幕間3 ちよは、直成への返事を自分で決める
元暦元年(1184年)、鎌倉。
朝になっても、ちよは何度も左手を見た。
薬指に、細い組紐の輪がある。
昨夜、直成から渡されたものだった。
少しゆるいので、気づくたびに、もう片方の手で押さえた。
――僕と、家族になってもらえませんか。
思い出すと、胸の内が少し落ち着かなくなる。
直成の話は長かった。
求婚の言葉を聞くまでに、年の差や仕事、まだ話せない昔のことまで聞いた。
それでも、最後の言葉だけは短かった。
家族になってほしい。
ちよは、その言葉をもう一度考えた。
父や母には、これから話す。
直成が二階堂の家へ入るとなれば、兄たちも黙ってはいないだろう。
けれど、その前に、自分の返事は決めておきたかった。
◇
直成は、紙を広げていた。
ちよが近づくと、すぐに顔を上げる。
「ちよ殿」
返事が、いつもより早い。
ちよは少し笑った。
「待っていました?」
「何をですか」
「私が来るのを」
直成は少し黙った。
「……はい」
「紙を見ていたのに」
「見ていたんですが、あまり進みませんでした」
ちよは手元を見た。
何枚かの紙が、きれいに並んでいる。
仕事の話なら、次々に説明する人だった。
自分が来るのを待っていたと言われると、ちよの方まで少し落ち着かなくなった。
「昨夜の返事ですが」
直成が姿勢を正した。
「急がなくても、大丈夫です」
ちよは顔を上げた。
「もう、考えました」
「一晩しか、たっていませんが」
「一晩、ありました」
直成が口を閉じた。
ちよは、その顔を見て、少し笑った。
「でも、返事の前に、一つ聞いてよいですか」
「もちろんです」
◇
「本当に、二階堂の家へ入るおつもりなのですね」
「はい。そのようにお願いしたいと思っています」
「家のことも、いろいろありますよ」
「そうでしょうね。僕の知らないことも多いと思います」
直成は紙から手を離した。
「教えていただきたいことがあります。仕事との兼ね合いも、ご家族と相談しなければ」
ちよはうなずいた。
「父や母に、何を言われても大丈夫ですか」
直成は答えかけ、少し考えた。
「……何を言われるかによります」
ちよは吹き出した。
「そこは、大丈夫ですとは言わないのですね」
「できるか分からないことまで、先に約束してしまうと困るので」
「直成殿らしいです」
「よい意味ですか」
「今は、そういうことにしておきます」
直成も少し笑った。
ちよは指の輪へ触れた。
もう一つ、確かめたいことがあった。
昨夜も聞いた。
それでも、もう一度聞きたかった。
「家の者が、よいと言っても、私が嫌なら駄目なのですか」
直成がちよを見る。
「はい」
「うちの家にとって、都合がよくても?」
「ちよ殿と、僕が夫婦になる話ですから」
返事は、昨夜と同じだった。
直成は少し迷ってから、続けた。
「もちろん、ご家族のことも大切です。ただ、あなたの気持ちを、聞かずに進めたくはありません」
ちよは黙って聞いた。
直成は、こちらの顔を確かめるように見ている。
その様子を見ているうちに、朝から考えていたことが、ようやく言葉になった。
この人と、まだ話していたい。
分からないことも、尋ねたいことも、たくさんある。
それを、明日も、その先も聞けたらよい。
ちよは顔を上げた。
◇
「返事をします」
直成の背筋が、少し伸びた。
「はい」
「私は、直成殿と夫婦になりたいです」
言ってしまうと、短かった。
直成は何も言わない。
ちよは待った。
まだ、返事がない。
「聞こえました?」
「はい。聞こえました」
「では、何か言ってください」
直成は、少し息をついた。
それから、ようやく笑った。
「嬉しいです」
ちよの手が、膝の上で止まった。
昨夜、自分もそう答えた。
同じ言葉を返されると、今度は自分が、何を言えばよいか分からなくなった。
直成が、もう一度言った。
「ありがとうございます」
ちよは少し目を伏せた。
「昨夜は、あんなに長く話していたのに」
「今日は、言いたいことが、まだうまくまとまらなくて」
「これから、家に話すのですよ」
直成が顔を上げる。
「そうでした」
ちよは、とうとう声を出して笑った。
「そちらは、覚えていてください」
「はい」
◇
直成が紙を片づけ始めた。
ちよは立ち上がり、数歩進んでから振り返った。
「今から行きますよ」
「少し待ってください。これだけ、しまいます」
紙を重ね、折れないように包む。
いつもなら、手間をかけるものだと思うところだった。
今日は、少し待っていてもよかった。
直成は片づけ終えると、ちよの前へ来た。
「お待たせしました」
ちよはうなずいた。
「父が何と言うかは、私にも分かりません」
「はい」
「兄たちも、何か言うと思います」
「覚悟しておきます」
ちよは家の方を見た。
まだ、決まっていないことは多い。
住む場所も、仕事も、家との関わりも、これから相談しなければならない。
けれど、自分がどうしたいのかは、もう伝えた。
ちよは左手の輪を押さえ、直成と並んで歩き始めた。




