幕間5 ちよは、直成を「直成さん」と呼ぶ
元暦元年(1184年)、鎌倉。
家の者との相談を重ね、直成とちよは夫婦になった。
朝になれば起き、食事をする。
直成は仕事へ行き、ちよは家のことをする。
新しく始まった暮らしは、思っていたより普通だった。
ただ、家の中には、直成のものがある。
紙。筆。衣。履物。
自分のものの隣に、その人のものが置かれている。
ちよは、ときどき、それを見ていた。
夕方には、持ち主が帰ってくる。
それも、以前とは違うことだった。
◇
「お帰りなさい、直成殿」
「ただいま戻りました」
直成は、そう答えたあと、少し止まった。
ちよは手にしていた布を置いた。
「何か、ありました?」
「いえ。仕事のことではないんですが」
「では?」
直成は、ちよを見た。
「二人だけのときは、呼び方を変えてもよいかなと思って」
ちよは首を傾けた。
「どう呼ぶのです?」
直成は少し迷い、それから言った。
「ちよさん、と」
ちよは黙った。
自分の名のあとに、聞き慣れない音がついていた。
「ちよ、さん?」
「はい」
「それは、何ですか」
「僕の知っている呼び方なんです。こちらでは、あまり聞かないと思いますが」
「また、直成殿のいたところの?」
直成がうなずいた。
ちよは、もう一度その音を考えた。
ちよさん。
直成に言われたときの声が、耳に残っている。
「なぜ、それがよいのです?」
「二人でいるときに、そう呼べたらと思ったので」
直成は、少し照れたように笑った。
「もちろん、ちよ殿が嫌でなければ」
「嫌とは、言っていません」
ちよは夫を見た。
「では、私も同じにします」
「同じ?」
「直成さん」
直成さんが黙った。
ほんの少しだったが、ちよには分かった。
「今、止まりましたね」
「はい」
「嫌でした?」
直成さんは首を振った。
「嬉しかったんです」
今度は、ちよが黙った。
呼び方を試しただけだった。
そんな返事が来るとは思っていなかった。
「……そういうことを、急に言うのですね」
直成さんが少し笑う。
ちよは、夫の顔を見続けるのが少し恥ずかしくなり、手元の布を畳み直した。
◇
「二人だけのときですよ」
ちよが言った。
「はい」
「父や母や、兄たちがいるところでは、今までどおりです」
「分かりました」
「間違えないでくださいね」
直成さんは、少しだけ目を細めた。
「それほど、恥ずかしいですか」
「直成さんは、平気なのですか」
そう呼ぶと、直成さんが、また少し黙った。
ちよは気づいた。
平気な顔をしているだけかもしれない。
少し、おかしくなった。
「今、二度目です」
「数えていたんですか」
「分かりやすかったので」
直成さんも笑った。
ちよは布を置き、夕餉の支度へ戻った。
背を向けてからも、少し頬が熱かった。
◇
一緒に暮らしてみると、知らなかったことが少しずつ増えた。
直成さんは、物を箱へ分け、札をつけていた。
仕事の紙。家で使う紙。筆や、細々したもの。
ちよは、その几帳面さに感心した。
それでも、探し物をすることはある。
その日も、直成さんは机の上を見ていた。
「何を探しているのです?」
「昨日、書き足した覚え書きを」
ちよは脇の箱を指した。
「そこへ戻していませんか」
直成さんが箱を開ける。
紙を一枚取り出し、少し笑った。
「ありました」
「自分で片づけたのでしょう」
「片づけたところまで、忘れていました」
ちよは夫を見た。
仕事の話をすると、何でも細かく覚えている人だと思っていた。
家では、そうでもないらしい。
「直成さん」
「はい」
呼んだ自分の方が、少し照れた。
それでも、続けた。
「私は、こちらに置いてある紙は、勝手に動かさない方がよいですか」
直成さんは紙を下ろした。
「動かしてもらって大丈夫です。ただ、どこへ移したか教えてもらえると助かります」
「触られるのが嫌なのかと思っていました」
「嫌ではないですよ。僕ばかり場所を使っても困るでしょう」
ちよは箱を見た。
「では、布をしまうところも、空けてください」
「ああ。そうでしたね」
直成さんは箱を少し寄せた。
ちよも、その隣へ自分のものを置いた。
同じ家に、二人のものが並ぶ。
眺めているだけだったものへ、自分から手を入れた気がした。
◇
夕餉のとき、直成さんの目が、ちよの左手へ向いた。
ちよも、自分の手を見る。
薬指に、細い組紐の輪があった。
「邪魔ではないですか」
直成さんが尋ねた。
「今は、平気です」
「それなら、よかった」
「外した方が、よいときもあるでしょうね」
「仕事がしにくいときは、外してください。なくさないように、しまっておけば」
ちよは輪に触れた。
求婚された夜より、指に馴染んだ気がする。
それでも、触れると、あのときのことを思い出した。
「なぜ、この指だったのです?」
直成さんは、少し考えた。
「僕の知っている習わしでは、夫婦になる人に、そこへ輪をつけてもらうことがあるんです」
「皆、するのですか」
「皆ではありません。それに、輪をつける人でも、ずっとつける人ばかりではないです」
「難しいですね」
「説明し始めると、また長くなりそうです」
ちよは少し笑った。
「では、今日はそこまでにしておきます」
直成さんがうなずく。
ちよは輪を見た。
どこで覚えた習わしなのか、まだ知らない。
それでも、自分と家族になりたいと言って渡されたものだということは、知っていた。
◇
夜、二人の用事が済むと、家は静かになった。
ちよは戸を確かめ、夫のそばへ戻った。
「直成さん」
「はい、ちよさん」
少し照れる。
呼ばれた方も、こちらを見るまでに、わずかな間がある。
ちよは、その間が嫌ではなかった。
「夫婦になっても、知らないことが増えるのですね」
直成さんが少し考えた。
「一緒に暮らすから、見えることもあるんでしょうね」
「嫌なところも?」
「あると思います」
ちよは夫を見た。
「見つけたら、どうするのです?」
「まず、話してみたいです。僕が何か、勘違いしているかもしれませんから」
「では、私も話します」
「はい」
「黙っているだけでは、分からないでしょう」
直成さんがうなずいた。
「そうですね。僕も、気をつけます」
ちよは、その返事を少し気に入った。
何でも分かる夫婦になったわけではない。
これから、一緒に暮らして知っていく。
そのために、尋ねたり、話したりしてよいらしい。
ちよは左手の輪へ触れた。
「これは、今はつけておきます」
「はい」
「直成さんが、くれたものですから」
直成さんが、静かに笑った。
ちよは少し目を伏せてから、もう一度顔を上げた。
「でも、人がいるときは、呼び方を間違えないでくださいね」
「覚えていますよ」
「明日には、忘れているかもしれません」
「では、忘れないように」
直成さんはちよを見た。
「おやすみなさい、ちよさん」
ちよは、すぐには答えられなかった。
それから、小さく息をついて笑った。
「おやすみなさい、直成さん」
二人だけの呼び方が、その夜、もう一つ、二人の暮らしに加わった。




