幕間6 ちよは、新婚生活を満喫できない
元暦元年(1184年)、鎌倉。
夫婦になってから、まだそれほど日がたっていなかった。
朝になれば直成さんが仕事へ出て、夕方になれば帰ってくる。二人で飯を食べ、その日にあったことを話す。戸を閉めれば、あとは二人だけ。
ちよは、新婚の暮らしをそんなふうに思い描いていた。
最初のうちは、確かにそうだった。
けれど、ある日の夕方。
夕餉の支度をしていると、戸が叩かれた。
直成さんが顔を上げる。
「誰でしょう」
「誰か来る約束でした?」
「いいえ」
戸口に立っていたのは、三善康信だった。
「直成殿。少し確かめたいことがある」
直成さんは支度中の膳を見てから、ちよへ目を向けた。
ちよはうなずく。
「どうぞ。まだ少しかかりますから」
このときは、本当に少しで済むのだと思っていた。
◇
「その話は、本人から聞いたのですか」
直成さんが尋ねると、康信は首を振った。
「本人から聞いたという者がいる」
「では、その者に、いつ聞いたのかを確かめないといけませんね」
「誰へ聞けばよいか、それを相談に来たのだ」
「ああ。それなら――」
直成さんが紙を引き寄せる。
ちよは鍋を見ながら、二人のやり取りを聞いていた。
家でも細かい人だとは思っていた。
けれど、仕事の話になると、何を聞き、何をまだ聞いていないのかが、みるみる紙の上で分かれていく。
そのうち、また戸が叩かれた。
今度は中原親能だった。
「康信殿はこちらか」
「どうして分かったのです?」
直成さんが聞くと、親能は笑った。
「こちらへ向かったと聞いたのでな」
客が二人になった。
しばらくして、さらに戸が鳴る。
ちよは手を止めた。
康信が戸の方を見る。
「広元ではないか」
「ありそうだな」
親能が答えた。
直成さんが戸を開けると、本当に広元が立っていた。
「康信殿と親能殿が、こちらにいると聞いた」
直成さんは少し黙った。
ちよは鍋の中を見た。
二人分である。
◇
三人がそろうと、話は簡単には終わらなかった。
康信が事情を話し、親能が別の話を足す。広元が食い違うところを尋ね、直成さんが紙に書き留める。
ちよには分からない名前も出てきた。
ただ、同じ出来事について話しているのに、聞いた相手が違うだけで、ずいぶん違う話になるものらしい。
「では、こちらとこちらを同じ話として扱ってはいけませんね」
直成さんが紙の二か所を指した。
広元がうなずく。
「そこを先に確かめよう」
ようやく話がまとまりかけたころ、親能がちよを見た。
「奥方。直成殿は、家でもこの調子か」
直成さんが振り向く。
ちよは少し考えた。
「もっと短く済むときもあります」
康信が笑った。
「それはよかった」
「何がです?」
「家でも我々と同じように、あれこれ確かめられるのかと思った」
「分からないことは聞きますよ」
直成さんが真面目に答えるので、親能まで笑った。
ちよも笑った。
ただ、その間にも夕餉はできていく。
汁は煮え、飯も用意できている。
康信が、ふと鍋へ目を向けた。
「よい匂いだな」
親能もそちらを見る。
広元が膳に気づいて、腰を浮かせた。
「夕餉の前に長居をしたな。そろそろ――」
その声に、ちよは鍋の蓋を取った。
「汁なら、少し増やせます。召し上がっていかれますか」
康信の顔が明るくなる。
直成さんがすぐ立った。
「椀を出します。飯も、僕が分けますね」
ちよは夫へ小さくうなずいた。
二人の夕餉が、五人の夕餉になった。
◇
飯を食べ始めると、仕事以外の話も出た。
「直成殿は、外でも家のことをよく気にしているぞ」
康信が言った。
ちよは顔を上げる。
直成さんの箸も止まった。
「どんなふうにです?」
「仕事が長引けば、遅くなると知らせたいと言う」
「それは、待たせますから」
「妻が待っている、とも言うな」
親能が付け足した。
直成さんは少し困った顔になった。
「毎回ではありません」
「毎回とは言っておらん」
康信が笑う。
ちよは直成さんを見た。
家へ帰ってくると、疲れていても紙をしまい、戸を確かめ、こちらの話を聞く。
外では外のことばかり考えているのかと思っていたけれど、そうでもないらしい。
「ここでは、ずいぶん柔らかい顔をするな」
親能が言った。
「外では違うのですか」
「もっと難しい顔だ。誰かの話を聞いているか、考えているか、そのどちらかだな」
広元が少し笑った。
「ここでは、よく笑っている」
直成さんが三人を見回す。
「今日は仕事のお話だったはずですが」
「仕事は済んだ」
康信が平然と答えた。
ちよは笑いながら、夫の椀へ目を落とした。
直成さんは、少し耳が赤かった。
◇
食事の途中、康信の目がちよの左手に止まった。
「奥方。その指の輪は?」
薬指には、直成さんからもらった細い組紐の輪がある。
ちよはそっと指を動かした。
「夫から、もらいました」
三人の視線が直成さんへ向いた。
親能が首をかしげる。
「何かの習わしか」
「二人で決めたことです」
直成さんが答えた。
それ以上、言葉が続かない。
康信が面白そうに見る。
「説明はないのか」
「説明すると、少し長くなります」
「では、今日はよい」
返事が早かった。
「まだ何もお話ししていませんが」
「直成殿が長いと言うなら、本当に長いだろう」
親能が笑った。
広元は、ちよへ静かに尋ねた。
「大切なものなのだな」
ちよはうなずいた。
「はい」
それだけで、広元はそれ以上聞かなかった。
◇
それから、三人はときどき家へ来るようになった。
仕事の相談を持ってくる日もあれば、仕事が済むとすぐ帰る日もある。
けれど、夕餉までいる日も増えた。
康信は魚を持ってきた。
「この前は、急に食わせてもらったからな」
親能は野菜を持ってきた。
広元が一人で来た日、ちよが用向きを尋ねると、少し考えてから答えた。
「今日は、少し休みに来た」
ちよは驚いた。
「ここへ、ですか」
「ああ。邪魔でなければ」
ちよが直成さんを見ると、夫はもう湯を用意しようとしていた。
外では、それぞれ役目がある。
人の話を聞き、紙を扱い、簡単には間違えられない仕事をしている。
ここへ来ると、湯を飲み、飯を食べ、直成さんと言い合う。
仕事の話をしていたはずが、いつの間にか笑っている。
そんな客が、少しずつ増えていた。
◇
最後の客を送り、戸を閉める。
ようやく二人だけになった家で、ちよは並んだ椀を見た。
「直成さん」
「うん?」
「私、新婚なんですけど」
直成さんの手が止まった。
「……そうですね」
「分かっています?」
「分かっていますよ」
ちよが椀を指すと、直成さんもそちらを見る。
「二つでよかったはずなのに」
「僕も、そう思っていました」
ちよは笑った。
直成さんも少し笑ってから、こちらの顔を見る。
「今日は、疲れましたか」
「少し」
「急に増えましたからね。片づけは僕がします」
「二人でした方が早いでしょう」
椀を一つ渡すと、直成さんは素直に受け取った。
「皆さんが来るのは、嫌ではないんです」
「うん」
「でも、二人で飯を食べたい日もあります」
「僕もです」
すぐに返ってきたので、ちよは夫を見た。
直成さんは椀を持ったまま、少し照れた顔をしていた。
「では、来ると分かったら先に教えてくださいね」
「そうします」
「二人で食べたい日は、そう言ってください」
「……それも、そうします」
ちよは満足して、次の椀を渡した。
夫婦二人で始まった家だった。
椀は、もう増え始めている。
それでも今夜の片づけは、二人だった。




