第25話 三郎は、行嗣になっても三郎と呼ばれる
承元四年(1210年)、鎌倉。
元服の日の朝。
三郎は、いつもより早く目が覚めた。
春になったとはいえ、鎌倉の朝はまだ冷える。
布から出ると、足元から冷気が上がってきた。
三郎は用意してあった衣を見た。
襟を確かめる。
袖を確かめる。
それから、もう一度襟を確かめた。
「それ、さっきも見てたよ」
あやだった。
「起きていたのか」
「三郎兄上が起きたから」
「私のせいにするな」
「今日から三郎兄上じゃなくなるんでしょう?」
三郎は少し黙った。
「そうだ」
「いつから?」
「元服したらだ」
「烏帽子をつけたら?」
「たぶん」
「新しい名前になったら?」
「……たぶん」
「三郎兄上も知らないんだ」
「細かいところまで考えたことがないだけだ」
「自分の元服なのに」
「今からするんだ」
後ろから笑い声がした。
「朝からずいぶん難しい話をしているわね」
まつだった。
「あやが変なことを聞くのです」
「でも、私も少し気になるわ」
「姉上まで」
「今日のどこから、三郎ではなくなるのかしら」
「名前をもらったらでしょう」
「じゃあ、それまでは三郎ね」
「そうです」
「なら今のうちに呼んでおこうかしら。三郎」
「はい」
三郎は反射的に返事をした。
まつが笑う。
「よく返事ができました」
「姉上」
「何?」
「朝から人をからかわないでください」
「今日から大人になるのでしょう?」
「だから何です」
「からかわれても我慢できるようにならないと」
「それとこれとは別です」
今度はあやが笑った。
「三郎」
母の声がした。
「はい」
ちよがやってくる。
三郎を見る。
衣を見る。
襟を見る。
そのまま手を伸ばした。
「曲がってる」
「さっき直しました」
「触りすぎたんじゃない?」
「そんなことがありますか」
「あるわよ」
ちよが襟を整える。
三郎は黙って立っていた。
小さいころにも、何度もこうしてもらった。
今日は大人になる日なのに、母に襟を直されている。
少し居心地が悪い。
「母上」
「何?」
「自分でできます」
「知ってるわ」
「なら」
「今日くらいいいでしょう」
ちよは襟から手を離した。
「はい。これでいい」
「……ありがとうございます」
まつが横から言った。
「まだ三郎ね」
「どういう意味ですか」
「母上に襟を直してもらっているもの」
「姉上」
「元服したら自分で直せばいいでしょう」
三郎は言い返そうとして、やめた。
表の方が騒がしくなった。
宗直が入ってくる。
「母上。伯父上方が来ました」
「あら、もう?」
ちよには三人の兄がいる。
行房、行重、行兼。
三郎たちにとっては母方の伯父たちだった。
三人とも、甥の元服を祝いに来たらしい。
「大きくなったな」
と行兼が言えば、
「今日は余計なことを言うな」
と行房が止め、
その横で行重が笑う。
三郎には、そのくらいで十分だった。
三人そろうと、母がいつもより少しだけ妹に見える。
「兄上たち、今日は三郎の元服なのよ」
ちよが言う。
「分かっている」
「なら三人で同時に話さないで」
「誰も同時には話していない」
「今、行重兄上も話そうとしたでしょう」
「まだ話していない」
「顔で分かります」
三郎は思わず笑った。
自分たち兄妹が騒がしいのは、父のせいだけではないのかもしれない。
そんなことを考えた。
その日、もう一人、大切な客が来る。
大江広元だった。
父・直成が生前に仕えていた人。
鎌倉の文書や政務を支えている人物でもある。
そして今日、三郎の烏帽子親を務める。
元服のとき、若者に烏帽子を着ける役を務める大人を、烏帽子親という。
三郎は、宗直からその名を聞いたとき、驚いた。
広元は父をよく知っている。
三郎自身も、これから広元のもとで、もっと文書の仕事を学びたいと思っていた。
だからこそ、今日ばかりは少し緊張した。
広元が来ると、宗直が迎えた。
「広元殿。本日はありがとうございます」
「こちらこそ、呼んでもらってよかった」
広元は三郎を見る。
「ずいぶん固い顔をしているな」
三郎は顔を上げた。
「皆、同じことを言います」
「なら、本当に固いのだろう」
「そうでしょうか」
「一人の言葉で分からなければ、何人かに聞いて確かめる。父親に教わらなかったか」
三郎は口を閉じた。
光成が後ろで笑う。
「広元殿まで言う」
「兄上」
「俺は何も言っていないぞ」
「顔が笑っています」
「顔までは止められん」
広元も少し笑った。
その笑い方を、三郎は知っていた。
父の話をするとき、ときどき広元はこんな顔をする。
元服の支度が始まった。
髪を改める。
衣を整える。
先ほどまで騒がしかった家族も、このときばかりは少し静かになった。
宗直。
光成。
まつ。
あや。
ふみ。
おりん。
子どもたち。
ちよの三人の兄。
三郎は思った。
多い。
自分一人が元服するだけなのに、ずいぶん大勢が見ている。
「動くなよ」
光成が小さな声で言った。
「分かっています」
「首まで固まってるぞ」
「兄上」
「前を向け」
宗直が言った。
三郎は前を向いた。
やがて広元が三郎の前へ進んだ。
烏帽子が着けられる。
頭に、ほんの少し重さを感じた。
それだけのはずなのに、不思議だった。
朝までとは違うものが、頭の上に載ったような気がした。
広元が三郎を見る。
「三郎」
「はい」
「名前が変わったからといって、昨日までのお前が消えるわけではない」
三郎は黙って聞いた。
「今日から、急に何でもできるようになるわけでもない。分からぬことを、分かったふりだけはするな」
三郎は少し驚いた。
もっと、
家を支えよ。
役目を果たせ。
大人らしくせよ。
そういうことを言われると思っていた。
広元は続ける。
「分からぬことがあれば?」
三郎は答えた。
「調べます」
「それでも分からなければ」
「本人に聞きます」
「聞いた話が食い違えば」
三郎は少し考えた。
「もう一度、確かめます」
広元がうなずいた。
「それでいい」
三郎は、その言葉をどこかで聞いたことがある気がした。
父だったか。
母だったか。
兄たちだったか。
もう分からない。
家の中で、何度も聞いてきた言葉だった。
そして、新しい名が告げられた。
行嗣。
三郎は頭の中で繰り返した。
行嗣。
二階堂行嗣。
昨日まではなかった名前。
今日からは、自分の名前になる。
広元が呼んだ。
「行嗣」
一瞬、返事が遅れた。
「……はい」
広元が笑う。
「遅れたな」
「まだ慣れておりません」
「今ついた名だからな。すぐに慣れた方がおかしい」
「そういうものですか」
「そういうものだ」
後ろから、あやが小さな声で言った。
「行嗣兄上」
三郎は振り返る。
「何だ」
あやが笑った。
「返事した」
「今の名だからな」
「もう慣れた?」
「少しは」
「じゃあ――」
「それ以上は言うな」
あやは口を閉じた。
顔だけ笑っていた。
祝いの膳が並ぶころには、家の中はすっかりいつもの騒がしさに戻っていた。
三人の伯父たちは、それぞれ祝いの言葉を残し、長居をせず帰っていった。
行嗣にとっては、そのくらいがちょうどよかった。
今度は家族と広元だけになった。
あやが魚を見る。
「今日は大きいね」
まつが言う。
「最初に見るところがそこなの?」
「大事でしょう」
「三郎の元服なのよ」
行嗣がすぐに言った。
「行嗣です」
まつが止まる。
「あ」
行嗣は少し得意になった。
「もう間違えましたね」
「一度だけでしょう」
「始まったばかりですよ」
「十五年近く三郎だったのよ。少しくらい待ちなさい」
「私の方だって十五年近く三郎でした」
「なら、一番慣れていないのはあなたじゃない」
行嗣は黙った。
光成が笑った。
「まつの勝ちだな」
「勝ち負けの話ではありません」
広元が行嗣へ言った。
「元服も済んだ。今度はこちらにも来い」
行嗣は顔を上げた。
「よろしいのですか」
「来たいのだろう」
「はい」
「なら来ればいい」
「何をさせていただけますか」
「もう仕事の話か」
広元が笑う。
「まずは紙を運ぶところからかもしれんぞ」
「それはもうできます」
「間違えずに?」
「できます」
「本当に?」
行嗣は少し止まった。
「……たぶん」
「なら、そこから確かめよう」
ちよが横から言った。
「ほら」
「何ですか、母上」
「先へ進めすぎないの」
「父上みたいなことを言わないでください」
「父さんだけが言っていたわけではないでしょう」
「そうでしたか」
「そうよ」
広元が少しだけ笑った。
行嗣は、その顔を見た。
父のことを何か思い出したのかもしれない。
聞こうかと思った。
けれど今日はやめた。
聞く日は、これからもある。
そのとき。
「三郎兄上、それ取って」
あやが言った。
行嗣は反射的に皿を取った。
「はい」
あやへ渡す。
静かになった。
行嗣は自分の手を見る。
まつが口元を押さえている。
光成は下を向いた。
宗直は、もう笑っていた。
あやが言う。
「返事した」
「していない」
「したよ」
「身体が動いただけだ」
「はい、って言った」
「聞き違いだ」
「三郎兄上」
「何だ」
また答えてしまった。
家中から笑い声が上がった。
行嗣は口を閉じた。
しまった。
あやが嬉しそうに言う。
「やっぱり三郎兄上だ」
「違う」
「行嗣兄上?」
「そうだ」
「三郎兄上?」
「だから違う」
「でも返事する」
「何年そう呼ばれてきたと思っている」
まつが言う。
「今日一日で忘れる方が寂しいんじゃない?」
行嗣は姉を見る。
少しだけ、言葉に詰まった。
「……忘れろとは言っていません」
「でしょう?」
「でも、行嗣とも呼んでください」
「それはもちろん」
ちよは少し離れたところで笑っていた。
行嗣が気づく。
「母上」
「何?」
「母上は、まだ一度も新しい名で呼んでいません」
ちよが少し驚いた。
「そうだった?」
「そうです」
「呼んでほしいの?」
行嗣は少し迷った。
「……はい」
ちよは息子を見る。
それから、静かに呼んだ。
「行嗣」
今度はすぐに返事ができた。
「はい」
ちよが笑う。
「似合ってるわ」
「名前がですか」
「名前も。烏帽子も」
行嗣は思わず烏帽子へ手を伸ばしかけた。
「触らないの」
「触っていません」
「今、触ろうとしたでしょう」
「少しだけです」
「落としたらどうするの」
光成が横から言った。
「それくらいでは落ちませんよ」
ちよが光成を見る。
「あなたの言うことを、行嗣が全部信じたらどうするの」
「なぜ私だけ信用がないのです」
おりんが答えた。
「日ごろでしょう」
「おりんまで」
また笑いが起きた。
日が傾き始めたころ。
広元も帰った。
行嗣は一人、紙の前に座った。
昨日まで使っていた紙の端に、
三郎
と書いてある。
その横は空いていた。
筆を持つ。
行。
嗣。
ゆっくり書く。
少し曲がった。
もう一度。
今度は「行」が大きい。
三度目。
今度は「嗣」が詰まった。
「何してるの?」
あやだった。
行嗣は紙を隠そうとした。
「見るな」
「名前の練習?」
「違う」
「見えたよ」
「なら聞くな」
あやが隣へ座る。
紙を見る。
「三郎の方が上手だね」
「当たり前だ」
「ずっと書いてたから?」
「そうだ」
「じゃあ、行嗣もずっと書けば上手になるね」
行嗣は紙を見る。
三郎。
行嗣。
並べると、別の人の名前のように見える。
でも、どちらも自分だった。
「そうだな」
行嗣はもう一度筆を持った。
今度は、少しましに書けた。
あやが呼ぶ。
「行嗣兄上」
「何だ」
すぐに返事ができた。
あやが笑う。
「早くなった」
「当然だ」
「じゃあ――」
行嗣は嫌な予感がした。
「三郎兄上」
「何だ」
答えてしまった。
あやが声を上げて笑う。
「お前な!」
行嗣が立ち上がる。
あやが逃げる。
「母上!」
「呼ぶな!」
「三郎兄上が怒った!」
「行嗣だ!」
「返事したのに!」
「それとこれは別だ!」
家の奥から、まつの笑い声まで聞こえた。
今日、三郎は行嗣になった。
大江広元に烏帽子を着けてもらい、
新しい名を得た。
これから学ぶ場所も、少し見えてきた。
それでも家へ帰れば。
「三郎兄上!」
「だから行嗣だ!」
まだしばらくは、
三郎でもあるらしかった。
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【大江広元】
鎌倉幕府の成立期を支えた文官。
京都で官人としての経験を積み、源頼朝に招かれて鎌倉へ下った。幕府の文書行政や政務を支え、頼朝の死後も頼家・実朝・北条氏の時代まで幕政に関わった。
本作では、直成が仕えた人物であり、三郎の元服に際して烏帽子親を務めた。




