第18話 北条政子は、まつの縁談についてちよと話す
承元三年(1209年)、鎌倉。
その日、北条政子は二階堂家を訪れていた。
尼御台所。
亡き源頼朝の妻であり、今も鎌倉では大きな存在である。
けれど、ちよの前に座っている政子は、今日は幕府の話をしに来たようには見えなかった。
ちよが湯の入った椀を置くと、政子はそれを両手で包んだ。
「ちよ殿」
「はい」
「今日は、少し家の話をしてもよろしいですか」
ちよは政子を見た。
「政子様がそうおっしゃると、かえって身構えてしまいます」
政子が笑った。
「戦の話でも、訴えの話でもありません」
「では、何でしょう」
「まつ殿のことです」
ちよの手が止まった。
「まつの?」
「ええ」
政子は少し間を置いた。
「縁談があります」
ちよは瞬きをした。
「まつに、ですか」
「はい」
「どちらからでしょう」
政子は相手の家の名を告げた。
ちよも聞いたことのある名だった。
鎌倉だけに暮らす家ではない。
京とのつながりが深い。
「京の方なのですね」
「ええ」
「話がまとまれば、まつは京へ?」
「その可能性があります」
ちよはすぐには答えなかった。
十六になる娘の顔が浮かぶ。
弟たちに小言を言い、あやの世話を焼き、家の中を忙しく動き回っている。
そのまつが、この家を離れる。
しかも行き先は京だ。
頭では分かっても、まだうまく姿を思い浮かべられなかった。
「なぜ、まつなのでしょう」
ちよは尋ねた。
政子はまっすぐ答えた。
「一つではありません」
「はい」
「二階堂家は、鎌倉で文の仕事に関わってきた家です。直成殿もそうでした」
ちよは黙って聞いた。
「鎌倉だけで物事が済むわけではありません。これからも京との間では、人も文も行き来します」
京には朝廷がある。
鎌倉には幕府がある。
遠く離れていても、どちらか一方だけで物事を決められるわけではない。
「京と鎌倉の間に、行き来のできる家があった方がよい、と」
ちよが言った。
政子はうなずいた。
「そう思っています」
「その一つとして、まつを?」
「ええ」
ちよは湯を一口飲んだ。
家と家を結ぶ。
婚姻には昔から、そういう役目もある。
二階堂家にとっても悪い話ではない。
家のことだけを考えるなら、むしろありがたい話なのかもしれない。
けれど。
「政子様」
「はい」
「まつ本人は、このことを知っているのでしょうか」
政子は首を横に振った。
「まだです」
「そうですか」
「だから先に、ちよ殿と話しておこうと思いました」
「私と?」
「私は縁談を持ってくることはできます」
政子は椀を置いた。
「でも、まつ殿を京へ嫁がせると決めることはできません」
ちよは政子を見る。
「政子様でも?」
「私だから、でしょうか」
「どういうことです」
政子は少し笑った。
「家と家のことが大切なのは分かっています。でも、夫婦になるのは家ではありませんから」
ちよは、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。
「政子様がおっしゃると、重みがありますね」
政子がちよを見る。
「何か言いたそうですね」
「いいえ」
「顔に書いてあります」
ちよは笑った。
政子も笑った。
「私も、人の縁談を家の都合だけで決められるほど、聞き分けのよい娘ではありませんでしたから」
「存じています」
「ずいぶんはっきり言いますね」
「有名なお話ですから」
二人は顔を見合わせて笑った。
政子は、若いころから人に決められた道だけを歩いてきた人ではない。
そのことを、ちよも知っている。
「ただ」
政子が続けた。
「まつ殿なら、京でもやっていけるのではないかと思ったのも本当です」
「まつが?」
「ええ」
「なぜです」
「自分で考えるでしょう、あの娘は」
ちよは少し笑った。
「よく怒りますよ」
「それも知っています」
「人の話にすぐ口を挟みます」
「それも」
「弟や妹のことになると、頼まれてもいないのに世話を焼きます」
「見たことがあります」
「では、政子様の方がよくご存じなのではありませんか」
政子が笑った。
「でも、知らないことを知らないままにはしないでしょう」
ちよは、その言葉で少し黙った。
「それは、そうですね」
「京へ行けば、鎌倉とは違うことばかりです」
習わしも違う。
人付き合いも違う。
知っている者の少ない土地で暮らすことになる。
「言われたことだけをする人より、自分で見て、聞いて、考えられる人の方がよいと思っています」
ちよは少し笑った。
「それは、うちの者には多いかもしれません」
「直成殿の影響ですか」
ちよは答えなかった。
代わりに、ずっと昔の夜を思い出した。
月の出た夜だった。
直成は、ちよの前で長い話をした。
自分は三十三で、ちよは十六であること。
氏を話していないこと。
財があるわけではないこと。
仕事で鎌倉を離れることがあるかもしれないこと。
それから、見たことのない小さな輪を、ちよの指にはめた。
――私と、家族になってもらえませんか。
家に話すより先に、ちよ本人へ聞いた。
順番が違うと、ちよは笑った。
すると直成は言った。
――まず、あなたの気持ちを聞きたかった。
あの夜から、もう二十五年が過ぎている。
あのとき二人で始めた家の娘に、今度は縁談が来ている。
「ちよ殿?」
政子の声で、ちよは顔を上げた。
「すみません。少し昔のことを思い出していました」
「直成殿ですか」
「ええ」
政子は、それ以上は聞かなかった。
ちよの方から話した。
「直成殿は、家に話すより先に、私へ求婚したのです」
政子が目を丸くした。
「先に、ちよ殿へ?」
「はい」
「それはまた、直成殿らしいですね」
「私も言いました。順番が違うのではありませんか、と」
政子が笑う。
「直成殿は何と?」
「私が嫌なら、家に話しても仕方がないと思ったそうです」
政子の笑みが少し変わった。
「なるほど」
「まず、私の気持ちを聞きたかった、と」
政子はしばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりうなずいた。
「よい順番だったのかもしれませんね」
「政子様がそうおっしゃいますか」
「また私と頼朝殿のことを考えましたね」
ちよは笑った。
「何も申しておりません」
「顔に書いてあります」
また二人で笑った。
やがて政子が言った。
「では、まつ殿にも聞きましょう」
ちよは政子を見る。
「本人に?」
「ええ」
「家の話より先に?」
「少しくらい順番が違ってもよいでしょう」
政子が笑った。
ちよも笑った。
「そうですね」
「京と鎌倉をつなぐことは大切です」
政子は続けた。
「でも、そのためだけに、まつ殿を嫁がせたいわけではありません。相手の家にも伝えてあります。まつ殿本人の返事を聞く、と」
ちよは少し驚いた。
「そこまで?」
「嫌だと言われたら、別の道を考えます」
政子は簡単に言った。
けれど、簡単なことではない。
一度始まった家同士の話を断るには、それなりの理由もいる。
それでも政子は、最初からまつが断る道を残している。
ちよは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まだ礼を言われるところではありません」
「では、まつに話します」
「お願いします」
「相手のことも、きちんと教えてください」
「もちろんです」
「どんな方なのか。どんな家なのか。なぜ、まつなのか」
政子が笑った。
「ずいぶんありますね」
「知らないままでは、あの子は返事をしません」
「誰かに似たのでしょうか」
「誰でしょうね」
そのとき、廊下の向こうから足音がした。
軽い足音だった。
ちよにはすぐに分かった。
三郎だ。
足音は座敷の前まで来て、一度止まった。
そして、そのまま遠ざかっていく。
政子とちよは顔を見合わせた。
「聞こえましたかね」
「どうでしょう」
「呼びますか?」
ちよは少し考えた。
そして首を横に振った。
「私から話します」
「そうですか」
「ええ」
ちよは、遠ざかる息子の足音を聞いた。
かつて、自分は直成に気持ちを聞かれた。
直成は、家より先にちよへ尋ねた。
そして、政子もまた。
若いころ、人に決められた相手をそのまま受け入れた人ではない。
だからなのだろう。
二人が最後にたどり着いた答えは、同じだった。
まず、本人に聞こう。
政子が立ち上がった。
「では、まつ殿の返事を待っています」
「はい」
「急がなくて構いません」
「ありがとうございます」
政子は数歩進んでから振り返った。
「ちよ殿」
「はい」
「まつ殿が怒ったら、私の名前を出して構いませんよ」
ちよは笑った。
「政子様が持ってきた縁談だと?」
「ええ」
「それなら、私への怒りが少し減るかもしれません」
「代わりに私が怒られるのでは?」
「たぶん」
政子は声を立てて笑った。
「それも仕方ありませんね」
政子を見送って戻ると、まつが庭の向こうを歩いていた。
あの子に縁談が来ましたよ。
ちよは、部屋へ入るところで足を止めた。
先に話しておきたかったことが、幾つもあった。季成という名も、京の家のことも。
まつがこちらに気づき、何か用かと顔を向けた。
ちよは首を振った。
娘が通り過ぎるのを見てから、座敷へ戻った。政子の使った椀を持ち上げ、重ねる相手のないまま、両手で台所へ運んだ。
その日の夕方。
ちよは、まつを呼ぶことにした。
まだ何も決まっていない。
京へ行くかどうかも。
誰と夫婦になるのかも。
だからこそ、最初に聞かなければならない。
まつは、どうしたいのか。
かつて直成が、ちよにそうしたように。
――北条政子
伊豆の豪族・北条時政の娘。
伊豆に流されていた源頼朝と出会い、のちにその妻となった。
ただし、二人の結婚は、最初から家に歓迎されていたわけではなかった。
伝承では、父・時政が政子を別の男へ嫁がせようとしたため、政子は家を抜け出し、雨の中を頼朝のもとへ向かったとも伝えられている。
のちに「尼将軍」と呼ばれる政子だが、その若いころにも、自分の結婚相手を自分で選ぼうとした姿が語り継がれている。




