第24話 三郎は、元服が決まってもまだ三郎である
承元四年(1210年)、鎌倉。
年が改まって、しばらくたったころだった。
暦の上では春になっていたが、鎌倉の朝はまだ冷える。三郎は火の近くで指を温めてから、紙を数え直した。
父の残した紙ではない。これから仕事で使う、新しい紙だった。
大きさのそろったものを重ね、端を切って使えるものは別にする。その横で、あやが小さな紙を拾った。
「これも使えるよ」
「それは小さすぎる」
「一とか二なら書けるでしょう」
「それなら木札でもよい」
「紙があるのに?」
「紙は、ただではないんだ」
あやが三郎を見た。
「三郎兄上が、それを言うの?」
三郎は黙った。
そこへ、まつが来た。
「あやが紙を捨てさせてくれません」
「三郎が捨てる方なの?」
「姉上まで」
まつは笑って、小さな紙を一枚拾った。
「これは、文の下書きに使えそう」
三郎は姉の顔を見た。
京の藤原季成との文は、まだ続いている。
最近は、まつが一人で書くことも増えた。何を尋ね、何を答えているのか、三郎も全部は知らない。
「何?」
まつに聞かれ、三郎は首を振った。
「何でもありません」
◇
「三郎。少し話がある」
宗直が、板敷の向こうに立っていた。後ろには光成もいる。
二人とも、妙に真面目な顔だった。
まつが先に口を開く。
「今度は、本人に先に話すのでしょうね」
宗直が足を止めた。
「お前の縁談ではない」
「分かっています」
「なら、なぜ聞く」
「前が前だったからです」
ちよが白湯を運んできた。
「今回は、一緒に決めるための話よ」
「何をですか」
三郎が尋ねると、宗直が座った。
「そろそろ、お前の元服を進めたい」
三郎は、すぐには返事をしなかった。
元服。
髪や服装を改め、烏帽子を着けて、大人としての名を名乗る。武士の家の男子が成長したことを示す、大切な儀式だった。
三郎も、いつか自分が迎えることは知っていた。
それでも、いざ言われると、返す言葉が少し遅れた。
「……遅いくらいではありませんか」
宗直が眉を上げる。
「そう思っていたのか」
「仕事はしています。書き写しも、紙を届けることも」
光成が笑った。
「それなら、元服前でもできるぞ」
「兄上」
「できることがあるのは、よいことだと言っている」
三郎は次兄を見た。
光成は、今度は笑っていなかった。
「元服したから、昨日までできなかったことが、急にできるわけではないからな」
◇
あやが尋ねた。
「では、何が変わるの?」
「名が変わる」
宗直が答えた。
「名前が変わったら、別の人になるの?」
「ならない」
「じゃあ?」
宗直は少し考えた。
「任されることが増える。仕事も、人の話に加わることも」
三郎が顔を上げた。
「大人の話にも?」
「必要ならな」
それは、聞きたかった言葉だった。
三郎は、書き写しを頼まれることがある。人の名前や日付を確かめることもある。
それなのに、大事な話になると、向こうへ行っていろと言われる。
「なら、早くした方がよいでしょう」
「最後まで聞け」
宗直が言った。
「話に加われば、お前はどう思う、と尋ねられることもある」
「答えます」
「分からなかったら?」
三郎は止まった。
「分からないと言います」
光成が言った。
「それでも、決めなければならないこともある」
「間違えたら?」
「直せるところを直す」
「直せなかったら?」
光成は少し黙った。
「困る。だから、決める前によく見る」
三郎は兄を見た。
水や田のことを話すとき、光成は、こういう顔になる。
おりんが梅を連れて通りかかり、足を止めた。
「困ると、帰ってからもずっと考えています」
光成が振り返る。
「おりん」
「この前も、水路のことを考えていて、頼んだ薪を忘れたでしょう」
「翌日に取りに行った」
「ええ。だから、その分は直りました」
あやが三郎を見る。
「次郎兄上も、間違えるって」
「知っています」
「三郎」
光成が言うと、まつが笑った。
◇
ふみも顔を出した。
元服の話だと聞くと、三郎を見て微笑んだ。
「では、しばらく大変ですね」
「何がです?」
「皆が、新しい名前に慣れるまで」
宗直が少し目をそらした。
三郎は急に気になった。
「私の名は、何になるのですか」
ちよが答えた。
「これから相談するの」
「まだ決まっていないのですか」
「今日、あなたに元服の話をしたところでしょう」
宗直が言った。
「候補は考えている。ただ、広元様にもお話ししたい」
「広元様に?」
「これから、もっと仕事を教わりたいのだろう」
三郎はうなずいた。
大江広元は、父を知る人だった。
同時に、三郎がこれから覚えたい文書の仕事を、実際にしている人でもある。
「烏帽子を着けていただく方や、日取りのこともあるわ」
ちよが言った。
「一つずつ決めましょう」
三郎は、皆の顔を見た。
全部決まっていて、自分には最後に知らせるものだと思っていた。
まだ決まっていないのなら、尋ねたいことはある。
「名の候補も、聞かせてください」
宗直がうなずいた。
「もちろんだ」
まつが小さく笑う。
「私の名でしょう、と言うところだった?」
三郎は姉を見た。
「そうですが」
「やっぱり」
縁談のとき、自分が言った言葉を思い出したらしい。
三郎は少し居心地が悪くなった。
「姉上の話とは違います」
「自分のことを、自分も知りたいのでしょう。同じよ」
ちよは二人のやり取りを聞いてから、椀を持ち上げた。
「では、今日は元服の支度を進めるというところまでね」
◇
皆が用事へ戻ったあと、三郎は紙の前へ座り直した。
筆を取り、端へいつもの名を書く。
三郎。
その横に、少しだけ場所を空けた。
あやがのぞき込んだ。
「新しい名前を書くところ?」
「まだ、決まっていない」
「決まったら書くの?」
「そうだ」
あやは紙を見てから呼んだ。
「三郎兄上」
「何だ」
すぐに返事が出た。
あやが笑う。
「元服したあとも、返事しそう」
「まだ分からないだろう」
「そのとき、呼んでみる」
三郎は何か言い返そうとして、やめた。
大人になりたいと思っていた。
けれど、新しい名で呼ばれる自分を思い浮かべようとすると、まだ、少し難しかった。
紙の上の「三郎」は、手慣れた字で書けていた。




