第26話 ふみは、夫の疲れに気づいている
承元四年(1210年)、鎌倉。
宗直が帰ってきたのは、日が傾き始めたころだった。
「ただいま」
いつもと同じ声だった。
ふみは干していた布を取り込みながら振り向いた。
「おかえりなさい」
宗直は履物の土を落として上がり、持ち帰った紙を横へ置いた。
怪我はない。
ひどく顔色が悪いわけでもない。
それでも、湯の入った椀を受け取ったあと、しばらく動かなくなった。
ふみは布を畳みながら、その手元を見た。
今日は、疲れている。
「朝から土地のことで話があってな」
宗直が話し始めた。
「それが済んだと思ったら、別の家から人が来た」
「そちらも、あなたが行ったの?」
「ああ。俺が行かなくてもよかったんだが」
「行ったのね」
「行った」
ふみは、畳んだ布を重ねた。
宗直がこちらを見る。
「何か言いたそうだな」
「話を聞いているだけよ」
宗直は少し眉を上げたが、また今日の仕事を話し始めた。
◇
忠太がやってきた。
「父上。これ、見て」
宗直が立ち上がりかける。
ふみが先に言った。
「こちらへ持っておいで」
「父上に見せたい」
「父上も、ここにいるでしょう」
忠太は少し考え、持っていたものを宗直の前へ広げた。
宗直は座ったまま、息子の話を聞いた。
いつもなら、自分から手を出して確かめる。
今日は、うなずくまでに少し間がある。
ふみは湯を足し、火に近いところへ敷物を寄せた。
「こちらの方が暖かいわよ」
宗直が敷物を見る。
「俺に?」
「空いているから」
「そうか」
宗直は素直に座り直した。
ふみは背を向け、少し笑った。
昔から、こういう人だった。
休めと言えば、まだ大丈夫だと言う。
そのくせ、座る場所と温かい湯があれば、ようやく手を止めることもある。
庭から、たかに呼ばれた。
ふみが立つと、宗直も腰を浮かせた。
「俺が行こう」
「私も、すぐそこへ行けるわ」
「それは、そうだが」
「では、行ってくるね」
用事は、結んだ縄がほどけないということだった。
戻ってくると、宗直はまだ同じところに座っていた。
◇
小次郎が泣き始めた。
宗直が顔を上げる。
「今度は、俺が」
ふみは夫を見た。
「さっきから、お前ばかり動いている」
自分が疲れているときにも、こちらのことは気にする。
ふみは少し嬉しくなった。
「では、ここで抱いていてくれる?」
小次郎を連れてきて、宗直へ渡した。
宗直の大きな手が、子の背へ回る。
「どうした」
仕事の話をしていたときより、声が低く、静かだった。
ふみは夕餉の支度へ戻った。
包丁を置くたび、火の様子を見るたび、つい夫の方へ目が向く。
小次郎の泣き声は、やがて止まった。
宗直も話さなくなった。
父と子が、同じところでじっとしている。
ふみは、その様子をしばらく見ていた。
「寝た?」
「ああ」
「そろそろ寝かせましょうか」
宗直は腕の中を見た。
「置いたら起きないか」
「起きたら、また抱けばいいわ」
宗直は、ずいぶん慎重に小次郎を寝かせた。
ふみが笑う。
「上手になったね」
「何人目だと思っている」
「忠太のときは、そっと置いたつもりで、大きな音を立てたでしょう」
「覚えていない」
「私は覚えているわ」
「忘れてくれ」
「嫌」
宗直が顔を上げた。
「なぜだ」
「あなたが、一生懸命だったから」
宗直は何か言いかけて、やめた。
ふみは、その顔を見て、もう一度笑った。
◇
夕餉の前に、行嗣が紙を持ってきた。
「兄上。母上から、明日のことを」
「どうした、三郎」
行嗣の眉が動いた。
「行嗣です」
「ああ、そうだった」
ふみが笑った。
「今日も間違えたの?」
「生まれたときから三郎と呼んでいるんだ。すぐには直らん」
「姉上にも、同じことを言われました」
行嗣が答えた。
「ですが、覚えてください」
「ああ。行嗣」
「はい」
宗直が紙へ手を伸ばした。
ふみが尋ねる。
「急ぎ?」
行嗣は首を振った。
「明日の支度のことです」
「では、ここへ置いておいて。朝、確かめましょう」
行嗣は宗直を見た。
宗直も、ふみを見た。
「今、見ても構わないぞ」
「今、見ないと困るの?」
「……いや」
「では、明日」
行嗣は紙を棚の端へ置いた。
帰り際、ふみへ小さく頭を下げる。
「兄上のことを、よくご存じですね」
宗直が弟を見た。
「何の話だ」
「では、失礼します」
行嗣は、返事を聞く前に戻っていった。
◇
夕餉では、忠太とたかが交代で話した。
宗直の返事が少し遅れると、忠太が顔をのぞき込んだ。
「父上、聞いてる?」
「ああ」
「何の話だった?」
宗直が止まる。
「……縄の」
「違う。魚」
たかが笑った。
宗直も、困ったように笑う。
「すまん。途中から聞けていなかった」
忠太が、父の顔を見た。
ふみが口を開く前に、宗直が言った。
「明日、もう一度聞かせてくれ」
「忘れない?」
「忘れない」
忠太はうなずき、今度はふみへ続きを話し始めた。
宗直は、その声を聞きながら椀を持った。
少し肩が下がっていた。
ふみは、ようやく安心した。
◇
夜、子どもたちが静かになったあと、宗直は棚の紙へ手を伸ばしかけた。
途中で止める。
ふみは何も言わず、寝具を整えていた。
「明日にする」
宗直が言った。
「ええ」
「少し早く起きれば、間に合う」
「そうね」
宗直が、ふみを見る。
「お前、初めから、そのつもりだったのか」
「何が?」
「俺を休ませるつもりだっただろう」
ふみは手を止めた。
「休んで、と言ったら、何と答えた?」
宗直は少し考えた。
「まだ大丈夫だ、と」
「でしょう?」
宗直が小さく笑った。
「昔から、よく見ているな」
ふみも笑った。
「長い付き合いですから」
「俺より、俺の疲れに気づく」
「あなたが、自分のことを後回しにするからよ」
宗直は返事をしなかった。
ふみは掛物を広げた。
「何も言わずに見ているのも、案外大変なの」
「そうなのか」
「すぐに、手を出したくなるから」
「子ども扱いするな」
ふみは少し迷ってから、夫を見た。
「好きだから、放っておけないだけ」
宗直の手が止まった。
ふみも、自分で言ってから少し顔が熱くなった。
夫婦になって、子どもも三人いる。
それでも、ときどき、言う前より恥ずかしくなることがある。
「……何か言って」
「急に言うな」
「夫婦なのに?」
宗直は目をそらした。
それから、ふみの手を取った。
「俺もだ」
ふみは夫を見た。
「何が?」
「分かっているだろう」
「聞きたいの」
宗直は困った顔をしたが、手は離さなかった。
◇
しばらくすると、夫の返事がなくなった。
もう眠ったらしい。
ふみは、掛物を少し直した。
棚の端には、明日でよい紙が置いてある。
朝になれば、また仕事が始まる。子どもたちも起きてくる。
今夜は、その前に眠ってほしかった。
ふみは夫の寝顔を見てから、灯りを消した。
* * *
【今回の夫婦】
宗直とふみ
宗直とふみは、幼いころから互いを知る夫婦です。ふみは、宗直の抱え込みやすさを知り、本人が休めるように暮らしを整えます。二人の子どもは、忠太、たか、小次郎の三人です。




