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二階堂一族、鎌倉時代を賑やかに生きる。――亡き父親は転移者!  作者: これってなんだろう
第三部 三郎の元服と、まつの縁談――承元四年〜建暦元年(1210〜1211年)
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幕間5 ちよは、直成を「直成さん」と呼ぶ

元暦元年(1184年)、鎌倉。


家の者との相談を重ね、直成とちよは夫婦になった。


朝になれば起き、食事をする。


直成は仕事へ行き、ちよは家のことをする。


新しく始まった暮らしは、思っていたより普通だった。


ただ、家の中には、直成のものがある。


紙。筆。衣。履物。


自分のものの隣に、その人のものが置かれている。


ちよは、ときどき、それを見ていた。


夕方には、持ち主が帰ってくる。


それも、以前とは違うことだった。


 ◇


「お帰りなさい、直成殿」


「ただいま戻りました」


直成は、そう答えたあと、少し止まった。


ちよは手にしていた布を置いた。


「何か、ありました?」


「いえ。仕事のことではないんですが」


「では?」


直成は、ちよを見た。


「二人だけのときは、呼び方を変えてもよいかなと思って」


ちよは首を傾けた。


「どう呼ぶのです?」


直成は少し迷い、それから言った。


「ちよさん、と」


ちよは黙った。


自分の名のあとに、聞き慣れない音がついていた。


「ちよ、さん?」


「はい」


「それは、何ですか」


「僕の知っている呼び方なんです。こちらでは、あまり聞かないと思いますが」


「また、直成殿のいたところの?」


直成がうなずいた。


ちよは、もう一度その音を考えた。


ちよさん。


直成に言われたときの声が、耳に残っている。


「なぜ、それがよいのです?」


「二人でいるときに、そう呼べたらと思ったので」


直成は、少し照れたように笑った。


「もちろん、ちよ殿が嫌でなければ」


「嫌とは、言っていません」


ちよは夫を見た。


「では、私も同じにします」


「同じ?」


「直成さん」


直成さんが黙った。


ほんの少しだったが、ちよには分かった。


「今、止まりましたね」


「はい」


「嫌でした?」


直成さんは首を振った。


「嬉しかったんです」


今度は、ちよが黙った。


呼び方を試しただけだった。


そんな返事が来るとは思っていなかった。


「……そういうことを、急に言うのですね」


直成さんが少し笑う。


ちよは、夫の顔を見続けるのが少し恥ずかしくなり、手元の布を畳み直した。


 ◇


「二人だけのときですよ」


ちよが言った。


「はい」


「父や母や、兄たちがいるところでは、今までどおりです」


「分かりました」


「間違えないでくださいね」


直成さんは、少しだけ目を細めた。


「それほど、恥ずかしいですか」


「直成さんは、平気なのですか」


そう呼ぶと、直成さんが、また少し黙った。


ちよは気づいた。


平気な顔をしているだけかもしれない。


少し、おかしくなった。


「今、二度目です」


「数えていたんですか」


「分かりやすかったので」


直成さんも笑った。


ちよは布を置き、夕餉の支度へ戻った。


背を向けてからも、少し頬が熱かった。


 ◇


一緒に暮らしてみると、知らなかったことが少しずつ増えた。


直成さんは、物を箱へ分け、札をつけていた。


仕事の紙。家で使う紙。筆や、細々したもの。


ちよは、その几帳面さに感心した。


それでも、探し物をすることはある。


その日も、直成さんは机の上を見ていた。


「何を探しているのです?」


「昨日、書き足した覚え書きを」


ちよは脇の箱を指した。


「そこへ戻していませんか」


直成さんが箱を開ける。


紙を一枚取り出し、少し笑った。


「ありました」


「自分で片づけたのでしょう」


「片づけたところまで、忘れていました」


ちよは夫を見た。


仕事の話をすると、何でも細かく覚えている人だと思っていた。


家では、そうでもないらしい。


「直成さん」


「はい」


呼んだ自分の方が、少し照れた。


それでも、続けた。


「私は、こちらに置いてある紙は、勝手に動かさない方がよいですか」


直成さんは紙を下ろした。


「動かしてもらって大丈夫です。ただ、どこへ移したか教えてもらえると助かります」


「触られるのが嫌なのかと思っていました」


「嫌ではないですよ。僕ばかり場所を使っても困るでしょう」


ちよは箱を見た。


「では、布をしまうところも、空けてください」


「ああ。そうでしたね」


直成さんは箱を少し寄せた。


ちよも、その隣へ自分のものを置いた。


同じ家に、二人のものが並ぶ。


眺めているだけだったものへ、自分から手を入れた気がした。


 ◇


夕餉のとき、直成さんの目が、ちよの左手へ向いた。


ちよも、自分の手を見る。


薬指に、細い組紐の輪があった。


「邪魔ではないですか」


直成さんが尋ねた。


「今は、平気です」


「それなら、よかった」


「外した方が、よいときもあるでしょうね」


「仕事がしにくいときは、外してください。なくさないように、しまっておけば」


ちよは輪に触れた。


求婚された夜より、指に馴染んだ気がする。


それでも、触れると、あのときのことを思い出した。


「なぜ、この指だったのです?」


直成さんは、少し考えた。


「僕の知っている習わしでは、夫婦になる人に、そこへ輪をつけてもらうことがあるんです」


「皆、するのですか」


「皆ではありません。それに、輪をつける人でも、ずっとつける人ばかりではないです」


「難しいですね」


「説明し始めると、また長くなりそうです」


ちよは少し笑った。


「では、今日はそこまでにしておきます」


直成さんがうなずく。


ちよは輪を見た。


どこで覚えた習わしなのか、まだ知らない。


それでも、自分と家族になりたいと言って渡されたものだということは、知っていた。


 ◇


夜、二人の用事が済むと、家は静かになった。


ちよは戸を確かめ、夫のそばへ戻った。


「直成さん」


「はい、ちよさん」


少し照れる。


呼ばれた方も、こちらを見るまでに、わずかな間がある。


ちよは、その間が嫌ではなかった。


「夫婦になっても、知らないことが増えるのですね」


直成さんが少し考えた。


「一緒に暮らすから、見えることもあるんでしょうね」


「嫌なところも?」


「あると思います」


ちよは夫を見た。


「見つけたら、どうするのです?」


「まず、話してみたいです。僕が何か、勘違いしているかもしれませんから」


「では、私も話します」


「はい」


「黙っているだけでは、分からないでしょう」


直成さんがうなずいた。


「そうですね。僕も、気をつけます」


ちよは、その返事を少し気に入った。


何でも分かる夫婦になったわけではない。


これから、一緒に暮らして知っていく。


そのために、尋ねたり、話したりしてよいらしい。


ちよは左手の輪へ触れた。


「これは、今はつけておきます」


「はい」


「直成さんが、くれたものですから」


直成さんが、静かに笑った。


ちよは少し目を伏せてから、もう一度顔を上げた。


「でも、人がいるときは、呼び方を間違えないでくださいね」


「覚えていますよ」


「明日には、忘れているかもしれません」


「では、忘れないように」


直成さんはちよを見た。


「おやすみなさい、ちよさん」


ちよは、すぐには答えられなかった。


それから、小さく息をついて笑った。


「おやすみなさい、直成さん」


二人だけの呼び方が、その夜、もう一つ、二人の暮らしに加わった。

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