第29話 まつは、自分で季成との婚姻を選ぶ
建暦元年(1211年)、鎌倉。
まつが政子に呼ばれたのは、昼前だった。
将軍御所に近い一室へ入ると、実朝の御台所も座っていた。
京都から鎌倉へ嫁いできた、将軍の妻である。
まつとは、反対の道を歩いた人だった。
ちよと並んで座ると、政子が言った。
「今日は、急いで返事を求めるために呼んだのではありません」
まつは顔を上げた。
「まだ返事をしていないことを、気にしておいでなのかと」
「あなたの考えを、もう少し聞いてみたかったのです」
政子はまつを見た。
「季成殿とは、文を交わしているのでしょう」
「はい」
「どんな人でした?」
まつは少し考えた。
「考えてから答える人です」
「ええ」
「分からないことは、分からないと書きます。私の問いには、だいたい答えてくださいます」
「だいたい?」
「話が、別のところまで長くなることがあるので」
ちよが小さく笑った。
まつは母を見る。
「父上のことを思い出したでしょう」
「少しね」
御台所も、口元を緩めた。
まつは、ようやく少し肩の力を抜いた。
◇
「季成殿から、尋ねられることもありますか」
政子が聞いた。
「はい。家のことや、鎌倉のことを」
「答えにくいことは?」
「ありました」
「どうしたの?」
「その問いには、答えませんでした」
「季成殿は?」
「次の文で、別のことを聞いてきました。催促は、されませんでした」
政子はうなずいた。
今度は、御台所が口を開いた。
「京へ行くことは、怖いですか」
まつは、その人を見た。
すぐには答えられなかった。
「少し」
「どのようなことが?」
「遠いことも、家を離れることも。京では、何を普通だと思えばよいのか、分からないことも」
まつは膝へ目を落とした。
「季成殿のご家族にも、会ったことがありません」
文では、知っている。
知成も、よしも、信成も、かやも、あきも。
名前を聞けば、いくつかの話を思い出せる。
その家へ、自分が入っていけるかは分からなかった。
御台所が言った。
「私も、鎌倉へ来たときは、分かりませんでした」
まつが顔を上げる。
「御台所様も?」
「ええ。将軍の妻になっても、知らない土地は知らない土地です」
御台所は少し笑った。
「最初は、人の歩く速さまで違う気がしました」
「歩く速さ?」
「本当に違ったのかは、分かりません。ただ、そう感じたのです」
まつも、少し笑った。
大きな決まりより先に、そんな違いが気になることもあるのかもしれない。
「京が、恋しくなりませんでしたか」
まつが尋ねた。
「なりましたよ。今でも、時折」
御台所は静かに答えた。
「けれど、京で育ったことまで、なくなるわけではありません。こちらへ来ても、覚えていることは、たくさんあります」
まつは、その顔を見た。
寂しくなくなると、約束されたわけではなかった。
それでも、話を聞けてよかったと思った。
◇
使いの者が、政子へ文を届けた。
京からの知らせだという。
政子は中を確かめてから、まつへ顔を向けた。
「この縁については、京でも話をつないでもらっています。藤原兼子殿からも、知らせが来ました」
後鳥羽院の近くに仕える、力のある女性だと聞いていた。
まつは姿勢を正した。
政子は、文の内容をまつへ伝えた。
相手の男だけでなく、その人が誰と暮らし、誰の話を聞き、困ったときに誰を頼るのかも見るように、と。
まつは、季成の文を思い出した。
考え込めば声をかける母。
返事が遅いと笑う兄。
文を何度も読み返していると、すぐ気づく妹。
自分が聞きたかったのは、季成のことだった。
家族の話も、その人を知る手がかりになっていた。
「京へ行ったら、季成殿の家だけを頼ることになるのですか」
まつが尋ねると、政子は首を振った。
「鎌倉と京の間には、仕事や文をつなぐ者もいます。中原季時殿にも、受け入れについて相談することになるでしょう」
ちよの顔が、わずかに動いた。
まつは母を見る。
「ご存じなの?」
「父上が、京で一緒に仕事をしていた方よ」
まつは、もう一度、その名を頭の中で繰り返した。
中原季時。
父を知る人が、京にもいる。
「詳しいことを、聞けるかしら」
「お会いすることになれば、お尋ねできるでしょうね」
ちよが答えた。
まつは、家の棚に残した父の椀を思い浮かべた。
あの椀は持っていかない。
けれど、自分が父の働いた京を見ることは、あるのかもしれない。
政子が尋ねた。
「それも、京へ行きたい理由になりますか」
まつは少し考えた。
「父上のことは、知りたいです」
政子は黙って聞いていた。
「でも、それを知るためだけに、季成殿と夫婦になるわけにはいきません」
ちよが、娘を見た。
まつは続けた。
「父上のことを尋ねるなら、そのための文を書けばよいでしょう。婚姻は、それとは別に考えたいです」
政子がうなずいた。
◇
「私からも、一つ尋ねてよいですか」
まつが言った。
「どうぞ」
「初めに、この縁談が来たとき、どうして私だったのですか」
政子は少し考えた。
「季成殿の側から、鎌倉との縁を求める話がありました。こちらでも、幾つか考えられる家があったのです」
「では、二階堂家でなければ、ということではなかったのですね」
「ええ」
まつは、少し息をついた。
「安心しました」
「なぜ?」
「私に、何か大きな役目があるのかと思っていたので」
政子が笑った。
「ただ、話を聞いて、自分の考えを返せる人がよいとは思いました」
「私が?」
「こうして、私にも尋ねているでしょう」
まつは、少し口を閉じた。
政子は、母ではなく、まつを見ていた。
「季成殿がどういう人か、全部を知るのは難しいでしょう。そのうえで、あなたは、どうしたいですか」
まつは、昨日の母との話を思い出した。
夫婦になっても、知らないことは出てくる。
そのときに、話ができるかどうか。
季成は、自分の言葉へ返事をくれた。
強く書いてしまったところにも、何を考えたのか尋ねてきた。
答えたくないことを、無理には聞かなかった。
自分も、次の文を読みたくなった。
「私は、季成殿のところへ行ってみたいです」
声にすると、思ったよりも普通に言えた。
ちよの目が、少し大きくなった。
「知らない家へ行くのは、怖いです。京の暮らしも、分かりません」
まつは政子を見た。
「でも、分からないことがあったら、あの人には聞けると思います。違うと思えば、違うと言えると思います」
御台所が静かにうなずいた。
「ご家族にも、会ってみたいです」
まつは一度、息を吸った。
「私は、季成殿と夫婦になりたいです」
誰も、すぐには答えなかった。
まつは、母を見た。
「……何か言ってください」
ちよは、ようやく笑った。
「あなたの口から聞けて、よかったわ」
まつは、少しだけ目を伏せた。
◇
政子は、正式に話を進めると告げた。
季成にも返事を届けると言われ、まつは顔を上げた。
「その返事は、私から書いてもよいですか」
政子が眉を上げる。
「自分で?」
「ここまで、文を交わしてきたので。最後だけ、人に伝えていただくのは、少し違う気がします」
ちよがうなずいた。
「それがいいわ」
政子も微笑んだ。
「では、あなたの言葉を届けましょう」
◇
家へ戻ると、行嗣とあやが寄ってきた。
「どうでした」
「何が?」
「決めたのですか」
まつは二人を見た。
「先に、季成殿へ文を書きます」
「あちらには、教えるのね」
あやが言った。
「当たり前でしょう」
まつは紙を出した。
行嗣とあやは、すぐには離れなかった。
「二人とも、書き終わるまで待っていて」
ようやく静かになる。
まつは筆を取った。
藤原季成殿。
初めに、何度も文をくれたことへの礼を書いた。
それから、知らない相手との婚姻を、すぐには決められなかったこと。
問いを送るたび、返事を待つようになったこと。
季成も、こちらのことを知ろうとしてくれたことを書いた。
筆が止まる。
少し強い言い方のところもある。
直そうか迷った。
けれど、季成なら、このままでも何を言いたいのか考えてくれそうだった。
続きを書く。
――これからも、知らないことが出てくると思います。そのときは、私からお尋ねします。季成殿も、私へ尋ねてください。
最後に、ゆっくりと書いた。
――私は、京へ行きます。季成殿と、夫婦になりたいと思います。
筆を置いた。
戸の向こうでは、家族の声がしていた。
机の端には、昨日あやから受け取った栗が一つある。
まつは、それを見た。
「これは、持っていこうかな」
外から、あやの声がした。
「何を?」
まつは振り向いた。
「あや。まだ、そこにいたの?」
「今、聞こえただけ」
「文は見せませんからね」
「栗?」
まつが黙ると、あやは嬉しそうに笑った。
京へ行くと決めても、家族の声は、いつもと変わらなかった。
* * *
【今回登場した歴史人物】
北条政子
源頼朝の妻で、頼家・実朝の母です。頼朝の死後も、鎌倉の政治に大きな影響力を持ちました。
実朝の御台所
京都の公卿・坊門信清の娘で、元久元年(1204年)に実朝と婚姻しました。
藤原兼子
後鳥羽上皇の乳母を務め、その院政で大きな影響力を持った女性です。




