婦ですから」
ちよは政子を見た。
この人は、頼朝が今の鎌倉殿になる前から、夫婦だった。
先が約束されていたわけではない。
それでも、選んだ人だった。
「政子様は、怖くなかったのですか」
「頼朝様と一緒になること?」
「はい」
政子は少し考えた。
「怖いことは、あったわよ」
ちよは黙って聞いた。
「でも、それなら選ばないのかと聞かれたら、違ったの」
ちよは、その言葉をしばらく考えた。
それから、小さく笑った。
「時政殿に、少し似ていらっしゃいますね」
政子の顔が変わった。
「どこが?」
「先が分からなくても、ご自分で決めるところです」
「……ほかの人に似ていると言ってほしかったわね」
けれど、政子も最後には笑った。
◇
帰り際、頼朝が直成さんへ言った。
「妻を大事にしろ」
直成さんは少し驚いた。
「はい」
「仕事ばかり持ち帰るな」
「気をつけます」
ちよは夫を見た。
そこは、よく聞いてほしかった。
頼朝がこちらへ目を向ける。
「面倒な男であろう」
「少し」
直成さんが振り向いた。
政子が笑う。
ちよは続けた。
「でも、私も話しますので」
頼朝はちよを見てから、少し笑った。
「ならよい」
◇
家へ戻り、戸を閉める。
ようやく二人だけになると、ちよは息を吐いた。
「直成さん」
「疲れましたか」
「少し。でも、お会いできてよかったです」
直成さんが隣へ座る。
ちよは、今日会った二人の顔を思い出した。
「鎌倉殿も、分からないことがあるのですね」
「もちろん、あります」
「だから、皆さんが必要なのね」
「そうだと思います」
ちよは夫を見た。
「あなたも」
直成さんは少し照れたように目を伏せた。
「役に立てていれば、うれしいです」
その答えが、夫らしかった。
ちよは少し誇らしくなった。
けれど、棚へ目を向けると、並んだ椀が見えた。
「直成さん」
「うん?」
「まさか、鎌倉殿まで、うちへ来ることはありませんよね」
直成さんの返事が遅れた。
ちよは夫を見る。
「何か、言われました?」
「帰り際に、一度見てみたいとは」
「この家を?」
「皆さんが集まるので、気になったようです」
ちよは棚へ目を戻した。
椀は増やした。
けれど、そういう問題なのだろうか。
直成さんが隣で、少し笑った。
ちよも、仕方なく笑った。
どうやら、この家の客については、まだ分からないことが多かった。




